明けない夜はない

膣ガンステージ、肝臓に遠隔転移あり。只今経過観察中。そんな私の心の叫びと、乗り越えて来た事、あれこれ。

渡せなかったスピッツ

2007-05-17 16:27:06 | 現在日記や、つぶやきとか

昨夜から降り続いた雨が、今朝もずっと降っている。

5月15日、20時42分、彼女は40年の生涯の幕を閉じた。

私は、12日に彼女に会いに行って、沢山は話せなかったけど、
彼女の「又今度ね!」の言葉を胸に、私にしか出来ない事、それを少し考えていた。
考えても、中々答えが見つからない。
じゃ、悩んでるくらいなら、行ってみるだけ、行ってみよう!そう、決めた。

自分の中で決めた日、それは16日の水曜日。
この日の午後を目指し、行こうと決めた。スピッツ持ってね。
彼女自身の連絡先は知っていても、ご家族や、ご両親の連絡先を、
聞くのを忘れていたので、道理に反しているとは思ったが、彼女の入院している、
私も世話になっている、病院の病棟へ主治医宛に、15日の夜、電話を掛けた。
彼女の病状、容態を聞きたくて。

電話に出た看護師曰く、主治医Nは、処置中との事。
そしたら、又掛けますと言って、40分後くらいに又掛けた。
でもまだ、主治医は診察+処置中との話しで、結局申し訳無いとは思ったが、
電話を我が家に掛け直してもらう事にした。

私が治療中の時も、幾らしょうもない事であっても、いつも主治医Nは電話を、
掛け直して、対応してくれていた。
でも、この日は、何分待っても、何時間待っても電話は鳴らなかった。
私は胸騒ぎがした。

後から知ったが、そう、丁度この時、彼女のお見送りをしていたから。


翌朝、私は1時間も早く目が覚めた。
いつもなら、2度寝をするが、この日はなんとなく起きよう、そう思い、体を起こし、
ベッドを降りようとしたら、携帯が鳴った。
朝の6時半前の出来事。

送信者は、彼女のメアドだった。私の胸騒ぎは、当たっていた。
旦那様が、彼女の携帯から、私宛に
『最後のお別れをしに、よろしければ、おいでください』とのメールだった。
私は、落胆した。今日これから、準備して会いに行こう、スピッツ持って、
行こうって思っていたのに。もう会えないなんて。

お別れの儀式は18時からとの事だったけど、私はぽっかりと開いた胸の中を、
どうやって埋めようか、18時までどうやって過ごせば良いの?
そうやってぼーっと考え、家に居るのが嫌になり、ふらふら彷徨った。
彷徨いながら、いっぱい泣けてきた。
下を向きながら歩いたら、涙がいっぱい落ちるから、上を向きながら、歩いた。
周りの人達に、ヘンテコに思われてたけど、良いもん。
だって、悲しいんだもん。淋しいんだもん。悔しいんだもん。

相方が、半休をとってくれて、午後から戻って来てくれた。
こう言う時、側に居てくれて、ありがたい。ありがとう。

お別れの儀式の場所まで、ここからはかなり距離がある。
車で高速使って、40分くらいか。
いつも通う外来の道と同じ道。でも、この日はちょっと違う気持ち。
お別れの儀式は、病院近くで、行われた。18時に始まる。

ちょっと早めに着いたけど、係りの人に促され、中へ入った。
すると、ふっくら可愛い彼女のベストショットが3つ、こちらを向いて微笑んでる。
それを見た瞬間、涙が溢れ出て、どうしようも無くなった。
だって、最後の最後は、とっても彼女は痩せてしまっていたから。
そして、本当に、居なくなっちゃったんだなと、実感した。

私は泣き顔でぐしゃぐしゃなまま、相方に支えられ、彼女の旦那様と息子さんに挨拶をし、席に座った。
残された息子さんは、今年高3だけど、とても真面目な感じの、可愛い、坊ちゃん。
まだ、「母親の死」と言う現実を直視出来ていないようだった。

儀式が始まっても、私は上の空で、終始彼女のベストショットを見ながら、
最後の苦しかった姿を思い出し、リンクさせ、たまらなくなった。

最後のお別れの時、旦那様が私達に

「是非、顔を見てやって下さい」

そう言って下さったから、棺に入っている彼女に会った。
お化粧をした彼女が、眠っていた。ほんとに、「ねえねえ、起きてよ!」って言えば、
「あ、ごめーん」なんて、いつものように、起きてくれそうな、
そんな風に、静かに眠っていた。とてもキレイだった。

