神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

日本は宣教師の墓場。

2024年08月05日 | キリスト教

「日本は宣教師の墓場」……これは外国から来られた宣教師、牧師さんたちの実感としての言葉だそうです(^^;)

 

 いえ、わたし昔(自分がクリスチャンになった頃)からそう聞いていましたし、「日本は霊の壁が厚い」ということも、ただ「うんうん。まったくその通り!!」と頷くばかり――といったような話でもあり。。。

 

 でも、日本人は性格的に「一度信じたとなったら」、最後まで信仰を熱心に守るタイプの信徒の方が多いのではないかと思います。ただ、その「信じる」までに至るまでのルートというのか、霊的な壁というのが非常に分厚い。

 

 というのも、もしわたしがアメリカでもヨーロッパでも、外からやってきた外国人で、日本に宣教師として仮にやって来たとしたら、こう思うんじゃないかなと想像するわけです。みんな感じもいいし、親切で優しいし、なんかニコニコしてお辞儀ばかりしてるし……「これは、ちょっと熱心にイエスさまのことを伝えれば、信じてくれるのではないか?」という、強い希望と期待を持つような気がする。

 

 ところが、話自体は熱心に聞いてくれたとしても、信じない。「とりあえず、人の話はちゃんと聞かにゃならん☆」といった礼儀正しさから真面目に傾聴してくれたとしても、いざ具体的に教会へ足を向けることまではない……というのでしょうか。外国の方にしてみれば、この日本人の「ニコニコお辞儀」や「真面目に話を聞いてくれる感じ」に騙される(?)ところがあるんじゃないかという気がするのですが、わたし自身は同じ日本人だからめっちゃわかる。「ニコニコ最後まで話を聞きながらも」、「肝心なところでは最終的に断る」という――なんというか、「例のあの感じ」という、その「感じ」についてはよくわかるという話(笑)。

 

 このあたり、どこの民族だってそうとは思うものの、日本人には日本人に特有の「複雑な霊的背景」というとなんかうさんくさく思う方がいらっしゃるかもしれないので、「複雑な宗教的背景」としたほうがいいでしょうか。日本人は表向き、「国民の多数が仏教を信じている」と外国の方から思われているものの、その実情は神道+仏教+アニミズム=「日本人の霊的(宗教的)背景」というもので、その他、八百万の神的なものを信じつつ、海外旅行でキリスト教系の寺院、神社仏閣等の建物をお参りして、「なんか運気が上がった気がする!!」といったような、「色々な神の存在が混ざっていればいるほどよい」ということの他に、占星術的なものも深く信じている人が多いという、ここまでのことがわからなければ宣教は進まないという話ではなく――そんなことは関係ないと個人的には思うものの――日本人の一クリスチャンであるわたしですらここまで書いてきて、「この民族がイエスさまのことを信じるなんて、そらあ~難しいこったよ、あんた」と口に出して言いたくなるくらいです(^^;)

 

 たとえば、うちの実家には仏壇と神棚の両方がありますが、わたし自身ははっきりそれが「ただの偶像」とわかっているので、両親がイエスさまのことを信じて、「もう必要なくなったから、捨てようと思うがどう思うか」と聞かれたら、むしろ賛成すると思います。でも、それが神として具体的に何かしてくれるというのでなくても、今の今までずっと慣れ親しんできた偶像としての神ですし、「祟りがあるんじゃ……」みたいに思う方のほうが多いだろうという気持ちも物凄くよくわかります。また、特に何か根拠があるわけではなく、「日本人としての精神や文化を守るという意味でもそらいかんやろ」と考える方のほうが圧倒的に多いとも思うわけです。

 

 最近、とある本を読んでいて、「ローマは一日にしてならず」のローマ帝国が崩壊してのち、激動と混乱と不安の時代を生きる中、人々は来世の希望を約束するキリスト教に縋るようになっていった……といった文章を読みました。つまり、キリスト教を信じたとはいえ、それまで自分たちの間にあった文化や習慣などを信じたその日、その瞬間から完全に捨て去った――ということではなく、ギリシャ・ローマ時代の文化的遺産や知識といったことも、キリスト教の教えと反しない限り、むしろ残していこうとした……ということだったと思います。

 

 わたしが勝手に思うのに、おそらくはこうしたところから、イエスさまの誕生日は明らかに十二月のあの日ではなくとも、そうした混合的な部分が残り続けた結果、今もその風習が実は残っている……ということなのかなと思ったりします。わたしもその昔(クリスチャンになる前)は、四国八十八箇所を巡るお遍路さんといったことに憧れていましたし、地元の仏舎利塔を遥か遠くに見て、「あそこに神さまがいらっしゃるんだわ!!」とか思って喜んでいるような子でした(でも、実際にはここは超有名な夜に幽霊のでる心霊スポットだと、のちになって知りました^^;)。

 

 ここに加えて、もし仮に多少なりキリスト教というものに心惹かれるところがあって、「友人に誘われる」などして教会、あるいは教会のような場所へ行ったとしましょう。でも、他の国の状況はわかりませんが、日本の場合特に、正統的なキリスト教の教えを奉じているのではない、他の宗教・哲学も一緒に混ぜているか、あるいはキリスト教はキリスト教でも「ちょっと違うところ」、正統的なキリスト教の団体が「異端」であるとしているところへ連れていかれるなど……さらに、「真実の神へ至るのが難しい」という霊的・宗教的状況があるわけですよね。。。

