神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

ひとつの欠点もない者として、神はあなたを愛される。

2019年07月21日 | キリスト教
【この人を見よ】アントニオ・シセリ


 ずっと以前、神は世界を造られる前に、キリストが私たちのためになしてくださるみわざを通して、私たちをご自身のものとするために選ばれたのです。それから、神は私たちをご自身の目に聖い者、一つの欠点もない者にしようと決意されました。 

(エぺソ人への手紙、第1章4節)


 この世界に、ひとつの欠点もない完璧な人……というのは、おそらくどこにもいないと思います。

 けれども、イエスさまが十字架上で成し遂げた御業ゆえに、彼のことを信じる者すべてを、父なる神は「ひとつの欠点もない完璧に清い者」として見てくださるのです。

『人に七癖、我が身に八癖』という言葉は、「他人の癖を七つも見つけたら、自分には八つの癖があると反省するべきだという意味」だそうですが、千鳥さんの「癖がすごい」という漫才などは、本当にすごいですね(笑)

 あれは、見方によっては、相手のそんな「すごい癖」(=欠点)をも笑って受け入れる……といったようにも聞こえますし、相手の欠点を笑って受け入れる、ということは特に親しい間柄にある人同士に見られることではないでしょうか。

 わたしの父は風呂から上がったあと、必ずピシャピシャいう音をさせながら香水を胸のあたりにはたきつけるのですが、一度母がそのことを「ゴリラかよ!」と言って笑っていたことがあります。そのピシャピシャいうのがゴリラの胸を叩くドラミングに似ていたからですし、家族ですので、その一言で大体のところ理解ができるわけですよ(笑)

「いい年した中年の親父が香水なんかいまだにつけてんじゃないよ」と母は口に出して言ったわけでもなく、わたしが母と一緒に笑ったのは、父の容貌がゴリラに似ているからでもなく(むしろ似ていない☆)、とにかくもうそれは、父にとっては若い頃からの習慣として刷り込まれていることなのです。

 べつにわたしも母も「いい年した中年親父は香水なんぞつけるべきでない」と主張しているわけではありませんし、そのことを父の欠点と見なしていたわけでもなんでもありません。

 ただ、おそらく誰かのことを嫌いだ、不愉快だ、好きになれない……といった場合、おそらくこうしたなんらかの<癖>(?)を受け入れられないからだ、ということは多いのではないでしょうか。

 人は基本的に言語でコミュニケーションを取るものと思われていますが、実はそれ以外の顔の表情や相手が醸し出す雰囲気など、非言語的なものから受け取るメッセージで相手を判断している場合が多いそうです。わたしも正確な数字は忘れてしまいましたが、確か非言語的なメッセージで相手を判断する率が64%とかそのくらいあって、言語的コミュニケーションで相手を理解する率というのは残りの36パーセントくらいとか、そんな感じでなかったかと記憶しております(と、心理学の本に書いてあるのを読んだ、というか)。

 つまり、言語(相手の話したこと)以外の要素で相手を判断している場合が多いということは、言葉(言語)によっては相手がどんなに正しいことを言っていたり、その人を嫌う要素は見出せなかったにせよ、残りの顔の表情や目の表情、全体として雰囲気が好きになれなければ、言葉の力というのは人と人の間では案外脆く弱いものだということです。

 家庭や学校、あるいは職場やサークルなど、人がたくさん集まる場所で人同士が揉めたり、ひどい場合には村八部、いじめといったことが存在する場合……個人的に本当に「(神の、ではなく人間の)言葉の力」というのは弱いものだなと感じます。

 誤解を解こうと思って相手に色々説明しても、相手がさらにそれを曲解してしまい、輪にかけて誤解が広がってしまう――といったことがあるわけですが、相手はとにかくその人が気に入らないという前提、言ってみれば人間が生来持つ<快・不快の感情>によって判断し、その人を不快のほうに振り分けているわけですから、仮にこちらが正しいことを言っていたにしても、むしろその「正しい」ということによってますますその人を嫌うようになる……ということだってありうるわけです(^^;)

 そしてこの<快・不快の感情>を理性でコントロールして判断する力の強い方も多い反面、<快・不快の感情>によってのみにしか相手を<受け入れる・受け入れない>という判断が出来ない人が多いというのもまた事実と思うんですよね。。。

 つまり、仮にわたしたちの今目の前に「まったく欠点のない人」が現れたとして――その人のことをわたしやあなたが「好き(快)」と感じるか「嫌い(不快)」と感じるかは、言語によらない非言語的領域、<快・不快の感情>によって判断する場合がほとんどと思うのです。

 そしてイエスさまは、実際そのような方として地上に来られたわけですが、「わたしは神の子だ」と偽証した罪により、彼のことを不愉快だ、不快だと感じたユダヤ教のパリサイ人といった特権階級の人々により十字架刑にかかることになってしまいました。

 イエスさまは彼らに、「わたしの言うことを信じられなくても、わたしの業を信じなさい」と言われました。けれども、イエスさまが苦しむ人々から悪霊を追い出し、様々な病いから解放される癒しの業を見ても――これらのパリサイ人といった人々はイエスさまのことを信じることが出来ませんでした。

 ユダヤ教は旧約聖書を聖典としているわけですが、そこにはいつか自分たちユダヤ人(イスラエル民族)を救うメシア(救世主)が現れるとの、預言がいくつも書き記されています。ところが、実際にこの神さまが遣わされた救世主がこの世にやって来られ、神の御国について宣べ伝え、悪霊からの解放、病いからの癒しといった奇跡の業をいくつも行ったにも関わらず、彼らは信じないどころか、「彼は自分を『神の子である』と偽証した」という罪によって、イエスさまを裁いたのです。

