邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

4・続倭地風土記

2011-07-28 | ●『倭人伝』通読
●倭地風土記(風俗、産物、生物、軍備、気候風土、寝食習慣、葬喪儀礼、海人信仰、天然資源、世俗信仰など)

◆その風俗は淫ならず。男子はみな露紒,木棉をもって頭に招く。その衣は横幅をただ結束して相連ね、おおよそ縫うことなし。婦人は被髮屈紒,衣を作るに単被のごとくその中央を穿ち貫を頭いてこれを衣る。
禾稲・紵麻を種え、蚕桑・緝績して細紵・縑緜を出す。その地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵に矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃。有無する所は儋耳・朱崖と同じ。
◇倭人の風俗は淫ではない。男子は両耳を露にして髪を結い、木棉の布でハチマキのように縛る。着衣は場サ幅の拾い布をただ束ねて体に巻きつけて、おおよそ縫うことない。婦人は頭髮を分けて束ね、単被のように衣をつくり、その中央を穿けて貫頭衣とする。
稲や麻を種え、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。倭地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。武器には矛・楯・木弓を使う。木弓は握りの部分から下を短く上を長くしたもので、矢竹の先には鉄の鏃と骨の鏃を用いる。ある物とない物を比べるとは儋耳・朱崖と同じである。


●「儋耳・朱崖と同じ」について
 一連の文章は、倭地の風俗、服装、産物、動物、武器・武具などについて述べた文章で、「ある物とない物を比較すると、儋耳・朱崖(海南島)と同じ」というわけである。困るのは『後漢書』倭伝である。倭人の文身のルーツに触れた「会稽東冶の東」と、この文章の末尾部分を拾いあげて一つにまとめてまう。
 「倭の地はおおよそ会稽東冶の東にあって、儋耳・朱崖と相近く、そのために法俗も多くは同じ」。その冒頭で「倭は韓東南の大海の中に在り」と書いておきながら、同じ文章の末尾で「おおよそ会稽東冶の東にあり、儋耳・朱崖に相近し」とするのだから、自分が書いている文章を構造的にみる配慮が不足している。(本書の末尾に詳しい分析を提示する)。

 古代中国における地理は、軍事・政治と直結した最重要ファクターである。領土割譲や城市の引渡しには、地図を渡すことが通り相場だったことが『史記』にも登場する。そうした中で、儋耳・朱崖は遥か前漢代から中原王朝の郡県に組み込まれてきた。その儋耳・朱崖について、『漢書』地理志:儋耳・珠崖の条は次のようにきちんと把握している。
 「民皆服布如単被、穿中央為貫頭。男子耕農種禾稲紵麻、女子桑蚕織績。亡馬與虎,民有五畜、山鹿□。兵則矛盾刀木弓弩、竹矢或骨為鏃」。
  専門家の間でも早くから指摘されてきたことだが、『倭人伝』が唐突にも儋耳・朱崖を持ち出したのは、この『漢書』地理志の記録が意識下にあったからと思われる。『三国志』倭人伝と比較してみよう。
 「作衣如単被、穿其中央貫頭衣之。種禾稲紵麻蚕桑緝績、出細紵縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓、木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃」。
  文章のリズムまで同じに書いている。これではたしかに、「有無する所は儋耳・朱崖に同じ」になる。つまりこの文章は、『三国志』倭人伝の編纂担当者が『漢書』地理志の儋耳・朱崖の記録を意識して、所感として述べたものとみて間違いなさそうである。
 

●呼称・名称の使い分け
 『倭人伝』は、倭・倭国と女王・倭王に関して細かい使い分けをしている。絶対的な階級制度下の社会にあって、中国人の位階や呼称の扱いは非常に厳格である。わが国では、倭と倭国、女王と倭王、女王国と倭国、女王国と邪馬台国を明確に分別せずに語るか、間違った理解で語る例が目につく。そこで、『倭人伝』が位階や呼称をどう使い分けているのを整理する。

❶倭と倭国の呼称の使われ方
 中国側の倭と倭国の認識実態を時系列でみると次のように細分できる。
・中国側に「倭国」という認識がなかった時代。(57年からの倭奴国時代)。
・後漢朝が認証した倭国・倭王の時代。(107年から190年頃までの男王たちの時代)。
・後漢朝が卑弥呼を倭王と認識・認証していなかった期間。(卑弥呼が女王になってから後漢朝が滅亡する220年までの約30年間)。後漢末の動乱期に卑弥呼が後漢朝と接触した事実はないから、後漢朝が卑弥呼を倭王と認識していた事実もない。
・魏朝が倭国と認証していなかった期間。(220年に魏が興きて卑弥呼が朝献する238年までの18年間)。むろんこの期間は卑弥呼を倭王とは承認していない。
・魏朝が承認した倭国・倭王の時代。(238年以降)。

 一つの倭国について、後漢朝が認証した倭国と魏朝が承認した倭国があがある。魏朝が興きた220年から238年の朝献までは、魏朝にとって卑弥呼はただの女王もしくは倭の女王でしかない。『倭人伝』はこうした期間ごとに呼称を使い分けている。
 その『倭人伝』をみると、倭国という表現を3度使っている。
・一大率を紹介した部分で、「郡の倭国に使するに」と倭国を使っている。これは、明らかに魏との交流が始まったあとの説明文だから倭国という表現で正しい。
・「その国本また男子をもって王となす。とどまるところ7~80年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴る」
 帥升の107年から7~80年間(後漢末の180~190年ごろまで)は男王の代が続いた。その倭国で、恐らくは後継者争いと思われる大乱が起きた。 陳寿はここで「倭国乱れ」と書いている。これは卑弥呼の時代を書いているのではなく、彼女が女王になる以前の倭国の歴史的経緯である。つまり、107年から190年ごろまでの7~80年間は、後漢朝が倭国と認知していたことで「倭国乱れ」と書いている。
・正始元年に帯方郡から封爵使節がやってきたとき、「倭国に詣り」「倭王に拝假し」と書いている。これも、倭国・倭王との公式認知をくだしたあとのことである。

❷女王という呼称の使われ方
 『倭人伝』は卑弥呼の王号についても、倭・倭国の呼称と連動して厳格な使い分けを見せる。
 魏が倭国と公式に認知するのは、明帝が詔書の文言に「親魏倭王となす」と宣言した直後からである。皇帝が親魏倭王と呼ぶまでは倭の女王あるいは女王で、親魏倭王と呼んだ直後から「倭王」という呼称を使っている。
 ※巻末の「景初2年の証明」で版本の不統一性について触れるが、正始6年以降のページの記事はややおかしな現象を見せる。6年には「倭の大夫難升米」とあり、8年の使者は「倭の戴斯烏越等」、同じく卑弥呼も「倭の女王卑弥呼」。さらに、張政等を送って行ったのも「倭の大夫率善中郎将掖邪狗等」となっている。おかげで、 かなり統一性のない『倭人伝』になっている。「倭の女王卑弥呼と….」をみると、まるで倭国・倭王という呼称が、倭・倭の女王に逆戻りしたかのようである。これは、国号・称号に厳格な歴史書としては奇妙であり、時代を経た改訂・出版の現場で、この部分に何らかの無頓着が介在した可能性もある。
「去女王4000余里」。この文章が女王国の「国」の文字の脱落ではないとすれば、「女王の所から去る(離れる)こと4000余里」というほどの意味だろう。これが「去女王国4000余里」では起点の範囲が広すぎて曖昧になる。

❸女王国という呼称の使われ方
 この呼称は一元的にいえない面がある。たとえば、邪馬台国と女王に属する28ヵ国をを女王国と書いていると思わせる面もある。以下に提示するように、卑弥呼が女王に立てられた経緯を述べる中で、それ以前の男王たちの倭国(後漢朝が承認した倭国)を女王国と呼んだりしているので、杓子定規に解釈できない部分がある。
・伊都国に関する記録の「世有王皆統属女王国(世々王あり皆女王国に統属す)」の女王国は、女王以前の後漢代の時間的な脈絡をいうところだから、女王国の前身である「かつての倭国」というほどの意味で女王国としている。
 ここで「皆倭国に統属す」とすれば、文章として間違いとはいえないが、卑弥呼時代の倭国と錯誤させる表現になってしまう。『通志』はこの部分について、ズバリ「皆倭国に統属す」としている。明解なのだが、これよりは、国号の使い方という点で『倭人伝』のほうがより厳格である。
・「自郡至女王国」「女王国東渡海」。こうした使い方は、女王に属する29ヵ国を女王国と書いているようである。
・「女王国以北にはとくに一大率を置き」「女王国以北はその戸数・道里を略載……」この場合は表記した解釈があてはまらない。杓子定規に断定できない部分である。
・邪馬台国については、厳密には王都が邪馬台で邪馬台国は首都エリアを指す。通常は王都に国はつけないものだが、7万戸を有する首都エリアの意味で邪馬台に「国」をつけたものと私は理解している。そう考えて文脈をよくみると、国を省いて「南至る邪馬台、女王の都する所」とした場合、まるで皇居に東京23区の総戸数を入れるようなもので、7万戸の巨大王宮があるのかと思わせ理屈になることが分かる。

❹狗奴国に対比させた女王国
 『倭人伝』は、狗奴国については「女王に属さず」と書いている。そもそも倭国とは、狗奴国を含む30ヵ国を包括した呼称であり、やはり、女王に属さない狗奴国を除く(女王に属す)29ヵ国を女王国としているようである。
 そもそも魏が卑弥呼を倭国王とはせず倭王としたのも、交流が始まった時はすでに卑弥呼に属さない狗奴国の存在があったからではないかと思われる。
 さらに正始8年以降の記述では、卑弥呼を倭王ではなく倭の女王としている。「倭の・女王・卑弥呼」と「狗奴国の・男王・卑弥弓呼」というわけである。ここで倭国の女王とすれば狗奴国を含む倭国のことになり、女王国の女王とすれば余計におかしくなる。かなり熟慮した使い分けと私はみる。

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