神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

ダビデを呪ったシムイ。

2024年06月25日 | キリスト教

【アブシャロムの死】ギュスターヴ・ドレ

 

 >>ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。

 そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。

 シムイはのろってこう言った。

「出て行け、出て行け。

 血まみれの男、よこしまな者。

 主がサウルの家のすべての血を

 おまえに報いたのだ。

 サウルに代わって王となったおまえに。

 主はおまえの息子アブシャロムの手に

 王位を渡した。

 今、おまえはわざわいに会うのだ。

 おまえは血まみれの男だから」

 すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。

「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください」

 王は言った。

「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ』と言えようか」

 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。

「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。

 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」

 ダビデと彼の部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと平行して歩きながら、のろったり、石を投げたり、ちりをかけたりしていた。

 

(サムエル記第二、第16章5~13節)

 

 この時、ダビデ王は実の息子アブシャロムに反逆され、非常に苦しい境地に追い込まれていました。わたしが思うには、王位に就く前まではサウル王に命をつけ狙われ続けたことが、ダビデにとって人生最大の悩みだったかもしれません。けれど、王位に就いて以後において言えば、実の息子が反旗を翻し、父親である自分の王位を奪おうとしたこと……このことが、ダビデにとって一番苦しい時期でなかったかと、そんな気がします。

 

 もちろん、人妻バテ・シェバと不倫の罪を犯し、彼女との間に出来た子が死んだこと、またそのことを預言者ナタンにはっきり「あなたの罪の結果である」と神の御名によって宣告されたこと――さらにこの時、ダビデの王位が危うくなりそうになったのも、バテ・シェバの夫ウリヤを戦争の最前線に送り、死なせた罪の結果起きたことである……ダビデはそのこともよくわかっていたからこそ、「その罪の刈り取りを今自分はしているのだ」との悔い改めの自覚がはっきりあったのだと思われます。

 

 さて、今回の記事タイトルは「ダビデを呪ったシムイ」というものなのですが、「シムイっぽい人って、今も結構いるよね」というのでしょうか。自分的にはそんなふうに感じています(^^;)。

 

 正確にはこれは、自分のことではなく――人のことを見ていてそう思うことが今までよくあった、ということなんですよね。つまり、容姿的に可愛らしくて性格も良く、感じの良い方でもあるので、人間としてつきあうのに一体なんの問題がこの人にあるのだろう……という方でも案外、いじめというほどではなくても、ある種の悪口の対象にされることって、意外にあるんだなと思ったことがあります。

 

 人間の嫉妬の感情というのはわかりやすいようでいて案外複雑でもあり、この嫉妬センサーに軽くでも引っかかると、同じように「わたしのセンサーにも引っかかったわ、あの人」という共通項を持つ方が2~3人集まって、その人間関係の集団において疎外感を味わわされるとか、そんなことが人間という群れの中では時々あったりするよね……という、何かそんな話。。。

 

 それで、シムイはこの時かなり大っぴらに王さまであるダビデのことを呪っています。シムイは元はサウルの一族に連なる者だったため、そうしたせいもあったのは理解できますが、それにしてもという話。「これであいつも王位を実の息子に奪われ、人生下り坂だな」という絶対的な確信でもなければ――時の王さまを呪うというような大それたことなど決して出来ないのではないでしょうか。

 

 でも、ダビデの信仰者として真に偉大なところは、実の息子アブシャロムに反逆されつつも、心から悔い改め、すべてを主の手に委ね、人生に希望を持っていたことではないでしょうか。そのことが、ダビデの>>「主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」という言葉に現れている気がします。

 

 おそらく、ダビデとしては主がアブシャロムを次の王としたのであれば、自分は退位するといったことでも構わなかったのかもしれません。けれど、ダビデが真実悔い改めていたからこそ、ダビデはそのままイスラエルの王であり続けました。さらには、バテ・シェバとの間に出来た息子ソロモンが、彼の後を継いで次の王さまとなったのでした。神さまがそう御言葉を下されたとおり……。

 

 結局、アブシャロムの反逆は成功しませんでした。彼はダビデの部下ヨアブに樫の木に引っかかっていたところをいともたやすく打ち取られてしまいます。アブシャロムの計画がうまくいかなかったのは、おそらくそれが人間的なものだったからと思われますが、まるでそのことを象徴するような言葉が聖書にはあります。

 

 >>アヒトフェルはアブシャロムに言った。

「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう」

 こうしてアブシャロムのために屋上に天幕が張られ、アブシャロムは全イスラエルの目の前で、父のそばめたちのところにはいった。

 当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた。

 

(サムエル記第二、第16章21~23節)

 

 ところが、アヒトフェルは自分の立てた計画が実行に移されないことがわかると、自殺してしまうのでした。さらに、ダビデを呪ったシムイはどうなったかというと……その後、ダビデは死ぬ前に息子ソロモンに遺言を残します。「シムイの白髪頭を血にそめて、よみに下らせよ」(列王記第一、第2章8~9節)と。もっともこのことはダビデにとって、「呪われたことが実はそれだけ腹立たしかった」ということではないんですよね。ただ、息子ソロモンにとって何かの脅威になってはいけないと、そんなふうに考えたのではないかと思います。

 

