神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

孤独について。

2024年06月08日 | キリスト教

 その~、「孤独」と聞くと、一般に何か「悪いこと」、「惨めなこと」、「可哀想なこと」……といったイメージが連想的に湧いて来られる方のほうが多いかもしれません(^^;)

 

 でも、自分的に「独居老人」と聞いたりすると、タイプとしてふたつに分かれるような気がしていて。ひとつ目は、比較的健康か、あるいは何か持病をお持ちでも、訪問介護サービスなどを上手に利用しているため、「ひとりでも悠々自適に楽しく」暮らしておられる方もいれば、逆に多くの方が持つイメージとして「ひとりで寂しいな」、「つまらん」、「が、まあ息子夫婦も孫も転勤でそばにおらんのだからしゃーない」といったお年寄りの方と……うちのおばあちゃんもそうでしたが、「ひとりが気楽で一番最高」といった形で暮らしており、むしろそれが家族でも気を遣うので、それなりに行き来がある程度でいい――といった方もいらっしゃるでしょうし、「家族みんなで暮らしてこそ、家族は家族や」といったような賑やかさを一番に求める方もおられると思います。

 

 ただ、そのですね……この間、「家族みんなで暮らしているのに孤独。それこそが本当の孤独や」といった話を聞いてしまい、自分的にハッとさせられました。つまり、娘夫婦と暮らしていて、血も繋がっているのに、何かと除け者にされていてつらい……家族と一緒にいるのに孤独だ、ということだったんですよね。かといって、お金もないので思いきって別居するというわけにもいかず、実の娘だというのに日々何かと気を遣い顔色を窺っており、心は毎日灰色で鬱々としている……という。「この年になったら、若い頃と違って喧嘩する気力もない。病気も持ってるし、万一何かあったら救急車くらいは呼んでくれるだろうけど、はっきり言って邪魔者扱いされてる」といったことだったと思います。

 

 ここはキリスト教について何か書くといったブログなので、「イエスさまのことを信じれば孤独は消え去る」とか、そんなふうにお話できるのが一番いいはずなのですが――今はボランティアなどでも、先に「宗教の勧誘はしないでください」と注意事項のひとつに書いてあったりと、なかなか難しいんですよね。まあ、わたしの場合そうじゃなかったとしても、部屋の片隅や隣の和室などに仏壇があって、日本人の習慣として仏壇や神棚をこの上もなく大切にされていることがわかるお年寄りの方の場合……思いきって福音を伝えたりは結局できなかったろうとは思います。

 

 でも、「独居老人」として、自分の趣味その他充実した生活を送る方のいる一方、家族と暮らしているのに孤独――こちらのほうが、自分の心にズッシリ堪えるものがありました。かといって娘さんに「お母さんに優しくしてあげてくださいね」なんて言える雰囲気でもなく、心が久しぶりに暗くなる出来事だったというか。。。

 

 そこで、その方にそう伝えられる可能性は低いとはいえ、「聖書の中に孤独が癒されるような御言葉って、あるのは間違いないけど、どんなのが特によかったかなあ?」とぼんやり思ったわけです。

 

 わたし的にパッと思い浮かぶのが、ヨブ記と詩篇の心癒される御言葉の数々だったりするのですが、この場合は、

 

 

 >>あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

 

(イザヤ書、第46章4節)

 

 >>わたしの目には、あなたは高価で尊い。

 わたしはあなたを愛している。

 

(イザヤ書、第43章4節)

 

 他に、こちらはどちらかというと、自分的に若い方向き(?)の気がしなくもないものの……エレミヤの哀歌もいいかなって思ってみたりもします。

 

 >>主はいつくしみ深い。

 主を待ち望む者、主を求めるたましいに。

 主の救いを黙って待つのは良い。

 人が、若い時に、くびきを負うのは良い。

 それを負わされたなら、

 ひとり黙ってすわっているがよい。

 口をちりにつけよ。

 もしや希望があるかもしれない。

 自分を打つ者に頬を与え、

 十分そしりを受けよ。

 主は、いつまでも見放してはおられない。

 たとい悩みを受けても、

 主は、その豊かな恵みによって、

 あわれんでくださる。

 

(哀歌、第3章25~32節)

 

 

 このあと、>>主はただ、人の子を苦しめ悩まそうとは思っておられない……と続くわけですが、「苦しみが苦しみのまま終わり、悩みが悩みのまま終わった」という経験のある方も、おそらく間違いなくおられることと思います。

 

 それは、「あなたがまだイエスさまを知らなかったから起きたことだ」というのではなく、何か人生の対応がその人の責任で悪かったということでもなく、「そうしたことはある」ということです。

 

 ただ、神さま、イエスさま、聖書の御言葉には力があります。

 

 >>しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。

 神よ。みこころの時に。

 あなたの豊かな恵みにより、

 御救いのまことをもって、私に答えてください。

 私を泥沼から救い出し、

 私が沈まないようにしてください。

 私を憎む者ども、また大水の底から、

 私が救い出されるようにしてください。

 大水の流れが私を押し流さず、

 深い淵は私をのみこまず、

 穴がその口を

 私の上で閉じないようにしてください。

 主よ。私に答えてください。

 あなたの恵みはまことに深いのです。

 あなたの豊かなあわれみにしたがって

 私に御顔を向けてください。

 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。

 私は苦しんでいます。早く私に答えてください。

 どうか、私のたましいに近づき、贖ってください。

 私の敵のゆえに、私を贖ってください。

 

(詩篇、第69編13~18節)

 

 もちろん、それが目に見えるような人としての<敵>ではないかもしれません。もしかしたら、過去に自分が犯した罪や過失のせいで、自分でも「自分が悪かったから、今こんなことになってる。でも本当に苦しいなあ」という、それはそうしたことかもしれません。

 

 でも、イエスさまが泥沼の底から人を救ってくださるというのは本当のことです。

 

 

 >>やみと死の陰に座す者、

 悩みと鉄のかせとに縛られている者、

 彼らは、神のことばに逆らい、

 いと高き方のさとしを侮ったのである。

 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。

 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。

 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、

 主は彼らを苦悩から救われた。

 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、

 彼らのかせを打ち砕かれた。

 彼らは、主の恵みと、

 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、

 鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

 

(詩篇、第107編10~16節)

 

 それではまた~!!

 

 

 


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