グラシア通りのこの辺りは「不和の街区」と呼ばれた。
「カタルーニャ・モデルニスモ」
(1880年代のバルセロナは経済、文化、政治にと活気に満ち
ていた。カスティ-リャ語(スペイン語)が国の言語とされ、
独自の言語「カタル-ニャ語」と独自の文化を持つカタ
ル-ニャはスペイン政府から圧迫をうけていた。その言語
と文化をとり戻そうという運動が「レナシェンサ」(カタ
ルーニャ・ルネサンス:文芸復興運動)
レナシェンサはやがて美術や建築の分野で「モデルニスモ」
と呼ばれるカタル-ニャ独自の新しい様式を生み出すこと
になる。この時代を
代表する3人の建築家による3つの建物が並んでいて、
それぞれが個性的なものであるので「不和」と評されたの
である。現代では調和がとれていると見られている。
左からカサ・リェオ・モレラ、2軒おいてカサ・アマト
リェル、隣接して右端に写っているのがカサ・バトリョ
「カタルーニャ・モデルニスモ」
(1880年代のバルセロナは経済、文化、政治にと活気に満ち
ていた。カスティ-リャ語(スペイン語)が国の言語とされ、
独自の言語「カタル-ニャ語」と独自の文化を持つカタ
ル-ニャはスペイン政府から圧迫をうけていた。その言語
と文化をとり戻そうという運動が「レナシェンサ」(カタ
ルーニャ・ルネサンス:文芸復興運動)
レナシェンサはやがて美術や建築の分野で「モデルニスモ」
と呼ばれるカタル-ニャ独自の新しい様式を生み出すこと
になる。この時代を
代表する3人の建築家による3つの建物が並んでいて、
それぞれが個性的なものであるので「不和」と評されたの
である。現代では調和がとれていると見られている。
左からカサ・リェオ・モレラ、2軒おいてカサ・アマト
リェル、隣接して右端に写っているのがカサ・バトリョ