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御神楽の厳かな調べ 遷宮に幕

2013-10-07 10:43:55 | 社会

http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20131007086.html
2013年10月7日(月)08:05
産経新聞

 伊勢神宮(三重県伊勢市)の式年遷宮は、外宮(げくう)でご神体を移す「遷御(せんぎょ)の儀」から一夜明けた6日、雅楽などを奉納する「御神楽(みかぐら)」などが営まれ、8年にわたる内宮(ないくう)と外宮の遷宮が幕を閉じた。

 御神楽は、午後7時から天皇陛下の勅使や臨時祭主の黒田清子(さやこ)さんらが参列する中、宮内庁の楽師12人が遷宮への祝意を込めた神楽や雅楽を奉納。厳かな調べが社に響き無事、遷御が終わったことを祝った。

 この日は、内宮と外宮の遷御が終わって最初の日曜日とあって、午前5時の開門から終日、人の波が参道を埋めた。

 内宮同様に天皇陛下からのお供えを神様にささげる儀式「奉幣(ほうへい)」には、秋篠宮さまも参列され、参拝客は正宮(しょうぐう)に向かう神職らの参進を見守った。

 伊勢神宮では10日に別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)、13日に多賀宮(たかのみや)で遷御があるほか、残る12別宮の遷御も平成27年3月までに終える。

 伊勢神宮の式年遷宮での儀式や行事参列のため三重県を訪問していた秋篠宮さまは6日、帰京された。

「変わらぬもの」の大切さ 式年遷宮で知る“幸せ”
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/snk20131006533.html
2013年10月6日(日)17:28
産経新聞

 2日夜、伊勢神宮の内宮(ないくう)(皇大神宮(こうたいじんぐう))にいた。ご祭神の天照大神(あまてらすおおみかみ)が、新しい住まいへとお移りになる「遷御(せんぎょ)の儀」の始まりを待っていたのだ。

 午後6時、神楽殿前。薄闇の中、松明(たいまつ)を先頭に正装した神職が次々現れ、目の前を通り過ぎていった。150人はいるだろうか。映画のシーンを見るようで、静寂を破るのはザッ、ザッという玉砂利を踏みしめる浅沓(あさぐつ)の音だけである。

 ■秋の宵、震える時間

 「カケコー…」。午後8時前、天岩戸(あまのいわと)開きの神話にちなむ鶏鳴(けいめい)(ニワトリの声)を機に、遷御が始まった。西隣に完成した新社殿まで、ご神体、ご神宝を遷(うつ)すのだ。この間の距離は約300メートル。秋気の中、息をのむ時間が過ぎていった。

 20年前を思い出した。平成5年10月2日土曜日。大阪にある新聞社の大部屋で社会部デスクとして、朝刊づくりにあたっていた。伊勢の現場から送られてくる生々しいリポートを、どこかうらやましく感じつつ出稿したのを覚えている。

 以来、遷御のもようをこの目で見たいと思っていた。その機会が、ようやく訪れたのだ。前日から伊勢に入り、境内を歩き回った。そして臨んだ盛儀の瞬間。厳かな空気にふれ、身が、そして心が震えた。

 長い間、宗教記者として神事や仏事を取材してきた。その多くが「秘されるもの」だった。とくに神道では、神迎えは夜間に行われる。平成元年暮れ、奈良・春日大社の「春日若宮おん祭」の遷幸に立ち会ったのも、暦が変わる深夜だった。

 ■式年遷宮の「真の意義」

 若宮社から境内に設けられたお旅所の仮御殿へ、一日限りの外出を楽しまれるご祭神。闇の中、ご神体を中心にした一行が進んでゆく。「ウオー、ウオー」という神職たちの先払いの声は、夢のような響きで今も耳朶(じだ)に残っている。

 京都の「葵祭」では、上賀茂神社の神迎え「御阿礼(みあれ)神事」に出立する神職たちを拝した。夜間、近くにある神体山・神山(こうやま)から降りてくるご祭神を迎える神事である。「日本の神様は見るものではありません。五官で感じるものです」。案内の宗教学者からこう聞かされ、なるほどと思った。

 伊勢神宮の式年遷宮は、持統天皇4(690)年に内宮で初めて行われた。社殿から装束、神宝まで、そっくり新しく造り替える一大イベントが、1300年以上にわたって続けられているわけだ。

 私たちの日常の暮らしでは、壊れたり傷んだりしたものは修理して、できるだけ長く使うのが美徳である。費用と手間のかかる「完璧な造替(ぞうたい)」をなぜ、あえて繰り返すのだろう。

 世の中は移り変わり、さまざまな形で進歩、発展していく。古いものは打ち捨てられ、人々の欲望を満たすライフスタイルが登場する。しかし一方で、「変わらないもの」や「変わってはならぬもの」も、確かに存在するのだ。

 人智を超えた力を畏れる心はもちろん、親子や夫婦の情愛、礼儀や信義、歴史や伝統を大切にすることもそうだろう。

 伊勢神宮が守ってきた皇室の永遠、「稲作」に代表される自然と共存する生き方は、今後も大事にされねばならない。20年ごとの式年遷宮は、その決意を私たちが再確認する機会なのではないか。

 ■頭垂れ、手合わす若者

 もちろん、式年遷宮にも危機がなかったわけではない。戦国時代には、戦乱が続いて神宮の財政が窮し、120年以上にわたって途絶えた。

 また明治42年の式年遷宮の前には、内務大臣と宮内大臣が「ヒノキの大材を求めるのは将来は難しく、(掘立柱(ほったてばしら)でなく)礎石を用いれば200年はもちましょう」という“提言”をなした(『明治天皇紀』)。

 幸いにも、明治天皇がこれを許さなかったことで、伝統は守られたのである。

 現代では資金の問題より、用材や資材の確保が難しくなっている。さらには技術の伝承も心配で、将来に備える策を打ち出すことも急務である。

 ただし、今回の遷宮の場にいて、若い世代が多いことには驚かされた。そして彼らの多くが、宇治橋を渡って境内に入るとき、自然と頭(こうべ)を垂れ、手を合わせているのだ。

 「見えないもの」「変わらぬもの」を信じられることは、幸せだ。それは、いつまでも続いてほしい。内宮をあとにしつつ、そう願った。(わたなべ ひろあき)