歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「小さき声」を聴くこと

2008-03-20 |  宗教 Religion
「聖書は読むものではなくて聴くものなのだ」ということを、私はあるベルギー人の神父から云われたことがある。読むことと書くことも大事ではあるが、生きた言葉というものは、聴く言葉、語る言葉なのだというのである。日本の信徒が、「言葉の典礼」の時に、紙に書かれた聖書の文字を追いながら朗読を聴いているのが彼にとっては不思議でならなかったらしい。彼にとっては「活字」はすこしも活きていない言葉、言ってみれば記憶のための補助に過ぎないのであった。活きた言葉とは、聴く言葉であり、書物に頼らずに、自らが語る言葉なのであった。

松本馨さんの「小さき声」を復刻しながら、私はこの神父のことを思い出した。松本さんにとって聖書とは、何よりも聴くものであり、また、それについて語るものであり、そして何度も暗誦する内に、それを記憶し、いつでも必要に応じて、書物からではなく、自らの記憶の中からとりだして語ることのできるものだったのではなかったろうか。

松本さんの場合、聖書を朗読してくれる人がおり、また、自分のメッセージを口述筆記する人が常にいた。これは非常なハンディキャップであったように思う人が多いが、けっしてマイナスばかりであったとは言い切れない。松本さんと聖書との対話は、完全な孤独の中でおこなわれたのではなく、常に「汝」と呼びかけることの出来る隣人を前にして行われたのである。たしかに、自分自身で誤植をチェックしたり、資料にあたって正確を期すということはできなかったから、細々とした事実関係に関しては、思い違いや誤解が時々見受けられる。そのことを否定するつもりはない。しかし、松本さんのいっていることは、たとえどれほど極端に見えたとしても、大筋に於いて事柄の本質を突いていたという印象を与える。それは、彼の言葉が常に聖書に基づいた活きた「声」であったからだろう。

「小さき声」を復刻するに際しても、私はもとのテキストが持っていた対話性というものを見失わないようにしたいと思っている。復刻本を作るというプロセスの中で、松本さんの活きた言葉に触れることを大切にしていきたい。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沈黙の声

2008-03-20 |  宗教 Religion
今から25年ほど前のことであるが、今井館で、関根正雄の旧約聖書講義を聴いたことがある。その時の主題は旧約聖書に於ける「沈黙の声」というものであった。旧約聖書では、言葉だけでなく沈黙も又主題となるが、関根正雄の講義で特に印象深かったのは、旧約聖書列王記19:11-13の釈義であった。
「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
 新共同訳聖書で、「静かにささやく声」と訳されているヘブライ語を、関根正雄は「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳していた。私は、この旧約聖書講義を聞いて、はじめて目を開かれる思いがしたのを記憶している。のちに、このときの講義は、講談社から「古代イスラエルの思想家達」として出版されたが、その本のなかで関根正雄は、上の該当箇所を次のように釈義している。
「神の不在の確認の後の「声」は、テリエン(旧約學者)の考えるような神の現在の自覺の準備云々という程度のリアリティではなく、すでにそれ自身神の霊的現実であったと我々は解する。だからこそ、この声ならざる声を聞いてエリヤはその顔をマントで覆い、出て行って洞窟の口に立ったのではないか。(中略)沈黙の声すら霊的に聞けないものに、神はどのようにして語り得たであろう。肉の耳をもってではなく、霊の耳をもって神の声を聞いた経験のない人が、「神は語られる」といってもそれはテキストをなぞっているにすぎない。(中略)エリヤの聴いた「沈黙の声」についてデイヴィッドソンが1970年の論文で記していることは我々には示唆的である。風や地震や火を通してという今まで受け入れられてきた信仰のカテゴリーが死に絶えるときに、神は新しく見出される、という意味のことをデイヴィッドソンは言っているのである。」
「沈黙の声」という表現は私にとっては自然である。聖書自体がそのような声に満ちているようにさえ思われる。たとえば、神の創造された世界は「沈黙の声」を語ります。「話すこと」なく、「語ること」なく、その「声」も聞こえないのに、「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を示し、昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る」(詩編19)このような栄光に満ちた沈黙だけでなく、試練のなかでの沈黙もある。沈黙を破る言葉があるだけでなく、言葉を破る沈黙というものもある。聖書の中で示される「沈黙」を理解することによって、はじめて我々は聖書の言葉を理解できるということがあるだろう。やかましく響き渡る声よりもはるかに我々の心に響く沈黙というものがある。そして聖書自体、様々な箇所でそういう「沈黙の声」を主題としている。そういう「沈黙の声」を旧約聖書の様々なコンテキストの中で聴くということを私は関根正雄の旧約講義から教えられた。そして、それは決して関根正雄だけのことでなく、現代に生きるユダヤ教徒の(旧約)聖書釈義のなかにも見られるものである。たとえば、アンドレ・ネエルは『言葉の捕囚-聖書の沈黙からアウシュビッツの沈黙へ』(西村俊昭訳 創文社 昭和59年)のなかで、問題になっている列王記の箇所について次のように言っている。
「神は嵐の中にも、つむじ風のなかにも、火の中にも(カルメルの火)おられない。かれは<ささやくような小さき声>コル デママー ダッカー(19-12)のなかにおられるのだ。この表現もまた、きわめて皮肉な表現である。というのはそれは、神の唯一の声は「その沈黙」であることを、人間に教えているからである。こうして、二度の逆転がカルメルとホレブの継続場面の結合の中で同時に行われる。言葉の観念は価値を失い、沈黙の観念は積極的な価値に達する。神の言葉は自動的ではない。それは無価値であることを表明しうるし、失敗をももたらしうるのである。また、沈黙はもはや神の怒りないし神の拒否のしるしではない。それは言葉と同様、またそれ以上に、神の「現在」を表現する。この二枚織りの絵を通して、神の沈黙は象徴を変える。不活動の水準から、生命の水準に達する。カルメルの場面の夕べ、民は声を揃えて、「言葉」と「応答」の神こそ、生ける神と叫んでいた。そして今、ホレブの場面の夕べ、預言者エリヤは孤独のなかで理解する。生ける神とは「沈黙」と「引退」の神であることを。(中略)聖書は、たといそれがか細くとも、「沈黙の声」を語るとき、聖書自身が我々に聴くように招いているのではないだろうか」
かつては「言葉」と「応答」という雄弁なる対話の(政治的)世界にいた預言者も、孤独の中で、生ける神の「沈黙の声」に耳を澄ませますー「沈黙」と「引退」のただなかで、彼も又、自らの沈黙の言葉を語るであろう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする