浅田次郎の霞町物語を読みました。
主要な登場人物と設定は・・・
深川の鉄火芸者だったお婆さん、
そのお婆さんを大借金して身請けしたお爺さん。
お爺さんは東京の麻布で写真館を営み、その写真館の2代目で入り婿のお父さん。
そして高校生の「僕」と母親らが織り成す8編の短編からなる小説です。
読み続けるうちに自分の生い立ちと重なるような感じがして切なくも儚い、そして懐かしい感じになりました。
私が20歳ぐらいまでウチの実家は、親父にお袋に兄貴に婆さん、そして叔父さん(母親の弟)と婆さんの妹と、私を含めると7人の大家族でした。
ウチの母親は墨田区本所出身のチャキチャキの江戸っ子で婆さんの妹はそれこそ向島の芸者さんでした。一度は嫁にいったらしいのですが、出戻ってきて芸者をやるしかなかったとよく話していたのを覚えています。
婆さんは婆さんでお祭り好きの人懐っこい人で、お囃子の音がすると何処でもいってしまうような人で、屈託のない悩み事なんかないような人だけど、実は関東大震災や東京大空襲を乗り切り、そして実母・継母・爺さん・最愛の叔父さんまでを気丈に看取った本当に芯の強い女性です。
夜遊びに出掛ける私に二人がよく言ったものです。
「このサンピンヤグラ、悪いことだけはするんじゃないよ。」と。
霞町物語にこんな出来事が書かれています。
「婆さん」と「僕」が芝居を観にいった帰りがてらのこと。
夕飯のかき入れどきで込んでいる寿司屋で、席に着いた途端ものの数分で寿司で運ばれてきた。
とたんに怒り出し、御代を置いて店を飛び出す「婆さん」。「僕」が理由を問い質すと・・・
『座った途端に出てくる寿司なんてあるものか。あれははなっから握ってあったんだ。いくら忙しいからって、お客をこけにしちゃいけない。―おなか、すいたろう。鰻でも食べようか。』
気を取り直して「婆さん」行きつけの鰻屋の暖簾をくぐる二人。女将と「婆さん」の長い世間話に業を煮やした「僕」が一言・・・
『遅いね、お婆ちゃん』
またまた、とたんに怒りだし「僕」の手の甲をいやというほど叩く「婆さん」。そして婆さんのお言葉・・・・
『おまい、鰻屋で早くしろは口がさけたって言うんじゃないよ』
『うまい鰻はそれだけ手をかけて焼くんだ。鰻の催促は田舎者ときまってる』
早い寿司は食うな、遅い鰻は催促するなと、江戸前の作法はなんとやかましいのだろうと・・・。「僕」は語っています。
ウチのババア(下町では最上級に愛情をこめた呼び方)どもも、こんなことばかり言ってました。婆さんの妹は2年前に亡くなりましたが、婆さんは御歳94歳まだ生きてます!
お盆休みにからかいに行くとするか。
アメリカ人は皆太ってました。






そして全てが規格外。
ネバタ州の風力発電はこんな感じです。風車が200基ぐらいはありました。

そした何故か裸でロッククライミングしている人がいたりして・・・・・

ホント、アメリカって変な国です。
三保の松原に行ってきました。といっても随分前ですが。
当日は天気も悪く、富士山も見えませんでした。晴れた日にここの海岸線から見える富士山は、とても美しく颯爽としているので機会があれば是非ご覧になってください。
さて、三保の松原は日本新三景に数えられている名勝ですが、日本新三景って知っていましたか。
日本三景は宮城の松島、京都の天橋立、広島の厳島と勿論ご存知のことと思いますが、日本新三景なるものを完璧に答えられる人は少ないんじゃないでしょうか。
正解は北海道の大沼、大分の耶馬渓、そして静岡のここ三保の松原だそうです。
1915年にある出版社主催による全国投票で選定されたそうです。
一方の日本三景は江戸時代の儒学者、林春齋が自らの著書『日本国事跡考』に書いたのが始まりとされています。江戸の昔はそうそう見に行くことも出来なかったでしょうから絵や書籍または口伝えで名勝の世界が広がっていったのでしょうね。そういう時代もなんだか羨ましいです。
全然関係ないですけど、ミウラがまた寝てました。減給です。
相変わらずの無計画っぷりを発揮して、
今日暇だなー、あっお伊勢さん行こう!
みたいな感じで車で往復12時間かけて行って来ました。
メチャ混んでましたけど、パワーを感じました。行って良かったです。
伊勢神宮は内宮(ないくう)と外宮(げくう)があり、内宮は天照大神を、外宮は豊受大神宮を祭っています。岩戸隠れで知られる天照大神は卑弥呼と同一人物ではないかという説もあるそうです。源義経がチンギスハーンになった!みたいな話ですね。
ヘソを曲げた、天照大神のために八百万の神が集まりご機嫌を取ったというのが岩戸隠れの神話ですけど、神話の世界でも昔も今も男性は女性に振り回されているんですね。
伊勢神宮の横に流れる五十鈴川です。綺麗でしたよ。
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