邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●邪馬台国へ

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
●不弥国から邪馬台国へ
 「 南、邪馬壹国に至る。女王が都とする所である。水行10日、陸行1月。官に伊支馬がおり、次を弥馬升と言い、次を弥馬獲支と言い、次を奴佳鞮と言う。7万戸ばかりある。
 女王国よりも北の(邪馬台国に至るルート上にあって立ち寄った)国々については、その戸数や道理を略記できるのだが、その他の各国は郡使が立ち寄ることがなかったり、あるいは遠く隔たっているなどの理由から詳しいことが分らない。(従って、以下に国名だけを記載するにとどめる)。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次に都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に爲吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。ここが、女王の統治領域の境界が尽きるところである」。


●弥生の香りのする所 
 不弥国(城島町)から柳川市北部・ 三橋町 ・瀬高町 ・山川町を通って、南へ24 kmほど歩いて筑肥山系西側の傾斜地にある南関町を越える。9kmほどで菊池川流域の菊水町で、目の前には筑肥山系に囲まれた平野が広がる。その平野の北部に、古代倭国史の重要な位置を占めたと思われる謎の場所がある。
 ここを素通りするわけにはいかない。少し寄り道をしよう。 



 菊池川に沿って東へ歩いて山鹿市をすぎると、内田川と木野川が合流して迫間川に注ぐあたりに、海抜7~80 mの広大な台地が広がっている。まさかと思う人もあるだろうが、この台地こそ、古くから臺(うてな)と呼ばれてきた土地である。
 内田川と迫間川が交わる地点の東が臺(うてな)台地の南端にあたるのだが、一部は七城町の北部に組み込まれる。このあたりは、かつては砦村と呼ばれていた。砦村には、台地の丘陵線の西端に臺(うてな)城があった。臺城は水島城とも呼ばれていた。中世にこの地を治めた菊池氏は、本拠の城を大きくは構えず、砦機能を主とした外城を多く築いた。菊池市を中心とした領内に18城を築いたことから菊池18外城という。臺城はその一つといわれているが、砦村という呼称が示すように、内田川と木野川が合流して迫間川に吸収され、これが菊地川と交わるあたりは、その地勢からも古くから要衝だった。つまり、古くからあった臺城(砦城)のあとに中世に菊池氏が水島城を築いた、という前後関係になる。
 この砦村と近隣の村が合併して七城町になったのだが、現在でも略字の台(うてな)という地名が残されている。ちなみに七城町の町名は、町の区域内に菊池18外城のうちの7つの城があったことに由来している。


●うてな遺跡
 うてな遺跡は、菊池川の支流である内田川と迫間川とに挟まれた台地の西端(標高約73m)に位置している。遺構は広い範囲におよび、弥生時代から室町時代までの遺構が確認されている。

●弥生時代後期から古墳時代前期までの集落跡:台地西北端を中心に、直径約300mの範囲に広がっており、現在までに約80軒の竪穴住居跡と集落を囲む環濠の一部が7ヵ所で見つかっている。竪穴住居跡は、長方形で中央部に炉が作られ、長軸方向に2本の柱穴があり、壁ぎわに貯蔵穴を持っている。また壁に接して一段高いベッド状遺構も設置してあった。住居のうち1戸は、大型(5・75 m×8・5m)であることから、集会所など共同で使用した家だと考えられている。見つかった遺物は、壷・甕など日常的な土器のほか、ジョッキ型土器や、注ぎ口のついた船型土器などのほか、装飾品として土製勾玉や土製丸玉、収穫具として鉄製の手鎌や鎌などが出土した。

●古墳時代前期の方形周溝墓:集落跡の西方から、四角の溝で墓を囲んだ方形周溝墓が発見された。中心に箱式石棺があり、一辺11・5mの溝がめぐっていた。この一帯には多数の方形周溝墓が埋もれているものと思われる。また、集落跡の南東方向から、舟形石棺を納めた一辺34mもある大型方形周溝墓が発見されたが、これは、福岡県前原市の平原1号墳の2倍以上の規模である。
 



