神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

悪魔に紐付けされる。

2020年04月01日 | キリスト教

 これはあくまで、キリスト教で言われる「悪魔(サタン)・悪霊」といった事柄に関しての記事であることを、まず先にお断りしておきたいと思いますm(_ _)m

 これもまたあくまでわたしが思うに、ということなのですが(汗)、日本のキリスト教界においても、たぶん日曜礼拝の牧師さんのお説教などにおいて、「悪魔(サタン)・悪霊」といったことについては、そう突っ込んで語らない……ということが多いのではないでしょうか。

 いえ、わたしはただの一般信徒ですが、それでももし仮に「何かメッセージしてください」、「お証ししてください」といったように誰かに頼まれたとしたら、相当強い神さまからの促しでもない限り「悪魔(サタン)・悪霊」といった存在については、最初からテーマとして除外すると思います。

 何故かというと、「そんなことを言って、頭のおかしい奴だと思われたくない」とか、「もっと他に証しするための何かをこの人は持っていないのか」と思われるのではないかなど、そうした恐れや不安の気持ちからそうする、ということですよね。むしろそれこそが、「悪魔(サタン)・悪霊」といった存在が「しめしめ☆」と思うことだとわかっていながら……。

 ところが一方、おそらく福音派の牧師さんでもバプテストの牧師さんであっても、その他どこの教会の牧師さんであっても、「キリスト教において、悪魔(サタン)・悪霊といった存在は現実です」と言ったとすれば、聖霊を受けている方で「いや、そんなのは現代という時代、ただの架空の存在だよ」とおっしゃる方はまずいらっしゃらないと思います。

 聖書を読むと、イエスさまがこの悪魔(サタン)・悪霊の追い出し、といったことを行い、肉体的な病気の方を癒したり、精神的な重い病いの方を癒したり……といった記事がいくつも出てくるわけですが、聖書は誤りなき神の言葉ですから、このことも信徒の方々は空気でも吸うように「そんなの当たり前のことじゃないか」と、当然のこととして受け止めています。

 また、世界の三大宗教である、仏教やイスラム教でも、この「悪魔・悪霊」といった存在が出てくるというのは、なかなか興味深いというか、面白いことではないでしょうか。

 ところで、今回のタイトルは「悪魔に紐付けされる」ですが、一度キリスト教徒としてイエスさまの十字架を信じたら、神さまからの御守りによってもう二度と「悪魔(サタン)・悪霊」からの妨害といったものは一切ないかといえば、まるでそんなことはなく――むしろ信じてから、相手がイエスさまに敵対する存在であり、人々がイエスさまの福音を信じないためであればなんでもする……といった存在であるとわかってからのほうが、この「悪魔(サタン)・悪霊」からの攻撃や妨害といったものは激しくなるといっていいと思います。

 一度、イエスさまの十字架を信じたクリスチャンは、神さまの御元にあってその御守りの中で魂の平安を得ることが出来る……というのは真実ですが、何分あいつら(悪魔(サタン)・悪霊)といった存在はしつこいですからね(笑)

 つまり、わたしたちがイエスさまの十字架を信じ、救われて死後には天国へ行けると喜んでいると――その身分を剥奪しようと、今度は色々画策してきます。特に理屈っぽい方の場合(?)、まず信じるに至らない理由としては、「悪魔(サタン)・悪霊」といった存在がしょっちゅうそこらへんにまいているまきびしに当たる確率が実に高かったりしますよね(^^;)

「これだからキリスト教はおかしい」とか、「もし神がいるのなら~~なはずだ」といった、自分が不幸になったことに対するそもそも論など、実際この世界は神を信じる必要のない理由で満ち満ちているといっていいと思います。

 また、イエスさまのことを信じたクリスチャンに対しては、「いや、おまえのあの罪についてだけはイエスの十字架でも赦してはもらえない」とか、あとは何か仕事などの都合で日曜礼拝へ行けなかった場合、そこに強い罪悪感を入れてきたり、「だからおまえは駄目なんだ」、「生きている資格のない奴め」など、わたしたちの思いの中に実に巧妙に働いて、自分の姿は隠しつつ、色々なマイナスの感情によってわたしたちが落ち込んだり苦しんだりするように仕向けてきます

 一度「これ」にやられると、キリスト教徒として一度はイエスさまに救われた身ながら、ノンクリスチャンだった頃も今も何も変わらない精神状態だとか、むしろ悪魔(サタン)・悪霊の攻撃が激しくなったことによって、イエスさまのことを信じる前より信じたあとのほうがひどい状況を経験することになった……ということは、実際ありえます。

