神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖マタイの召命。

2019年08月05日 | キリスト教
【聖マタイの召命】ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ


 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。

「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」

 イエスはこれを聞いて言われた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためにではなく、罪人を招くためにきたのです」


(マタイの福音書、第9章9~13節)


 カラヴァッジョの『聖マタイの召命』は、彼の作品の中でおそらく一番有名なものではないでしょうか。

 ところで、この絵を見て机の上の5名の男性のうち、誰が聖マタイだと思いますか?

 実は、聖マタイとされる人物は長年真ん中あたりにいる、黒い衣服の男性と言われてきたのですが、その後、この黒い衣服の男性が指差している、一番端のお金を数えている若者ではないか……との議論が起きたそうです。

 さて、このふたりのうち、どちらが聖マタイなのでしょう?

 わたし個人は真ん中の「え?わたしですか?」と自分の胸のあたりを指差している、黒衣の男性が聖マタイであろうと想像します。

 とはいえ、直感的にこの絵を見た場合、一番端のお金を数えている若者が聖マタイである……としたい気持ちもわかるような気がするんですよね。この場合は、黒い衣の男性は「え?こんな奴がですか?」という意味で、彼のことを指差しているということになるのでしょう(笑)

 ところで、この絵を見て「何やら不可解だな」と感じる方は、ノンクリスチャンの方のみならず、クリスチャンの方でもそう感じられる方は多いかもしれません。

 絵画の右上方に窓が描かれていますが、光が差し込んできているのは当然、ここからではありません。また、この画面だけを見ると、室内で起きている出来事のように錯覚してしまいますが、『マタイの福音書』の第9章を読んでみますと、イエスさまが収税人マタイのことを呼びとめたのは明らかに屋外であることがわかります。

 この光がどこから差し込んできているかということについては、美術の研究家さんの間でもいまだ論争になっており、答えは出ていないそうなのですが――クリスチャンにとって大切なのはそうしたことでない、というのは説明するまでもなく明らかではないでしょうか(^^;)

 つまり、このテーブルに着いている5名の男性は薄暗い部屋にいる……というわけではなく、描かれた場面が室内なのか室外なのかということも関係なく、この<光>というのは物質的な意味での光ではなく、唯一イエス・キリストのみが人に与えうる霊的な光のことなのです。

 再び、右上に描かれている窓のことに注目してみたいと思います。

 イエスさまがおっしゃった御言葉に、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」(マタイの福音書、第6章22~23節)とあるのは、みなさんご存知のことと思います(さらにこのあと、24節、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と続きます)。

 つまり、このテーブルを囲む5人の人々は(ちなみに、画面右のイエスさまの隣にいる人物は聖ペテロです)、みな霊的には盲目な人たちなのです。この窓をこの人々の心の窓、霊の窓として見ますと、相当汚れきっていて、もはや光など一切差し込んできていないのがわかります(「いや、もともとそういう窓なんでねえの?」との意見もあるかもしれませんが、カラヴァッジョはそうした意図でここに窓を描いたのでないと思います)。

 そして、もし真ん中あたりにいる黒い衣の男性が聖マタイでなく、一番端のお金を勘定している若者が聖マタイであるとするなら――ちょっと話のほうが矛盾してくると思いませんか?(^^;)

 何故かというと、この若者はイエスさまのほうに目すら向けておらず、お金、つまり世俗的なことに夢中になっているのです。ゆえに、イエスさまが帯びておられる霊的な光になど気づいてすらいません。また、イエスさまの指が指しているのがこの若者であるとしたなら、指がもう少し下方を向いている必要があると思います。

 してみると、やはりイエスさまがお呼びになっておられるのは、画面約中央の男性ということになると思います。また、この男性は黒い衣を纏っています。黒い服というのは一般に<死>と関連づけられ、喪に服している時などに着るものですよね。つまり、彼は自分が世俗にまみれた罪人であると自覚しており、霊的には死んだ者であったところを――イエスさまがお呼びになったことで、イエスさまの背後から差している霊的光が彼の元に差し込んできたという、そうした場面がここでは描かれているわけです。

 一番端にいる若者は、お金の勘定に夢中すぎるあまり、イエスさまの背後から差している、この霊的な光に気づくことさえ出来ていません。まるでこの光を避けるようにむしろ下を向いていることから、この若者は聖マタイではないと断定できると、個人的にはそのように感じます。

 ここからはあくまで個人的な感想となりますが、この絵を描いたカラヴァッジョという方は、美術史上に輝くとんでもない暴れん坊の、常軌を逸した狂人でした(ヤクザ者の天才とでも言ったらいいのでしょうか・笑)

 画家としてのこの世的成功を手に入れたいとの野心が強く、そのために出来得る限りの方策を講じていたり、絵を描いている時以外のプライヴェートについてはまさに罪人そのものといって過言でないといった気がします。

 自分が出入りしている界隈で暴力騒ぎを起こしては逮捕されたり、訴えられたり……また、自分の庇護者のお陰でその度に釈放されていたものの、ついには殺人事件を起こしてローマから逃亡しています。