●ククチと呼ばれた土地
 熊本県の菊池は古くは久々知(ククチ)といった。菊池のうてな台地を見ると、諸葛孔明も布陣に活用したという風水の吉地である。 風水には布陣にに用いる奇門遁甲や、都市や城づくりに用いる吉地思想などがある。吉地とは、大地と自然の気が集つまる場所のことである。要するに、自然の地形・地勢・方角などを活かした土地活用法である。また風水では、河川が蛇行したり合流するポイントで、洪水の被害を被らない位置関係にあれば吉地とする。 三方の山を背にしたこの台地は、文句なしの吉地である。
 古代においては、四方に防御策を講じる必要がなく、南面の平地と流域だけを固めれば良かった。しかも河川は谷川のように川面が低い。洪水の心配もなければ、舟を使って敵が侵入してくる心配もない。
 したがって、王都の兵力は最低限にしておいて、王都に近づくこと自体が困難なように、周囲に幾重にも堅固な防衛網を講じることになる。古くからこうした特殊な地勢・地形が着目されてきただろうことは、中世にこの地を支配した菊池氏が18外城を築いたことで十分に説明がつく。さらにこの土地は、菊池米という名品の産地として知られている。
 このうてな台地の奥には、さらに100メートル高い米原(与那原=よなばる)という独立した台地がある。ここには、むかし鞠智城という城があった。米原は、標高1052メートルの八方が岳の南裾野が傾斜する台地にあたり、鞠智城跡の南方には穀倉地帯の菊池平野が広がる。
 この城は、その築城目的も謎なら、正式な築城年代も、焼失した原因も謎である。




❶鞠智城の謎
 663年天智天皇の治世、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に倭国軍が破れたあと、朝鮮半島からの侵攻を防ぐことを目的として、665年に築かれた山城の一つだとされている。大和朝廷が直接関与した国家プロジェクトとして、このとき築かれた主な城は、太宰府の南方数キロにある佐賀県の基肄城、太宰府の大野城などがある。ただし、当時の資料は鞠智城の築城着手には触れていないので、正式な築城年代は不明である。
 『続日本紀』によると、 698年「太宰府に命じて大野、基肄、鞠智の三城を修繕させた」と伝えている。手もとの資料では、「築城から33年目は城の掘っ立て柱の耐用年数とほぼ一致する」という。とすると、鞠智城の築城も他の二城とほぼ同じ時期と考えるべきだろうか。

 歴史記録というものは、その言葉の端々で興味深いことを告げてくれるものである。わが国の大規模木造建築物で、わずか30年しかもたないというのは例がない。しかも城である。城といえばご承知のとおり、現在まで数百年も原形をとどめているものが実在する。加えて「掘っ立て柱」という表現は、あだや見逃せないものがある。
 砦とは戦闘用に特化された建築物である。そこが戦場となれば傷むし、時には焼失する運命にある。これに無駄な造作や時間をかけるのは愚の極みである。これらの山城もその類いらしく、使える状態で維持されていれば修理・修繕で済ませるし、無用となれば放置される宿命だったらしい。山城・砦城とは、多くの場合使い捨てだったのである。
 九州には複数の朝鮮式山城を含む山城跡が残っているのだが、それらのすべてが、太宰府をとり囲むように北部に集中している。 その中には神護石という石組みが残っているものがある。これは城内に水を溜めておくための石組みで、敵が侵攻してきたときに切って落とす水城構造だったといわれている。そのことを記したのが『日本書紀』天智天皇3年(664年)のこの記録だろう。
 「筑紫において貯水の大堤を築く。名を水城という」。
 まさに一発勝負の使い捨て砦か貯水用の石組み城だったようで、それらは無用となったあと放置され、今では苔むした石組みだけが残っている。



※鞠智城趾

●謎だらけの土城遺跡
①鞠智城の立地環境
 米原の台地と「うてな台地」との標高差は100m前後。東と北の二方面は山系に囲まれており、完全な防御地形をなしている。その下、南と西に広がるうてな台地が菊池平野と一線を画す形の独立台地になっている。米原の鞠智城は、その点でも山地に築かれた大野城、基肄城とは基本的に異なるし、鞠智城だけが太宰府から80 kmも離れ、しかも、筑肥山地を隔てた内陸部に位置しているのも不自然である



※古代山城の配置図(神護石遺跡を含む)

②鞠智城の機能
 倭国の政権中枢が畿内にあった時代に、九州中部の内陸部に山城を築いて、これが大和や太宰府の防衛砦になるとは考えられない。 現在では大野城のサポート基地だったというのが有力だが、外国から侵攻されて太宰府が陥落した場合、侵略軍は南下せず畿内へ向かうだろう。したがって、 筑肥山地に遮られて離れた土地にあった鞠智城が、太宰府の後方支援基地というのは大きく現実性を欠く。
 考古学というものは、新しい遺跡・遺物が出るたびに、その所見がいとも簡単に覆る学問である。これが、南方の隼人に対する備えだったといわれた時期もあった。どちらにしても、唯一の陸路となる南関に、なぜ他と同じように水城砦を築かなかったのか。そうするのが戦略というものである。だが南関に一発勝負の水城砦を築くでもなく、久々知の台地に築かれたのはなぜか。謎というよりは初歩的な疑問である。