 この時のわたしたちたちの敵の言い分はこうです。「だから、イエスのことなど信じないほうがいいんだよ」という。

 ノンクリスチャンの方にはわかりにくいかと思うので、ひとつたとえ話をしたいと思います。

 わたしも、自分がクリスチャンになる前は、神社仏閣を拝んだり、仏教的習慣を守ることが大好きだったのでよくわかるのですが――家にある神棚を外す、ということの出来る方というのは、キリスト教徒として「そこには何もいない」とか「むしろ悪魔(サタン)・悪霊の住む足がかりとなる」という価値観に変わらなければ、まずもって怖くて出来る方はいらっしゃらないと思います。

 実際のところ、クリスチャンとしてそのように価値観が変わったとしても、そうしたものを家から取り除けた時、その後何か不幸なことが起きるというのはありえることです。もちろんそれはたまたま偶然ということもありますし、神棚を外したということに対して罪悪感が強く働き、そのあと起きたどんな小さな不幸もそのことと結びつけて考えるといった人間の思索といったことも大きく影響するでしょう。

 けれどもここに、悪魔(サタン)・悪霊といった存在が働くこともあるのです。人が何かのことで罪悪感を覚えていると、さらにどつぼに嵌まって落ち込むようにと、わたしたちの首に紐を付けてそのような方向へ強く引っ張っていく。こうした時、自分の思いの中に悪魔(サタン)・悪霊が働いていると、クリスチャンの方であれば気づくこともあるにしても、ノンクリスチャンの方の場合はそのすべてが「自分の思いや考え」であると思いこんでいる場合が多いと思います。

 ここで必要なのが、<見分け>ということなんですよね。この世に起きる不幸のすべては悪魔(サタン)・悪霊のせいだ、と信じている方というのは少ないと思います。これはクリスチャンの方でもノンクリスチャンの方であっても、一歩、神さまに背を向けて罪に向かって歩きはじめた途端……この最初の決意に悪魔(サタン)・悪霊が関わることもあるにせよ、そもそもそのような欲望が自分にあったことが原因だということのほうが多いと思います。そして、悪魔(サタン)・悪霊といった存在は、わたしたちが出来るだけイエスさまのことを考えない、神さまのことについて何もしない生活というのを好みますから、最初の一歩を踏み出した途端、そこから二歩、三歩、五歩、六歩……十歩、百歩、千歩、一万歩と、どんどん離れていくように仕向けてきます。

 さて、この状態が今回のタイトル、「悪魔に紐付けされた状態」の、まあ一形態といったところと思うのですが、十万歩あたりイエスさまから離れて、また元のイエスさまの栄光に触れる生活に戻りたいと望んだ場合――悪魔(サタン)・悪霊といった存在は、わたしたちの首にかかっている縄を引っ張って堕落した生活、あるいは何かの欲に溺れた生活へと戻そうとしてくるかもしれません。

 この方法はイエス・キリストの十字架を信じた信徒の方にのみ有効となることですが、神さまから少しばかり距離を取ってしまったと気づいたなるべく早い段階で、心当たりのある方は「悪魔(サタン)・悪霊よ、わたしから去れ!」、「ここから去って二度と戻ってくるな!!」、「わたしはこのことをイエス・キリストの御名によって命じる」と、声に出して言ってみてください。

 そしてその後は、教会、また個人の祈りの中でも深く悔い改め、聖書を読み、イエスさまに親しむ生活へと、再び戻るように生き方を変えると――神さまは悪魔(サタン)と違ってわたしたちの首に縄をかけて御自身のほうへ引っ張る方ではありませんが、むしろわたしたちのほうで自分の首に縄をかけてイエスさまに対し差しだし、「これからはわたしが道を逸れそうになったら、あなたがこの縄を引っ張ってあなたの道のほうへ戻してください」と言うようにさえなるでしょう。

 クリスチャンの語源はクリスティアヌス、神の奴隷という意味です……といったように、昔教えていただいた記憶があるのですが、おそらく、多くの方が「神の奴隷だって?それよりもわたしはひとりの人間として自由な存在でいたい」と思うでしょう。けれども、自分なりの考え・思いによって歩んだ挙句、何かのことで大きな失敗や罪を犯したりして、再び神さまの元に戻って来られる方というのは実際のところ多いのです。

 そして、悪魔(サタン)・悪霊に紐付けされた生活よりも、イエスさま、神さまに繋がっていられる自由のほうが、どれほど貴重で価値のある人生を送ることが出来るかを、真の意味で知る……また、このような形でのイエスさまとの結びつきというのは生涯に渡って続き、二度と離れることも終わることもないものなのです。

 それではまた~!!





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