歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

小笠原登の医療思想その1

2005-08-21 |  宗教 Religion
 昭和16年の「中外日報(浄土真宗系の新聞)」に掲載された小笠原登と早田浩の論争について言及したものはこれまでの文献にもあるが(たとえば大谷藤郎、藤野豊)、その詳細は十分に知られているとは言い難い。これは、戦前の日本に於ける救癩政策ー強制的な終生隔離政策-を推し進めていった光田健輔に代表される療養所学派と小笠原との間の論争を知る上で貴重な資料である。

 この論争の発端は、京大の皮膚科診療室を取材した新聞記事である。このあとで、国立療養所の医官、早田浩が、同じ紙上で反論し、小笠原登が、それに答えるという形で論争が展開された。

なお、当時の浄土真宗では、「大谷派光明会」が結成され、宗派を挙げて、「救らい」キャンペーンに参加していたことに留意すべきであろう。

「癩療養所の患者達は祖国を浄化する為に、療養所内に安住し、此処に骨を埋めることをいさぎよしとしてゐるのである」-などという文が当時のこの派の出版物に頻出している。小笠原登を取材したこの記事は、そういう光明会の活動とは別の流れが浄土真宗にあったことを示している。

まず、中外日報の昭和16年2月22日に「癩は不治ではない-伝染説は全信できぬ 小笠原博士談」という記事がでたことが論争の発端となった。
 癩は現在の学説では伝染病となっており、それは不治を約束されてゐる難病だという社会的常識すら有る。然るにこの癩伝染説に疑問符を持ち「癩は不治の難病にあらず」と断定したら、学会も一般社会もさだめて驚くことであろう。ところがこの逆説的な研究に身を委ねて去大正14年以来今日まで、実に16年間、孜々として倦むところを知らない人に京大医学部講師小笠原登博士がある。
實は、この記事の見出しには医学的にはやや不正確なところがあり、あとで示すように、小笠原登の考え方によると、癩は「不治の病」というのは迷信であると喝破してはいたが、らい伝染説を否定したのではなく、らいが危険な伝染病であることを否定したのであった。つまり、小笠原と療養所学派との論争点は、決して、「伝染説か体質説か」という二者択一にあったのではなく、「らいは強制隔離をおこなうほど危険な伝染病か否か」にあったと言うべきであろう。しかし、この点は後で又論じることとしよう。
 中外日報の記者は、次に小笠原登を次のように読者に紹介している。
 小笠原博士は愛知県海部郡甚目寺村大谷派円周寺の出で、令兄は現に大谷大学に教鞭をとってゐられる。兄弟とも五十を過ぎて独身で両人して荘厳院西之町に借家し簡素な自炊生活を続けて居られるが、博士は連日学内皮膚科特別研究室に屯して三十人たらずの入院患者と多数の外来患者を相手にこの貴重な研究を続けてゐる。癩の治療には祖父以来浅からぬ因縁があって、祖父は治療を求めに来た患者を本堂の縁に灰を積み、その上に新聞紙を布いて据らせこんねんに治療に当たったもので、しかも食事など家族も共にやるといふ大胆なやりかたで時に召使いのものの不機嫌を購はねばならぬことも多かったといふ。ともかくさういふ具合で博士の家は伝統的に癩患者をいたはり、その治療の為に考へ、至力をここに尽くすべく宿命づけられてゐるものとも見られるわけで、社員は博士の高き風格に直接してその篤実な学者的態度に撃たれた一人である。以下は博士の談話の要旨である。
ここで注意すべきは、小笠原の家が代々漢方医として癩の治療に当たっていたという事実である。彼は西洋医学だけではなく、東洋の伝統的な漢方医療にも通じていた。そして、祖父以来の豊富な臨床的な経験から、らいは決して危険な伝染病ではないこと、らいは決して不治の病ではないことを確信していたのである。光田健輔のように、らいの原因をらい菌のみに求め、その病原菌を強制隔離によって日本から撲滅しようと言う考え方を小笠原はとらなかった。彼は隔離ではなく患者との「共生」をめざす医療思想を説いたが、それは、伝統的な東洋の医療思想に根ざすものでもあった。我々は、あとで、小笠原の「漢方医学の再評価」という著作を検討するが、近代西洋医学一辺倒であった光田学派の非人間的な医療政策の問題点を、なぜ小笠原が戦前の時点において洞察し得たか、それを医の倫理の根源に遡って検証することとなるであろう。
 さて、中外日報の記者は、小笠原の談話を次のように伝えている。

