神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

太陽は笑わないし、月は微笑まない。そして、星もささやかない。

2019年07月25日 | キリスト教


 私たちの主、主よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。
 あなたはご威光を天に置かれました。

 あなたは幼な子と乳飲み子たちの口によって、
 力を打ち建てられました。
 それは、あなたに敵対する者のため、
 敵と復讐する者とをしずめるためでした。

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれに心を留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。
 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 私たちの主、主よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。


(詩篇、第8編)


 確かにわたしも、現実に太陽が笑ったところを見たことはありませんし、月が微笑んでいるところを見たこともなければ、星がささやいている声を聞いたこともありません。

 と、同時にわたしたちは知っていますよね。

 太陽が笑い、月が微笑み、星のささやきが聞こえるという、ディズニーアニメのような世界を……。

 現実の見るところでは太陽は約1億5千キロメートル地球から離れており、わたしたちが「太陽さん、いつもありがとうっ!!」と叫ぼうと、「おめえのことなんかでえきらいだ、バッキャローッ!!」と叫ぼうと、物理的な意味で太陽に耳はありませんし、太陽や月、あるいは星にわたしたちの声が聞こえるということは絶対にありえません。

 けれどもわたしたちは、月や太陽、星のみならず、人間のような意識はないとされる植物や昆虫、あるいは山や森林などに心の中、あるいは口に出して話しかけることがあるのは何故でしょうか。

 たぶんこれはインドなどの東洋思想が元になっている思想なのかなと思うのですが……ひとつの物の考え方として、わたしたちの意識の世界を井戸のように掘っていくと、太陽も月も星も山も森も、草や花や昆虫、動物の意識もみんなひとつだ――といった領域があるそうです。そして、ここを<魂の世界>といったように呼ぶ方もいらっしゃいます。

 ゆえに、物質的には太陽や月は笑ったりしないのに、魂の世界では彼らは何故かわたしたち人間が持っているような喜びや怒り、悲しみの表情を持っていたり、星がまたたくたびに彼らが小さな声でささやく声が時に聞こえたりすることがあるのでしょう。

 ところで、キリスト教の「イエスさまのことを信じる者は天国へ行き、信じない者は地獄へ行く」という教理は日本人に非常に人気がないわけですが(笑)、これはキリスト教を信じてなくても、日本にキリスト教が伝わる以前から……いい生き方をした人は天国へ行き、悪い生き方をした者は地獄へ行くという、そうした思想自体はずっと昔からありますよね。

 絵画を見ると、西欧では天国には天使がいて、地獄では悪魔がキリストを信じなかった者を業火の炎の中で苦しめてたりするわけですが、日本の絵巻などにも極楽浄土(天国)には仏さまがいて、地獄では鬼たちがこれでもかというくらい人間を苦しめていたりします。

 ではこうした、西洋と東洋における天国(極楽浄土)や地獄のうち、どちらが正しいのでしょうか。それは、仏教を信じている方々にとっては仏さまのおられる極楽浄土こそが天国……といったようには、今の日本で信じている方はあまりいらっしゃらないように感じます(^^;)

 本当の意味で仏教に帰依されている方は別でしょうけれども、他の多くの方は葬式仏教徒としてお葬式こそは仏教式であれ、「死んだあとは天国へ行く」というその天国というのは――どちらかというと、先ほど述べたようなお花畑の広がる魂の世界のことを指しているのではないでしょうか。

 これに対し、キリスト教の天国というのは、イエスさまの治めておられる世界を指しています。そして、こう聞くと(わたしも以前はそうでしたが)「なんでそうなるの?」と不思議になりますよね。

 仮に神さまがこの世におられるのだとしても、それが何故「イエス・キリスト」でなければならないのか、という点については、非常に疑問なわけです。それで、西洋の絵画などを見ていても不思議ですよね。「うむ。確かに天使という存在はいるのかもしれない。もしかしたら悪魔も人の心に棲みついているものが死後は視覚化して見えるということもあるかもしれない。だが、もし神がいるのなら、これらの存在に加えて人間をも統べ治めているはずである……その神が何故イエス・キリストという名を持っているのか、目に見える形としては黒や茶色の髪をして髭を生やしているあの姿とされているのは何故なのだろう?」――いえ、イエスさまのお姿を何故あのような形で描くようになったのか、よくはわかってないって言いますよね(^^;)

 けれども、絵画によく描かれているあのイエスさまのことを「この方こそが唯一の神である」的に言われたりすると……「え?なんで??」と直感的に疑問に感じるのが普通なのではないでしょうか。


 >>私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

(使徒の働き、第17章23~28節)


 この時パウロはギリシャのアテネにいて、こうしたことを人々に語ったわけですが、アテネの人々はキリスト教が入ってくる以前は『知られざる神』を拝んでいた、といえると思います。

 ウィキぺディアの「ギリシャ」を見てみますと、キリスト教(ギリシャ正教)を信じる方が圧倒的に多数を占めているようです。また、キリスト教が入ってくるずっと以前から、優れた哲学の歴史がギリシャにはあるわけですけれども、それはあくまで人間的な知恵であって、<神>ということに関してはそう決定的に「これが<神>!」、「これこそ<神>!!」といったような、決定打となるような存在はそうした知恵からは生まれてきませんでした。

 これは、キリスト教の答えによれば、「神はご自身を知らせたい者にお知らせになる」という父なる神、三位一体なる神の御本質がそうであるから、それが神さまの御心であられたから、ということになると思います。