 そこで、ソロモンはシムイを呼び寄せ、「エルサレムに家を建てて、そこに住むがよい。だが、そこからどこへも出てはならない。出て、キデロン川を渡ったら、あなたは必ず殺されることを覚悟しておきなさい。あなたの血はあなた自身の頭に帰するのだ」と命じ、シムイのほうでもその約束に同意するわけですが、その三年後、彼はガトに逃げたふたりの奴隷を追っていき、この約束を破ってしまいます。すると、その瞬間を待っていたとばかり、ソロモンはこのことの申し開きをシムイに求め、最終的に軍団長ベナヤに命じてシムイのことを打ち取らせることになりました。

 

 文章として読む分には「そんな小物、見逃してやってもよかったのでは?」と感じなくもありませんが、そもそもシムイは王であるダビデを呪った時点で殺されてしかるべきだったと思います。ところが、王の慈悲によってその後も生かされていたにも関わらず、おそらくは単に表面的に悔い改めてみせたというそれだけで、実際にはそのことを本当の意味で感謝していたわけでも、そうした態度でもなかったのでないかと思われます。そこでソロモンは知恵を働かせてひとつの条件を出す。また、この条件を破ってしまったことに関しても――意地悪な言い方かもしれませんが、シムイに神さまに対する真実の畏れの気持ちがなかったからでないかと感じられるわけです。

 

 

 >>主の霊は、私を通して語り、

 そのことばは、私の舌の上にある。

 イスラエルの神は仰せられた。

 イスラエルの岩は私に語られた。

『義をもって人を治める者、

 神を恐れて治める者は、

 太陽の上る朝の光、

 雲一つない朝の光のようだ。

 雨の後に、

 地の若草を照らすようだ』

 まことにわが家は、このように神とともにある。

 とこしえの契約が私に立てられているからだ。

 

(サムエル記第二、第23章2~7節)

 

 今回、旧約聖書のこの箇所を特に取り上げたのは、ダビデは今から三千年くらい昔の時代を生きた王さまだったのに、今を生きるわたしたちの人生と何も変わらない……といったようにあらためて感じたからでした。

 

 王さまになる前まで、前王サウルに命をつけ狙われ、苦労の多かったダビデ。また、王になって以後も、人妻のことを欲したというのは確かに倫理的によくなかったかもしれませんが、何分このくらいの時代の王さまであれば――ハーレムを持っていてどの女性とも遊び放題(?)というのか、そうしたところがあったと思うわけです(^^;)

 

 けれど、そのためならず、バテシェバの妊娠がわかり、ダビデは彼女の夫ウリヤを戦争の最前線へと送るよう部下に命じ……結果、このなんの罪もないウリヤが死んだことから、ダビデは預言者ナタンを通し、そのことの罪を主から問われることになりました。

 

 問題は不倫や殺人といったことでなくても、現代の信仰者にもこうしたことはあるような気がしています。つまり、クリスチャンとなり、イエスさまが色々なことを祝福してくださって、「ああ、神さまがわたしを今のように幸福にしてくださった。そして、この幸福のためにこそ、その前まで訓練として色々な苦労があったんだ!!」ということがあった場合――まあその後、それまでと同じようにある程度信仰熱心であったとしても、その幸せに安住するうち、自分でもちょっと高慢と言いますか、生ぬるいようなクリスチャン生活を送るうち――あるわけですよね。不倫や殺人といった十戒に引っかかるような罪でなくても、「このくらい、人間としていいじゃないか」、「少しくらい、罪の果実を食らったって、アダムがイヴにもらったリンゴをかっ食らったほどの罪ってわけでもないんだし」といった具合で、多少なり信仰が堕落していくといったことが。。。

 

 そしてそんな時、泣きっ面に蜂とばかり、シムイのような人まで現れることがある。そこで自分としても少し反省したりするわけです……「イエスさまが幸せにしてくださったその幸せを、今や自分は当たり前のことのように思い、そこにあぐらをかくうちにちょっと勘違いしてしまったようだなあ」といったように。

 

 まあ、わたしが自分の罪として想定してるのは、インターネットに夢中になって商品検索していた(笑)とか、そのことが時々イエスさまを賛美したり感謝したりすることより上に来てるんじゃなかろーかとか、何かそんな程度の、日々のつまらぬ罪の繰り返しみたいなことだったりするんですけど――イエスさま、神さまのことが人生の関心事第一位とはなっておらず、他のことが人生ランキング第一位に来てる時間が長いというのは問題だなという自覚は一応あったりするわけです(^^;)

 

 あと、シムイの呪いの言葉に関してはですね、自分で気をつけていようとも、人を傷つけるということはあるわけで、ダビデにとってのシムイのように、その方はわたしの人生にとって正直、「どうでもいい方」ではあります。その方にとってもわたし自身はそうだろうとも思う。でも、どこかで何かの集団として機能しなきゃならないという時、お互いにそのような理解であったにせよ、協力してそれなりにミッションをこなさなきゃならないということはあるわけで、そうした時、「仲良く出来た」ほうが、「内心では反目しつつも、表面的には協力せざるをえない」というより、当然ずっといいと思うわけです。

 

 まあ、実際のところ人生そんなことの繰り返しなわけで、今さらそんなことが起ころうと驚きもしないわけですが、なんにせよ「人間というのは難しい」という、そんなことから、ふとこのダビデとシムイのことを思いだしたわけでした。。。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 孤独について。 | トップ | イライラする。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事