③鞠智城の築造期間
 663年に白村江の戦いに破れた。その後どの時点で築城命令が下ったのかは不明だが、完成したのが665年前後だとすれば、築造工事には2年間の時間配分しか与えられていない。ということは、鞠智城は相当に急造だったのだろう。ただ、鞠智城の場合は規模が並はずれていることからも、ブルトーザーもなかった時代に、更地にしたり2km四方もの土塁を築くだけでも1~2年で終えるとは思えない。

●ちなみに、鞠智城よりものちの8世紀に築かれた怡土城と比較してみよう。中国式山城の築城法で築かれ、西麓を高さ10m南北2kmの土塁・石塁で固め、尾根づたいに8基の望楼を配している。756年6月築城に着手したというから、鞠智城よりも1世紀のちのことである。そうして768年2月に完成しているから、実に12年の歳月を要している。鞠智城とは桁違いの年月を要しているのである。

 もうお分かりだろう。鞠智城が築城に10年以上も要した大規模工事であれば、何らかの形で築城の顛末が記録として残されていたはずである。ところが、そうした記録がない。また、665年の完成だとすれば、怡土城の築城に要した年数に鑑みて、着工は遅くとも白村江の戦い以前に着手したことになるはず。物理的な不条理がここにみえる。 
 鞠智城の場合に最も注目すべきなのは、他の山城が例外なく石垣づくりなのだが、それらとは違って土城構造であることである。これは、石垣構造の城づくりが朝鮮や中国から入ってくる前の古い様式である。(怡土城は土塁・石塁の折衷構造)。
 つまり、鞠智城を建築する以前から米原には土城の土台か更地があったのではないか。以前そこにあった土城の土台と土塁があって、基礎工事の手間がかからないことで米原に築いたのではないかと思うのである。そのことを証明するかのように、「ここにはもともと古い城があった」と地元ではいわれている。
 そもそも、山城の中で最大規模を誇る鞠智城の築城に触れていないことが不条理なのだが、ここに城としての土台が古くからあったことで比較的簡単に築城できたために、とりたてて記録されなかったのではないかとみている。

 謎はそれだけではない。鞠智城の修復経緯をみてみよう。
①第一次修繕:665年ごろの築城から33年目の698年。一部では、大型の掘っ立て柱遺構の上に礎石建築遺構が重なる。「重なる」というのだから、建物によって建築方法が異なるのではなく、時代の異なる建築物の遺構が複合しているということだろう。
②第二次修繕:奈良時代。有事に備えた後方支援基地から、国内向け基地へ機能が転換する。礎石建築物が大型になる。
③第三次修繕:平安時代。この時期に建てられた礎石建築物の跡が残る。


❷8角楼閣の謎
 1991年の調査で、直系約9mの8角建造物の遺構が発見された。これは、8本の丸柱を均等に並べた正確な8角形をしている。しかも、南北に50mの間隔を置いて2棟ある。(現在は4棟分が発見されている)。遺構の形から高楼だったようだが、復元建築を見ると3重階層の美しい遺構である。
・8角楼閣北棟:第三次修繕期(平安時代)の遺構といわれる。心柱は皿状の掘り込みで、2重の円柱を巡らせる。
・性格と機能:通信用か時刻を告げる太鼓を置いた鼓楼とされている。
 以上は調査委員会の見解である。だが謎は残る。仮に時刻を告げるか緊急連絡用の鼓楼だったとしよう。ではどんな酔狂で、軍事機能の山城に不釣り合いな、華麗な鼓楼を建てたというのだろうか。しかも、他の山城・水城にはなく、親王が治した太宰府にすらなく、ここだけにあるのも謎である。