棺の近くに、ご両親と弟さんが居られて、話しをした。
お母さまは、私を見るなり、泣かれて、

「辛いところを、見せてごめんね、でもあなたには、娘の分まで、
 これからも、ずっと生きて欲しいの」

そう言って、私を軽く抱きしめた。私はたまらず、

「・・・私、結局何も、してあげられなかった」

声にならないような、涙声でそう伝えると、ご両親が、

「とてもあなたとの事、喜んでいたわ。ありがとう!」

そう何度も、言って下さり、私はとても嬉しかった。
そして、

「最後の見送りは、先生方皆さんで、送り出してくれたんだよ、
 沢山の先生達が見守る中、静かに眠りにつきました。
 そして、その後は、看護師さん達が、お風呂に入れてくれて、
 きれいに髪も洗ってくれてね、
 娘は、本当に喜んで旅立っていったって、思ってます。」

そう、教えて下さった。彼女は、主治医Nを最後とても信頼していたから、
最後まで、主治医Nに診てもらえた事、とても嬉しかったって思う。

一際目立って私は、しゃくりあげて泣いていたけど、
他の参列者の方々は、きっと彼女の闘病で辛かった日々を知らない。
日に日に、衰弱していく彼女を支えていた、ご家族。
計り知れない、悲しみがそこにあった。

私は、恥かしながら、終始泣きっぱなしだったけど、
最後の最後、お別れする時に、
旦那様に、彼女へ渡すつもりだった、「スピッツ」のCD2枚組みと、
最後に会った日、彼女が涙をぬぐった私のハンカチを、
「一緒にもたせてあげて下さい」と言い、預かってもらい、そこを後にした。
時間は、19時前だった。


そこから私の通う病院まで、すぐ近く。
私は友達を失ったショックと、病気への恐怖、昨日の悪いタイミングで
電話をした粗相、諸々を直接会って、主治医Nと話したくなった。

予め相方が、病棟へ連絡を入れてくれ、

「こちらのワガママで、何か用事があると言う訳では無いのですが、
 妻がN先生と、お話ししたいと申しております、少し会えませんか?」

そう、電話に出た看護師に、言ってくれた。
その看護師は、運良く私の担当看護師だったYちゃんだった。
もちろん、主治医Nは、他にも沢山の患者さんを持っていて、いつも、忙しい。
でも、今少し手隙きだから(実際ホントかどうかは、わからないけど)
気を付けておいで、と言ってくれた。
ありがとう。

10分くらいして病棟に着き、喪服姿の私達が恐縮しながら、
ナースステーションの前でもじもじしてると、看護師Yちゃんがすぐ気付いてくれて、
後にすぐ主治医Nが、私達に気付いてくれた。
主治医Nは、そこから、私達の方へやってくる際、
何か自分に言い聞かせてるようだった。
先生だって、辛かったんだ。
そしてちょっと間を取りながら、私達の方へ来てくれた。

しばし、私はN先生を直視し、涙が出ないよう、踏ん張った。
N先生も、こちらを直視し、言葉の無いまま、

「悲しいね、淋しいね」

を、目で話した。いつもクールな主治医Nだけど、
N先生の目には、こみ上げそうな涙が浮かんでいた。
私は最初に、

「昨日悪いタイミングで電話をしてすみません。
 その後先生から連絡が無かったので、辛い結果になったんだな、と察知しました。    
 今朝、旦那様から連絡があって、さっきお別れを言って来ました。」

と、言ったら、
N先生は、

「電話があった頃、彼女の処置中でね・・・、最後の数日間は、
 意思の疎通がはかれなくて・・・。・・・。・・・。」

と言った。
どうやら私が訪れた12日くらいを最後に、話せなくなったようだった。

そして、私はN先生に、

「彼女は、最後までN先生に診てもらえた事、とても嬉しく思っていたと思います。
 とても先生の事を、信頼していました。私もいつか逝く時が来るでしょう。
 その時は最後までN先生に診て頂きたいと思いました。
 因みに私、80歳まで生きるつもりですからね。」

と、皮肉を交えて主治医Nへ言うと、

「クランベリーさんが80歳と言う事は、僕も80歳まで生きなければ、
 ならないって事だね。ひぇー」

と、笑いながら言った。
そして、私は、

「先生、絶対に、辞めないでね」

そう告げると、

「うん、辞めない。辞めへんって(^_^)v」

と強く言ってくれた。
これから先、人事はどうなるにせよ、嬉しい言葉だった。
そして、主治医Nは、付け加えるように、

「クランベリーさんは、治療が上手くいったんだから!!!ね」

と、今までに見た事の無い、優しい表情で、私に言った。

「これからも、よろしくお願い致します」

と言って、一礼し、向き直して、エレベーターの方へ歩いて行った。
その間、私達の背中をずっと見送ってくれた。
何度も途中振り返ると、主治医Nが、こちらを向いて、笑っていた。

