神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

サタデーナイト・フィーバー。

2023年02月13日 | キリスト教

 誰もがその名を知っている有名作……と思うのですが、わたし、この作品つい最近見ました(笑)。

『パルプ・フィクション』がヒットしていた頃、主演のジョン・トラボルタさんはずっと長くヒット作に恵まれていなかった……的なことを雑誌で読んだことはあったものの、『パルプ・フィクション』を見たのも実はさらに相当あとのことでした(いや、だからどーした☆という話^^;)。

 作中に流れているビージーズの曲は何度となく聞いたことがあったとはいえ、映画のほうはずっと昔から「見たいな~♪」と思いつつ、何故か見てこなかったわけです。。。

 そんで、わたしと同じように超ヒットした有名作と知ってはいても、実際に見たことはない……という方が、今は他にも結構いらっしゃるんでないかと思うので、一応あらすじのほう、コピペ☆してみたいと思いますm(_ _)m


 >>ブルックリンのペンキ屋で働くトニーは、変わりばえのない毎日の生活にうんざりしていた。そんな彼の生き甲斐は土曜日の夜(サタデーナイト)にディスコで踊り明かすことだけ。ある日、ディスコで年上の女性ステファニーに出会う。同じブルックリンで生まれながらもインテリで自立し、将来設計を持つマンハッタンのステファニーに影響されたトニーは、自分の生き方を考え直すようになる。やがてステファニーとの生活を夢見て、ディスコで行なわれる賞金付きダンスコンテストへの出場を決意する。

(ウィキぺディア様よりm(_ _)m)


 そんで、ここのブログで取り上げるということは――キリスト教に何かしら関係したところがあるから、ということなのですが、実はわたし、『サタデーナイト・フィーバー』ってディスコで踊ることの好きな主人公が、最終的にそのことがきっかけで芸能界デビューするなど、何かそうしたハッピーエンド的物語なのかなと、勝手に勘違いしていて(^^;)

 ところが、全然もっとシビアでリアルな若者の問題を扱っていました。その部分に共感もすれば、そこが一番面白く、心に残った点でもあったというか。映画の公開年は1977年ですが、それから約45年(!)が経過した今、根本的な意味で若者のありようや問題にどう変化があったのだろうか……そう思うと、「基本的にあまり変わってないような気もするなあ」という気もしたり。。。

「何者かになりたい若者が、お金がないゆえに苦悩する」といったことは、今も青春映画の永遠のテーマとして存在することですし、ジョン・トラボルタ演じる主人公トニーの家庭はあまり裕福なほうでなく、しかも父親が現在失業中。また、一度神父になった出来のいい兄が戻ってくるなど、家庭の雰囲気がよくありません。トニーの家庭はイタリア系でカトリックのようなのですが、両親は信心深いがゆえに兄のことを神父にし、そのことをとても誇りに思っている様子。

 この兄のフランクが何故神父をやめて戻ってきたのか、詳しい事情のほうは語られませんが、トニーの仲間のひとりがガールフレンドを妊娠させてしまい、そのことをフランクに相談するシーンがあります。トニーの友達のボビーは、ガールフレンドがカトリックで信仰深いもので、中絶することに関して悩んでいると相談するのですが、フランクにとってこの手の話は神父として、おそらく馴染み深いものだったのではないかと想像されます。

 教皇から特赦のようなものをもらって中絶を許可してもらえないだろうか、そうボビーが言うのを聞いて……フランクは「それは出来ない」と答えます。このあと、フランクは弟がディスコで自由自在に踊るところを見て、「すごいよ」とそのことを褒め称えつつも、すぐ帰ろうとします。このことはあくまでわたしの想像なんですけど、フランクはおそらく、両親が自分を神父にしたことで「必ず天国へ行ける」と望みをかけていたり(それであればこそ、この世の苦労も耐え忍べる)、実際に神父となったことで――カトリックに存在する教義の矛盾性であるとか、人の悩みを聞いても「どうしてあげることも出来ない」ことの苦悩の積み重ねであるとか……おそらく、そのあたりが神父さんをやめてしまった理由だったのかなあ、なんて思うわけです。

 トニーの仲間たちの女性の扱い方や性というものに対する考え方も、今の時代の価値観からすると「今はもうこういうの、完全にアウトだよね」といった感じの描写なのですが、でも今問題になったりしてるのって、大体のところ似たような価値観を持ってる人が部下に当たり前のようにセクハラ働いたりとか、そうした人が叩かれてることを思うと……45年かけて「それはアウト!」ってようやく口に出して言えるようになってきたってことのような気もするんですよね(人類の進化、おっそ!^^;)。

 それはさておき、ストーリーの一番の主軸は、ディスコキングであるトニーが、ステファニーというダンスパートナーを得て、最初はつんけんしてるステファニーと恋愛的にもうまくいくのかどうか、ダンスコンテストでも優勝するのかどうかということで――わたし、時代が時代なので、当然トニーとステファニーは結ばれ、コンテストでも優勝し、めでたしめでたし☆で終わるのかなって思ってました。。。

 と、ところが……トニーとステファニーは確かにダンスコンテストで優勝するものの、トニーは自分たちよりもプエルトリコ人のカップルのほうが上手かったとわかっており、そのことに憤慨するんですよね。そこで、プエルトリコ人のカップルに「これは君たちのものだ」と言って、優勝杯と賞金を渡してしまう。つまり、人種的問題として、プエルトリコ人カップルよりも、白人の常連客のほうに優勝杯を渡したということであり――本当の「実力による勝ち」でないことに、トニーは怒ったわけです。

 ええと、何かの公式のダンスコンテストにおいて、東洋人のほうが技術的に上手かったのに、白人の選手のほうが優遇されて優勝とか、今はそうしたことはありえないのではないかと思います。でもまあ、ダンスコンテストなんて言っても、あくまでも内々の小さなアマチュア大会といったところであり、何か人生のキャリアになるといったことでもない。トニーは言います。「みんな逃げて、荷物を人に押しつけあってる。失業してる親父はおふくろを怒鳴り、そしてオレたち白人はプエルトリコ人をいじめて鬱憤を晴らしてる。そんなことの繰り返しにはもううんざりだ!」といったように。

 わたしが『サタデーナイト・フィーパー』を取り上げようと思ったのは、トニーのこのセリフによります。映画の公開年が1977年で、その後45年が経過した今も――こうしたことって、実は何も変わってない気がするんですよね。家庭の問題でも学校のいじめでもなんでも……とにかく、自分よりも弱いものを見つけて、その人の悪口を言ったり、心の中で蔑んでみたり、あるいは暴力を振るって憂さを晴らしてみたりと……こうしたことが人種の違い、男女の違い、その他の要因によって色々起きるっていうのは、もうみんな「大体なんかそんなことになるらしい」という仕組みのほうはわかっている。でも大体、20~30人もどこかに人が集まれば、何故かそんなことになってしまう、それはもう人間としてどうしようもないことなんだけど、そのどうしようもないところをどうすれば改善できるかという、そうしたことなんだと思う(^^;)

 長くなりましたが、トニーと相手役のステファニーが、割と対等な感じで終わるところも、好感が持てる気がしました。トニーはペンキ屋さんで店員として働いているのですが、その働きぶりが真面目でお客さんの受けもよいところを見ても――彼なら今後、確かに何をやっても成功しそうな気はします。でも、人生は厳しい。というか、今はこの頃とまた事情が変わってきてると思うのですが、この時代、ブルックリンから橋を越えてマンハッタンへ移り住むことは、言うなれば成功者(金持ち)と敗者(貧乏人)を分ける境の象徴のようなものであり、それで<橋>が大きな意味を持って何度も出てきているのかなって思いました。

 簡単にいうと「貧乏に生まれたら、死ぬまで貧乏なままで終わるだって?そんなの冗談じゃない!!」というトニーのような日常に鬱憤を抱えた若者っていうのはいつの時代もたくさんいて、きっとトニーであれば、確かに橋を渡って成功し、マンハッタンで生き残っていくことが、敗者からいわゆる勝ち組になることが出来るに違いない――映画のほうはそんなふうに予感されるところで終わります。

 大ヒットしたのが何故かよく頷ける、とてもいい映画と思ったのですが、他にちょっと色々思うところがあったので、次回はこの続きについて書いてみたいと思いましたm(_ _)m

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« WAVES(ウェイブス) | トップ | 右肩上がりの世界。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事