※鞠智城趾に復元された8角楼閣

 山城に必要だったのは王宮の建物めいた華麗な楼閣ではなく、あくまでも殺風景な櫓である。しかも、遺構をみるとほとんど隣接している。広大な敷地の中で、目と鼻の先の間隔で太鼓を叩いて時を知らせたり、通信したり物見をしてどうするというのか。そういう建物には、しかるべき配置関係というものがある。
 鞠智城跡だけに掘っ立て柱遺があることも疑問である。というのも、同じ時期に建てられた基肄城(土塁の総延長は4・3km)の建物は、すべて礎石を使った総柱建築だからである。(石垣遺構の御所ヶ谷の神籠石は、山の頂上に建物の礎石が残っている)。
 ところが、鞠智城で復元された建物のうち、兵舎は掘っ立て柱構造で、高床式校倉づくりの米倉は礎石構造である。さらには、同じ掘っ立て柱構造にも側柱構造と総柱構造がある。これなどは、「時代の隔たった建物遺構が複合している」ことを証言しているのではないのか。
 ここで一緒に考えいただきたい。30年しかもたないという粗末な造りの山城に、王宮にこそふさわしい瀟酒な楼閣が必要だろうか。常識からいって、あまりにもアンバランスでありミスマッチである。 

 中国にルーツがあるといわれる多角楼閣跡だが、韓国のソウルに近い河南市の二聖山城遺跡にもある。外周1・6kmの二聖山城(新羅がつくった山城)の城柵は、土台を石垣でつくりその上に土を盛り固めた、いわば半石垣・半土塁城柵である。しかも、山の斜面にすら執拗に石垣を積んでいる、日本の神籠石と呼ばれる石垣遺構に酷似している。ここには、8角、9角、12角形の建物の礎石が見られる。韓国には公州の公山城にやはり新羅時代と見られる12角建物跡があるのだが、これも礎石構造である。
 一方の鞠智城には石垣土台や石垣はなく、堤防のような土塁を城柵とした土城構造である。二聖山城よりも1世紀遅い(ことになる)鞠智城の8角楼閣は、堀っ建て柱構造で建築構造も性質も異なる。

 実は8角楼閣については、とりたてて外国の事例を持ち出すことはない。倭国内にも現物見本がある。
●難波宮
 645年、孝徳天皇が飛鳥から移した都・難波長柄豊碕宮をいう。天皇が居する内裏と政務・儀式を行なう朝堂院と東西に配された官衙など、すべて掘っ立て柱の構造で屋根材にも瓦は使われていない。この都を前期難波宮という。内裏の南部には大極殿にあたる内裏前殿があり、続いて最大の規模をもつ内裏南門とその両脇に8角殿がある。
●前期難波宮8角殿
 8角形建物は三重に柱を巡らせ、使われた柱も太いので重層の楼閣風建築と推定できる。建物は掘っ立て柱構造で、屋根に瓦を用いない古来の建築様式によるものである。(大阪市文化財協会)
 復元模型をみると、鞠智城の8角楼閣とは平面の面積で倍以上も広く、高さは2階建てになっている。むろん柱は朱塗りである。(鞠智城の初期の復元図も柱は朱塗りだったが、復元された建物に優雅さはなく白木の楼閣である。白木づくり楼閣の実例などがあったものだろうか)。


●格違いと場違い
 さて、白村江の戦いは天智天皇2年の663年で、鞠智城の築造命令がくだされるのが翌年だとしよう。時期的には孝徳天皇の難波宮遷都の18年後だから、鞠智城の8角楼閣が難波宮の様式と技術を受け継ぐものだといえないこともない。だが、問題はそこにあるのではない。
 天皇が居し政務をとった王宮と、外敵の侵攻に備えた防衛の山城。まったく性質も格式も異なる施設にあって、なぜ鞠智城に王宮と同じ8角建造物が作られたのか。なぜ、30年ごとに修繕を要する程度の山城に、瀟酒な8角建造物が建てられたのかである。とくに序列の厳格な時代にあって、「格式が異なる」という意味は重い。要するに、軍事機能の山城に「格違いと場違い」の建造物が存在した理由の説明がつかないのである。
 しかもこれが、同じような場所に時代を隔てて4基もあるという。建築された時代がそれぞれ奈良時代と平安時代になるというのだが、資料の文脈では2棟セットということだろう。いずれにしても、それほど簡単に建て替える何があったのか、時代を変えて楼閣を建てる執拗さは何なのかである。
 難波宮の8角殿は瓦を使用していない。ということからすると、鞠智城の8角楼閣が瓦を使用していたとは思えない。鼓楼とみても楼観とみても中途半端な機能の建物を、手間ひまかけて造るほどな古代びとも愚かではない。そこには明確な理由があったはずである。

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