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Iさん私、これからも、どんと来いだからね!
笑って、毎日を過ごすよ。1日1日を大切に。
きっと、私がムダにしたその1日は、あなたは迎えたかった1日かも知れないから。

泣いてしょげた私を、空から叱ってね。
そして、最後に渡したスピッツ聞いて、私を思い出してね。
涙が出て来た時には、最後に渡したハンカチで、涙を拭いてね。

3月に再会したあの日の数日前に、彼女はいつもの抗がん剤投与のつもりで、
入院して来た。
何もかもを、やり残した、置いた状態で。

3月の外来の日、私がCT検査だけだと思って訪れたあの日、
急遽入ったMRI検査のおかげで、又会えたね。
そして、最後の日を迎えるまで、いっぱい文字を通して話せた事、
嬉しかったわ。そして、直にも沢山話せた。
あの日、私にこう言ったね。

「私の命は、どうやら夏までらしいよ」

こう、笑いながら言ってたけど、心の底では信じられなかったし、
信じたくなかったし、受け入れたくなかったはず。
でも、いつも気丈だった。

「私がクランベリーさんと、同じ頃に病気が発症していたら、
 あなたは、孤独にならずに済んだのにね、ごめんね」

こんな事も、言ってくれた。当初私は、ずっと一人ぼっちだった。
やっと治療も山を越えるか?と思えた放射線治療の入院で、
Iさんと初めて会ったから。

そして、3月に出会ったその後、腎臓に管を入れる手術があった。
腎臓は背中にあるから、手術の時、めっちゃ痛いって、涙が止まらなかったって、
麻酔が効き難かったって、私にメールで泣いてたよね。
それを乗り越えたのに。

そして、毎日食欲が無い、でもオムライスが食べたいわ~☆
なんて、言って病食を止めて、車椅子の誘導がヘタクソな私だったけど二人で病院内にある喫茶店に、オムライスと、抹茶パフェ(私)食べに行ったよね?
その時の、食欲、とっても私嬉しかったよ。
全部は食べられなかったけど、8割は食べる事が出来、それがパワーになったもんね。

でも、もう一つの腎臓も、悪くなって、結局腎臓2つから、
管を通さねばならない選択に。
悔しくて、辛くて、いっぱい泣いたよね。
でも、主治医Nを信じて、やってみよう!そう私が言ったら、
翌日、嫌だけどやってみるって、そう言って、手術受けたよね。

背中から管が2つも出ているから、横向きにしか寝れないって、
ツラカッタよね。寝返りしたいって、気を遣ってナースに言えず、
我慢しながら、耐えたよね。

ちょっと弱気になった彼女は、私に、

「死ぬのって痛いのかな?」

そんな事を、何度も聞いたよね。
私は、何でそんな事聞くの?って言ったら、

「冗談で、私の誕生日は、5月12日なんだけど、先生私、それまで生きられますかね~あはは~って言ったら、主治医N先生固まって、
 正直それは、微妙だねって、言うねん。N先生、私に元気になるような事、
 ひとつも言ってくれへんねん。もー意地悪やわー」

って笑い飛ばしてたけど、実際怖かったんだよね。
自身の変化に気付いていって、体も辛くなって来て。

最後に会えた、あなたの誕生日の日には、意識も混濁していて、
少しつらそうだったけど、お誕生日おめでとう~☆の言葉に、

「私、どうせ死ぬなら、なんで40歳に神様はしたのかな。
 39歳で死にたかったわ」

って。私、何も言えなかった。

彼女が最後に私に言った、「今度ね!」は、果たせなかったけど、
あなたの気持ちは、受け取ったよ。ありがとう。

私は、彼女の40年のうち、
たった1年しか知らないけど、そんな1年間でも、辛かった事、
嬉しかった事、楽しかった事、泣いた事、いっぱい一緒にしたよね。

ここを訪れ、私の記事を読んで下さった方々が、
直接彼女を知らなかったとしても、その一瞬でも想ってもらえれば、
思い出してもらえればと思います。
私なら、そうやって、思い出話をずっとしてもらいたいって思ったから。

ねえ、Iさん、お別れ言いに行ったあの晩は、雨が降って来たよ。
神様も、涙を流していたんだね。

出会えて嬉しかった、どうもありがとう。
私は、一生あなたと言う女性を、絶対に忘れないわ。