ebakam art studio blog

眞壁 陸二

鴻池朋子展とモニーク・フリードマン展

2011年11月24日 | Weblog
今週から始まった素晴らしい絵画の展覧会を二つ
最初はギャラリーSLANTで開催している鴻池朋子展。

数年前に六本木森美術館で見た「ストーリーテラーズ」で彼女の作品を初めて見た時「こんな手がまだあったのか」とびっくりした素晴らしい画家。

画面は濃密な色彩とハッチングのような強烈にうねるグルーヴ感のある描画方法だ。
画面から艶かしくこの世のモノものでは無い「妙」を感じた。
以来彼女の大ファンの一人。

今回は絵本の原画展ということで鉛筆画による小品
濃密な鉛筆デッサンのような絵だが現実を超えた世界を描いている。

また震災後の活動として東北に本を送るという「みみお図書館」なるプロジェクトを立ち上げ絵本の寄贈を募っています。
トークショーでは「震災以前、社会との関わりを意識して作品をつくっていなかった」と語っていたが、震災の経験から自分が変わらなくても周りが変わっていった。
どちらかというと外向きの作品ではなく、ひたすらに内側を向いた作品を作り続けてきた鴻池さんだが、そうであるからこそあの独自の世界感が実現出来たのだと思う…

たしかに現在の社会を簡単にアジテーションしたりイラストレーションした作品は作っていない。作るべきではないと僕も思う。
現代アートは、やもすると即物的に時代を映したり批判したりしたものと思いがちだが、そうではない
その同時代の空気を吸い感覚を敏感に研ぎ澄ましインプットする必要はあるが 出力の仕方は様々であってしかるべきだ。

金沢美大構内でおこなわれた講義ではディスカッションの中で学生たちのアートの無力さのほうが意見としては多数派だった

アートの無力さを口にする学生が多かったが、そうあってほしくはない
911同時多発テロから10年、阪神淡路大震災から17年、広島と長崎に原爆が落とされて大戦が終わり戦後66年。
いくつもの大きな災害天災があったがその度に何度も乗り越えてきた。

「今しか描けないこと」今だから描けることを感じてを描けばいい

現代アーティストであるなら いつの時代でもその時代の感覚を感じていなければならないと思う
でなければただ奇麗な色や線で絵を描き彫刻を彫ってしまってはただの美術や工芸品となってしまう
僕は時代を「自分の感覚で感じ取った目に映らないコトを抽出」したようなと言うか、「言葉なき言語」のようなものと言うか そんなものががアートだと思う。
「言葉で言えないけれど感じるものや事」それを表現したいのだ。

長くなってしまったのでモニーク・フリードマンの話は次回に持ち越し