 そして、神さまは民族としてはイスラエル民族(ユダヤ民族)をお選びになり、彼らの中の預言者と呼ばれる人々に旧約時代は御心をお示しになり、この預言者と呼ばれる方々にいずれイスラエル民族を救うメシア(救世主)がやって来るということを書き記すようお命じになられました。

 そして実際に、今から約二千年ほど昔にイエスさまが神の御子としてこの地上にやって来られ、パウロは以前はこのイエス・キリストを神の御子と信じる人々を迫害していたのに――神さまからの回心の光に照らされて、以後は熱心に信じる者に変えられ、キリストを宣べ伝える使徒とされたのです。

 また、ギリシャがそうであったように、キリスト教が入ってくるなり、それ以前まで伝統的に信じていた神々を捨てた国が数多くあるというのは、中学・高校の世界史などでわたしたちも習うところだと思うのですが……当時はわたし、世界史のテストの空欄に〔パウロ〕とか〔三位一体〕と書き記して点数はもらっていたものの、その意味自体はまったくわかっていなかったという記憶があります(^^;)

 けれども、日本ではかの有名なフランシスコ・ザビエルさんが宣教師とやって来て以後、キリスト教人口が著しく増えたものの、相次ぐ迫害により、他の国々がキリスト教が入ってくるなりそれ以前に信じていた神々を駆逐した――といったようには歴史的にならなかったわけですよね

 これって、自分的にはすごく不思議なことではないかという気がします。いってみれば、キリスト教の神、「イエス・キリスト」というのは、その時点では「今まで知らなかった新しい神」、「新参者の神」ということではないかと思うのですが、一時的な流行病いのように人々がその真新しさから信じたというのではなく、今も地球全体の三分の一くらいはこのキリスト教徒であると言われています。

 キリスト教が入ってくるなり、それまで自分が信じていた神が偽りの、人間的な知恵の生み出した神を拝んでいたに過ぎない……と多くの人々が信じるに至ったのは、三位一体の第三位格である聖霊さまの働きによるものです。こうして魂の真理の光に照らされた人々は、以前はそれらの虚しい神に仕えていたということがはっきりわかり、古き神を捨て、新しき神を知ったことにより――「これが道だ。これに歩め」と聖書にあるとおり、その第一歩を続々と踏み出していったのでした。

 仏教の教えや知恵、また仏陀の歩んだ生涯も素晴らしいものだったとわたしも思います。また、ギリシャの人々のソクラテスにはじまる哲学の知恵も、本当に今読んでも教えられることばかりと感じることが多いです。けれども、これらの教えや彼らのいう<神>や<神的概念>はわたしの魂を救う、ということだけはありませんでした。

 また、今現在の人生において苦しみ悩んでいればこそ、人の心というのは神を求めるわけですが、こうした中にも「いい答え」、「人生の参考になる知恵」といったものは多数あるにしても、「直接わたしの魂を救う」というところまでは決して至らないのです。

 けれども、キリスト教の神、イエス・キリストはわたしの肉体・心・魂のすべてを救いました。普通、人間の感覚として「ここまで言い切る」ということが出来るとは思われませんが、キリスト教徒の中でこのことを告白しない方というのは一般に、「聖霊を受けていない人」と言われることになるのではないかと思います。

 そうなのです。この「違い」がはっきりわかるからこそ、キリスト教の教え、イエス・キリストこそが唯一の神である、イエス・キリストが十字架に架かって血を流されたのはわたしやあなたのため、また全人類のためである……ということが真理としてわかればこそ、それまで自分が信じていた神が、実はただの偶像にすぎなかったことがわかり、そのような虚しいものを拝んでも仕方がないといった真の知恵へと至るのです。

 今のところ、日本ではまだこうした古き神々が以前として力を持っています。わたしも自分がクリスチャンになる以前は神社仏閣が大好きなのみならず、そこで行われる宗教行事についても非常に有難がっておりましたから、その日本人の心のよりどころとしての大切さ、大事さというのはよくわかるのです。

 そして、日本ではあまりにも多くの殉教者たちの血が流されましたから、いずれこうした古き神々が当たり前のように死ぬ(伝統、あるいは世界遺産として残ったにしても、実質的にはそのようになる)時がやって来るのではないでしょうか。そして、自分もまたこうした殉教者の方に倣って生きるか死ぬのか選択を迫られた時――踏み絵を踏まずにいられるかとの、心構えを今からなしておく必要があるように感じています(いえ、普段はあまり殉教とか、そうしたことについては深く考えずに祈りをしていることがほとんどなのですけれども^^;)。

 以前、日本におけるキリスト教に対する迫害があまりに凄まじかったことから……「日本にはキリスト教など伝えられなかったほうが良かったのではないか」との意見を本の中で読んだことがありますが、わたしももし自分がクリスチャンでなかったらそう思ったかもしれません。けれども、殉教者の血を主が忘れられるということは決してありませんから、実は日本は終末における神さまの御心が非常に大きい国なのです(=リバイバルの刈り入れの時に多くの方が信じ、クリスチャン人口が一気に増加する)。

 そして再び、踏み絵を踏んだ者と踏まなかった者とに分かれる時代がやってくると思われますが、踏み絵を踏んでしまい非常な痛苦に魂を苛まれるよりも、殉教者としてイエスさまの十字架の血のあとに倣うことが出来たなら……と、そのように願える者でありたいと思っています(これは人間的に決意してそう出来ることではありませんので、聖霊さまによってそのように守られますようにと願っている、という意味です^^;)。

 それではまた~!!





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