<聖マタイの召命>は、カラヴァッジョの出世作にして、画家としては比較的初期の頃の傑作に当たるのでしょうけれども、個人的に、おそらくカラヴァッジョは自分は一番左の若者に近いと自覚していたのではないかと想像します。

 けれど、収税人である聖マタイのように主イエスの召命に答えたいと願う気持ちも、カラヴァッジョの中には同時に存在していたのではないでしょうか(この場合は、あくまで己の腕、画業を通してということですけれども^^;)。

 短気で喧嘩っ早かったと言われるカラヴァッジョですが、自分を常に<罪人>と位置づけ、そのことを自覚していればこそ――ただ出世のためというのみならず、あれほどの宗教画の傑作をいくつも描くことが出来たのではないかと、そんな気がするのです。。。

 ところで、マタイによる福音書の第9章を読みますと、この聖マタイにとっての劇的瞬間は、明らかに屋外で起きたことであるにも関わらず、室内で起きているように見えるのは何故かと言いますと、この絵を注文したコンタレッリ枢機卿が「室内に場面を設定するよう」注文したことによる、ということのようです(『カラヴァッジョの秘密』コスタンティーノ・ドラッツィオさん著、上野真弓さん訳/河出書房新社より)。

 明らかに屋外で起きた出来事であるにも関わらず、「んな無茶な☆」と思うでもなく、カラヴァッジョの天才の絵筆はこれを聖マタイの心・魂・霊という<室内>で起きた出来事として描いているのではないでしょうか。

 つまり、聖書にはわたしたちの体を<霊の家>として捉え表現している箇所があるわけですが、そこにイエスさまからの光が聖マタイの中に届いたのです。他のテーブルを囲む4人は、明らかにこのマタイに起きた聖なる出来事に気づいていません。

 そして、世俗的な出来事から離れられないことを象徴するように、みな良い衣服に身を包んでいるように見受けられます。左のふたりの男性は、イエスさまのほうに目さえ向けていませんが、マタイの(わたしたちから見て)右側にいる男性ふたりは、ちょっと物珍しそうな仕種でイエスさまとペテロのほうに視線を向けています。

 イエスさまによって「救われる」ということは、まさに賜物であり、その真理を聞いても悟る人、悟ることの出来ない方とがいるわけですが、このテーブルを囲んでいる右側の男性ふたりはまるで、イエスさまの言葉を「聞いたが悟ることは出来なかった」人のまるで象徴のようです。

 キリスト教の宗教画というのは、一枚の絵の中からいくつもの聖書の逸話や言葉が連想されるところが見る側の楽しみであり喜びであり、さらには霊的滋養ともなることだと思うのですが――カラヴァッジョの絵というのは、絵だけを見ると「これを描いた人は、よほど信仰に燃えた素晴らしい画家だったに違いない」と感じるにも関わらず、実際のカラヴァッジョの生涯というのは、暴力沙汰によって逮捕されたり告訴されたり、娼館通いをしていたり、また自分の気に入りの娼婦をモデルにして絵を描いていたり、さらにはこの娼婦の女性を巡る確執によってついには殺人事件まで起こすに至るという、実にスキャンダラスなものでした。

 この絵画におけるカラヴァッジョの天才性と、彼自身の実人生における矛盾――絵画というのは、描いた人の生涯や背景は関係なく、感じたままに読み解くべきだとの考え方もあると思いますが、絵を見たあと感銘を受けるあまり、「この絵を描いた人はどんな生涯を送ったのだろう」と興味を持つのも極めて自然なことですよね(^^;)

 でも、カラヴァッジョの絵と彼の生涯というのは、彼の絵の中の光と闇のコントラストのように、あるいはその両義性のゆえに、見る者の理解を拒む要素が必ず残されており、「これは一体どういうことだろうか?」と迷宮に迷いこませるところがありますよね。。。

 そして、人というのは「永遠に答えのでない」ものにこそ価値を見出し取り憑かれるものであり、カラヴァッジェスキというのは、カラヴァッジョの絵を称賛して模倣した人々のことを指すそうですが、カラヴァッジョの絵の魅力に取り憑かれた人というのはまさに、カラヴァッジョスキーと名づけていいのではないでしょうか(笑)
 
 なんにしても、北海道に今月の10日から10月14日までカラヴァッジョ展がやって来ます!!

 わたし、カラヴァッジョの自画像と言われる「病めるバッカス」が大好きで……これ、北海道にしか来ないと公式サイトで知り、嬉しくなったのも束の間、「ホロフェルネスの首を斬るユディット」が大阪にしか来ないと知り、「嗚呼……」と、悲しくなりました

 ユディットの首狩物語は、聖書偽典に出てくるお話なのですが、ボッティチェリやクラナッハ、クリムト、アルティミシア・ジェンティレスキなど、色々な画家さんの有名な絵があります

 なんていうか、カラヴァッジョの絵画は霊的なインスピレーションで満ちていると感じるのが個人的に最大の魅力と感じていますので、直に本物を見て霊的な滋養にしたいと思っていたりします♪(^^)

 それではまた~!!





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