癩は神代の昔からあったといひ伝えられて居り、大宝令の令義解にはすでにその伝染説が出てゐます。しかし、癩が果して強烈な伝染性のものなれば今日までに国中が癩で充満したといふやうなこともありませうが(何等予防の施設のなかった長き歴史に於て)嘗てさういふことを聴きません。

 小笠原は、らいという病気の原因を、病原菌だけではなく、それにたいして感染し発病する人間の体質ないし感受性、および患者の生活する衛生的環境の三つの因子の相関関係の中で捉えようとする。それを判りやすく示すものが、「鐘と撞木」の譬えである。
 今ここに一つの撞木があるとする。この撞木を用ゐるときには大きな鐘も小さな鐘も皆一様に鳴るといふならば頗る妙な撞木だといふので、この撞木を問題とせねばならぬ。しかるに反対に、この撞木を用ゐるときは何れの鐘も鳴らぬのであるが、唯一、二の特別の鐘のみが鳴るとしたならば、撞木を研究して見るよりも鐘の方を研究せねばならぬのである。今、癩の場合に於いては、癩は何れの撞木の場合に当て嵌まるかを考へるならば、癩の場合における病菌の関係は正しく後者の撞木の場合に合致するのである。

この鐘と撞木の譬えが適切であるという根拠は、次のような病理学的なデータがあるということを小笠原は指摘する。
 何故ならば、人体実験及びその他を考へ併せるならば癩菌はさほどに病原性を有するものでは無いといはねばならぬからである。即ち此場合に於ては癩菌の研究よりも寧ろ病原性の乏しい癩菌に遭遇して発病するがごとき体質のほうが問題とせらるべきであるとするのが私の主張であります。私が文献的に知ってゐる人体接種実験は約220例ありますが、この実験によって癩が現れたのは僅かに五例で、約2.3%に過ぎませぬ。またフィリッピンに於てこんな統計の出た実験があります。それは患者の子を親達から隔離して健康者の手によって養育した結果発病を見たのが23%、そのまま親の手元においたのが11.5%といふのです。これなども考へささるべき統計ではありませんか。
我々は「伝染病」という言葉の意味が決して一つではないという事を小笠原は指摘する。
 およそ伝染病にも二種の区別があり、広い意味のと狭い意味のとおのづから別れてゐます。広い意味からいへば、いはゆる飛火グサなども立派な伝染病でせう。癩はけだしこの広い意味における伝染病と申す外はありません。従って療養所も厚生当局も病菌の研究のみに専注しないで体質の研究に邁進すべきだと思ひます。
具体的には、国民の栄養の改善、衛生環境の改善のほうが、隔離よりも効果的であるという含意が小笠原説にはあった。それは統計的な考察から明らかであったが、其れにもかかわらず、人々が隔離政策を当然視したのは、癩は不治の病であるという考えに呪縛されていたからである。この不治と言うことについても、小笠原は再考を求めている。

 最後に私は癩の全治を確信するものでありますが、それは今日までの私の実験が立派に証拠だててゐてくれます。しかし、それを諒解して貰ふのには一つの前提が必要で、即ち病気が治るといふことは病菌が無くなって人体の組織を破壊する力がなくなったといふことを条件とせねばなりません。私の実験上、この条件に達したのは無数にあります。しかし、病歴の結果、指が屈んだとか、腕が曲がったとかいふ現象の残るのは、それが後遺症である場合、避けがたいことで、その現象のみを見て素人考へに彼の人はまだ癒ってゐないとするのは妄談であります。内臓の病気でも何処かに痕跡を残しているもので、その痕跡を突き止めてお前の病気はまだ治って居らぬといへば酷でせう。チプスの如き場合、三十年も潜んでいた病菌がまた再発するといふ事すらありますから、これらはよほど慎重に考へねばならぬところだと信じます。
この小笠原の談話を紹介したあとで、中外日報記者は次の如くコメントしている。
 博士の主張は最近学会の多く認むる所となり各地の療養所でもこれを尊重してゐるといふことであるが、取締関係上厚生当局では、まだこれに疑問符を残してゐるといふことである。社員は、博士の主張が徹った場合、その与へる社会的影響がどうであるかをも考へぬではないが、それよりも真実が明るみに出るといふことは医療文化のために喜ばしいことだと信じて敢へて博士の説を紹介した。なほ博士には「癩と佝僂病体質」「癩とヴィタミン」「二,三の皮膚病」「癩の話」などの諸研究がある。なほ、小笠原博士は最近全治した朝鮮青年を自坊に引とっていそぐ患者をそのベッドに入れようとして居られるなど涙ぐましい献身的なはたらきをしてゐられる。

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