<快・不快>の感情によって人を裁くことの恐ろしさが、ここにもまざまざと現れているような気がしますが、学校・職場でのいじめといったものも、大抵のはじまりはそんなところからはじまるのではないでしょうか。

 新約聖書はギリシャ語で書かれていて、ギリシャ語で<愛>というのは、エロス、フィリア、アガペー、ストルゲーに分かれると言います。エロスとは男女間の愛のことであり、フィリアは友愛や隣人愛のことを指し、ストルゲーは家族愛、アガペーは神の無償の愛、自己犠牲的な愛のことを指しているそうですが、これはわたし、確か教会で<理性の愛>とも教えていただいた記憶があります。

 そして、こうした<愛>の中のもっとも最上のものがアガペーの愛であり、イエスさまが人間に示された自己犠牲の、無償の愛ということなのです。

 これはわたし個人の聖書観かもしれませんが、イエスさまはパリサイ人といったのちに自分を十字架にかける人々のことを憎んでいたり嫌っていたりした、ということはなかったのではないかという気がします。もちろん、彼らのことを「神のことばを空文にした」という意味で、「まむしのすえ」と呼んだり、「忌まわしいパリサイ人」と呼んだりといったことはあったでしょう。

 けれども、旧約聖書に預言された救世主(メシア)が実際にこの世にやって来られたにも関わらず、これもまた同じく旧約聖書に預言されているとおり……彼らはこの方を信じませんでした。そしてこのことによってのちに同族のユダヤ人たちが歴史的にいかに苦しむかもイエスさまにはわかっており、そのことのゆえにこそ、彼らすべてを憐れまれていたのではないかと思うのです。

 また、イエスさまの生きた同時代に生き、イエスさまのことを「十字架にかけろ!」と叫んだ人々はみな、この罪から言い逃れるということが決して出来ません。ですから、「彼らは自分が何をしているのかわかっていないのです」というイエスさまの言葉もまた……本当に憐れみと愛が感じられ、切なくなります

 そして、この時代に生きていなかったにせよ、わたしもまたイエス・キリストを十字架にかけた罪人のひとりなのです。この命の君に荊の冠を被せ、つばきをかけて罵り、十字架に上げたのは――他でもないこのわたしが行ったことでもあるのです。

 ノンクリスチャンの方にとっては「なんでそうなるの?」ということかもしれないのですが、キリスト教における罪の自覚というのは究極的にはそうしたことです。けれども、わたしたちがイエスさまとまったく同じ立場なら、この相手を決して赦さず「地獄に堕ちよ」というところを、父なる神とイエスさまは赦してくださいました。そして、ここにこそ神の愛があるのです。

 そして、こうした己の罪深さと罪への自覚、さらにその罪をもすべて赦されているという愛を知る者は、当然他の人にもそうでなくてはなりません。けれども、クリスチャン同士でも時に喧嘩をすることがあるように――あるいは、あの人と一緒にいるとイライラする、腹が立つ、人間として馬が合わない……といったことはありえます。

 そうした場合、相手のちょっとした癖がどうにも我慢できないといったことを含め、「神さまがわたしを欠点のない者として見てくださるように、わたしも相手に対しそうでなければならない」と思ってみても、なかなか相手の方を受け入れたり好きになったりするのは難しいと思います。

 こうした時、クリスチャンの方が相手であれば特に、まずは「口に出さない」ということが大切だと、キリスト教関係の本で読んだことがあります。でも、女性の場合は特にこれが難しいと思うんですよね。わたしも経験上、色々な人を見てきたので、このことはとてもよくわかります。そこで、その方の悪口を言ったりするたびに、祈りの中で悔い改めるということを繰り返すそうなのですが、気づくとまた言ってしまっている……ということになるそうです。

 こうしたことが習慣として住み着くと、悪魔(サタン)・悪霊といった存在に攻撃を許すことになってしまうので、なるべく早くやめることが大切とは思うのですが、人間的な言い方としては「ありのままを受け止める」ということと同時に、神さま、イエスさまに祈るということが当然大切ということですよね。

 つまり、「わたしはあの人のことが嫌いだ」、「好きになれない」、「一緒にいると不愉快だし、不快に感じる」……といった感情はそのまま(ありのまま)に、理性の愛としては、神さま、イエスさまに「そのような罪人のわたしをお赦しください」、「でもあなたがわたしをまったく罪のない者として見てくださるようには、わたしはあの人と接することができません」と祈ることが大切かもしれません。

 もっと積極的に「あの不愉快・不快な人を愛せるようになりますように」と祈れる方というのは、本当に祈りの人と思います(^^;)でも、わたしたちは神さま、イエスさまのように完璧な愛を持つことが出来ない弱い者ですから、そのような弱い愛しか持ち得ない自分をお赦しくださいと祈るのと同時に――「では、どうしたらいいですか?」ということを、聖霊さまを通してイエスさまに求めていくのです。

 はっきりとした神さまからの答えの言葉がないように感じる場合、わたしたちは(隣人)愛について聖書になんと書かれているかを読み、また自分の良心と照らし合わせて行動するわけですが、気づくとまた「あ、あの人の悪口言っちゃった☆」ということはあると思います。

 個人的には「まあ、人間そんなものではないか」とも思いますが、イエスさまがいかにわたしたちのそうした<悪>に耐えてくださったかということは、時々(あるいは毎日のように)思い出す必要のあることではないでしょうか。

 それではまた~!!





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