 

 でも、ここまで頑なな日本人という民族が、いずれその多くが信じるようになるだろうと信じて――救霊の祈りを他の国のクリスチャンの方々は祈ってくださっているという。わたしも、日本人はいずれもっとキリスト教徒になる方の数が増えるだろうと思っています。その~、こういうこと書くとうさんくさいと思われるとわかってるわけですけど、海外にもそうした預言をされる器の方がいらっしゃるということですし、わたしも今まで二度ほど、そうした幻や夢を祈りの中で見たことがありました。

 

 ひとつ目は、悪魔というのか、悪霊的存在が三人いて、三角形を作って、そこの土地を踏み固めて守っているわけです。日本は三角形に収まるような形をしてませんから、この三という数字にはあまり深い意味はないのではないかと思われますが、この土地の下には種が植えられている。ところが、種は悪魔の見張りのゆえに芽を出すことが出来ない……でも、天上のほうでは天使がじょうろを手にして待っており、それは「時が来たら」天使がその土地に水を注ぎ、とうとう芽が出る、つまりその瞬間こそ日本にリバイバルが起きるといった意味でした(ちなみに、このように語られたのはすでに十数年以上も昔の話になります。自分でもよく覚えていたなあと驚きます)。

 

 そして、もうひとつが「石の夢」でした。日本の和室の、よく掛け軸がかかっていて、その下に花瓶が飾ってあるようなあの場所に、大きな石が置いてある。ところがですね、悪魔や悪霊の力によって、その石はどかすことが出来ない。まあ、ノンクリスチャンの方が聞いたとすれば、「頭おかしいのでは?」と感じるのはわかるのですが、キリスト教では「悪魔・悪霊の存在は現実である」として、一般の信徒であっても、「イエス・キリストの御名に命じる!悪霊よ、去れ!!」といったように、「悪魔・悪霊の追いだし」を行うことがあります。ところがですね、わたしは心の中で一生懸命、「イエス・キリストの御名によって命ずる!!」と、心の中で唱えはするものの、実際には声が出ません。そう口から言葉が出さえすれば、その重い石は転がり落ちて、日本を上から霊的に押している岩は取り除かれるはずなのですが、どうしても声が出ない。そこでわたし、「これは自分の力でどうにかするのは無理だ。他の人(力ある牧師さんなど)を呼んできて協力してもらおう」と思い、廊下を走っていく――といったようなところで目を覚ましました。

 

 つまり、この夢も見たの相当昔の話ですし(十年は軽く昔)、自分でも「よく覚えていたなあ」と本当に驚きます。ただ、日本にはそうした種類の霊的希望があると思いました。天使がじょうろで日本という土地に水を注いでくだされば、クリスチャン人口は爆発的に増えていくはずですし、重い石が取り除かれれば、同じようにそうなるはずだという……ただ、一クリスチャンとしてはそのことを喜びつつ、そうなると今度は聖書に記された「世界の終わりが近い」ということになってしまうので、今度はさらに備えの祈りを強くしていかなくては……といったようにも思わされます。

 

 >>『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。

 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。

 ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。

 その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。

 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。

 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。

 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。

 だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。

 だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

 

(マルコの福音書、第13章14~26節)

 

 ノンクリスチャンの方でもなんとな~く、「終末の世界の終わりの時、イエス・キリストが雲に乗ってやって来られ、ご自分の選んだ民とともに天へ昇ってゆく」的な話を聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

 わたしも、イエスさまを信じていなかった頃、「自分を信じている者だけを救うだって?そんな心の狭い神さま、こっちから願い下げだい!!」とか、何かそんなふうに思っていたような気がします(=キリスト教の神は絶対本当の神などではない、といったように)。

 

 ところが、一度こうした頑なさが砕かれるとですね、だんだんにわかってくるわけです。日本人以上に欧米の方のほうが科学的なものの考え方をするところがあると思うのに、何故そうした国々で「宗教的伝統」といったことを越えて、今もこれだけキリスト教を信じる人々がいるのか、といったことが……それが実は「父と子と聖霊の御名によって」の聖霊だったりするんですよね。一度聖霊のバプテスマを受けると、目からうろこが落ちたように色々なことがわかってきます。

 

 最初は「聖霊のバプテスマねえ。へー」くらいな感じの方でも、教会で信仰告白し、聖霊さまの注ぎかけを受けると、ある時から霊の目が開かれるような経験を通して――それは最初からすぐに変化を感じる方もいれば、少しずつ徐々に……など、人によって違いがあったとしても――「あ~、そっか!なるほどなあ。普段宗教的なものを信じてなかったとしても、最初はキリスト教を全否定していてさえも、これがキリスト教が滅びずに今まで続いている理由なんだ」みたいなことが、これもまた聖霊さまの導きによってわかってくるわけです。

 

 日本は霊的に大きな重い蓋のかかっている国のようなのですが、いずれはこの覆いも取り払われて、真実の信仰へ至る方の数が今以上にずっと増えてくると思います。あるポイントを超えると間違いなく速いと思うのですが、わたし自身はそのための準備とか整ってないので(汗)、目を覚ましているため、聖霊の油を持っているために、霊的に寝ている「眠りのクリスチャン」でいてはいけないのだなあ~と、そう思いつつ、インターネット礼拝の礼拝メッセージを時々眠たくなりながら聞いたりしています(殴☆)。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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