土曜日午後一時より本郷の東大山上会館・大会議室でのカントアーベントに出席。プログラムは
第一部「研究発表」が
ハーヤー(ヘブライ的存在論)と物語 宮本久雄
であった。宮本さんのhayathologyを研究テーマとする講演の聞くのが本来の目的であったが、午後一時からの三つの研究発表も聞いた。こちらは、いずれも博士課程を終えて間もない若手の研究者であったが、そのなかではカルネアデスにかんする発表を興味深く聞いた。
カルネアデスについてはキケロによる間接的な報告しかないのであるが、プラトンのアカデメイアの後継者達が、外部の人間から「懐疑主義」者と呼ばれたのはなぜであろうか。そういう疑問を私はかねてからもっていたが、司会の神崎さんも同じ趣旨の質問をされた。もしアカデメイアの懐疑主義者達が學祖の衣鉢を継いでいるのであれば、彼等の「懐疑主義」は、セクストス等の感覚的現象論のごとき、心の平静を保つための「判断留保」に終始する消極的なものではなく、独断論を否定の弁証法によって解体していく「高貴なる懐疑主義」であったのではないか-そういうことを垣間見るような議論が、カルネアデスによるストア派の論駁にある。
ドゥルーズ哲学にかんする発表は、そのアフェクトの概念がホワイトヘッドのいうFeelingの概念にあまりにも類似しているのに驚いた。ホワイトヘッドは、FeelingがFeelerを目指すといったが、自我や主体をアプリオリに前提しないドゥルーズの哲学的立場においても同様のことが言えるだろう。対象の生成と主体の生成が同時的であること、「私は馬を見る」というとき、それは「私」という「もの」と「馬」という「もの」の間に成り立つ二項関係なのではなく、私という場に於いて「馬」が生成し、同時に、馬を見るものとしての「私」自身が生成するということー言うなれば主客二元の成立以前の純粋経験から、ものとしての主客の二元的成立をいかに記述するかが問題なのである。
「規範性」の解釈学にかんする発表は後期ヴィトゲンシュタインの規則に関する懐疑論をテイラーの所説を手掛かりにしつつ解釈学的に論じたものである。このような論点は既にアリストテレスやトマスによって習慣の概念によって考察されたものであるが、それを現代哲学の言葉であらためて論じ直したという印象を持った。ただし、ヴィトゲンシュタインは、「我々は規則に盲目的に従う」などと云っているが、これは「盲目的」という言葉の誤用である。規則はいつでも必要とあれば我々は分節化できるのであり、そのかぎりで「暗黙の了解」は決して盲目的ではないのだから。
講演終了後、ハヤトロギアの可能性について宮本さんとしばし歓談。ヘブライの存在論としてだけではなく、たとえば日本の美学や文学にも適用可能なものとして考えていくという点で、意見が一致した。私は、hayathologyを、道元の正法眼蔵の用語をつかい「現成論」と訳すつもりである。生成消滅の意味での「生成論」から区別したいからである。
第一部「研究発表」が
- 懐疑論と運命論 -カルネアデスの議論を中心に 近藤智彦
- ドゥルーズ哲学に於ける「アフェクト」概念の内実と意義について 原一樹
- 「規範性」の解釈学的構造について-「了解」概念を手掛かりに 飯島裕治
ハーヤー(ヘブライ的存在論)と物語 宮本久雄
であった。宮本さんのhayathologyを研究テーマとする講演の聞くのが本来の目的であったが、午後一時からの三つの研究発表も聞いた。こちらは、いずれも博士課程を終えて間もない若手の研究者であったが、そのなかではカルネアデスにかんする発表を興味深く聞いた。
カルネアデスについてはキケロによる間接的な報告しかないのであるが、プラトンのアカデメイアの後継者達が、外部の人間から「懐疑主義」者と呼ばれたのはなぜであろうか。そういう疑問を私はかねてからもっていたが、司会の神崎さんも同じ趣旨の質問をされた。もしアカデメイアの懐疑主義者達が學祖の衣鉢を継いでいるのであれば、彼等の「懐疑主義」は、セクストス等の感覚的現象論のごとき、心の平静を保つための「判断留保」に終始する消極的なものではなく、独断論を否定の弁証法によって解体していく「高貴なる懐疑主義」であったのではないか-そういうことを垣間見るような議論が、カルネアデスによるストア派の論駁にある。
ドゥルーズ哲学にかんする発表は、そのアフェクトの概念がホワイトヘッドのいうFeelingの概念にあまりにも類似しているのに驚いた。ホワイトヘッドは、FeelingがFeelerを目指すといったが、自我や主体をアプリオリに前提しないドゥルーズの哲学的立場においても同様のことが言えるだろう。対象の生成と主体の生成が同時的であること、「私は馬を見る」というとき、それは「私」という「もの」と「馬」という「もの」の間に成り立つ二項関係なのではなく、私という場に於いて「馬」が生成し、同時に、馬を見るものとしての「私」自身が生成するということー言うなれば主客二元の成立以前の純粋経験から、ものとしての主客の二元的成立をいかに記述するかが問題なのである。
「規範性」の解釈学にかんする発表は後期ヴィトゲンシュタインの規則に関する懐疑論をテイラーの所説を手掛かりにしつつ解釈学的に論じたものである。このような論点は既にアリストテレスやトマスによって習慣の概念によって考察されたものであるが、それを現代哲学の言葉であらためて論じ直したという印象を持った。ただし、ヴィトゲンシュタインは、「我々は規則に盲目的に従う」などと云っているが、これは「盲目的」という言葉の誤用である。規則はいつでも必要とあれば我々は分節化できるのであり、そのかぎりで「暗黙の了解」は決して盲目的ではないのだから。
講演終了後、ハヤトロギアの可能性について宮本さんとしばし歓談。ヘブライの存在論としてだけではなく、たとえば日本の美学や文学にも適用可能なものとして考えていくという点で、意見が一致した。私は、hayathologyを、道元の正法眼蔵の用語をつかい「現成論」と訳すつもりである。生成消滅の意味での「生成論」から区別したいからである。