神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

死ぬのが怖い。

2024年07月11日 | キリスト教

 先日、とある古新聞の人生相談の欄に書いてあったことが目に留まりました。そこに書いてあったことによりますと、年齢が八十歳の男性で、年下の奥さんがいらっしゃり、娘さんがいて、この先さらに老いて死ぬ時のやって来るのが怖い、どうすればいいでしょうか……といった相談内容だったと思います

 

 それで、その相談内容の答えとしては#――まあ、新聞なので決まった文字数で答えねばならないということもあり、「死の恐怖」に対する具体的な答えといいますか、そのあたりに関するアドバイスはほとんどなかったように記憶してます。ただ、今まで充実した社会生活を送ってこられ、年下の奥さんや娘さんといった家族にも恵まれている、幸せな老後を送っておられるあなたが羨ましいと感じます……といったように書いてあったと思います。この相談者の方は八十歳の今も少しくらいは働いておられ、健康面に多少心配な面はあるけれども、週に二~三回ブログを更新するのが楽しみ――といったような過ごし方、とのことだったので。。。

 

 まあ、わたしは自分がクリスチャンなので、「イエスさまを信じれば、永遠のいのちが与えられて、死後は天国に行けるので心配ナッスィンだよ!!」というのが回答であるにしても、他の特定の宗教を持たないか、強くそれを信じることの出来ない方にとっては、確かに死というのが近づいてくるにつれ、不安や恐怖が強まってくるのは当然のことだと思いました。

 

 わたしが今まで聞いたことのある話としては、七十を過ぎると「死」というものはよほど健康でもない限り、頭の隅をよぎる回数は確実に増える……ということだったと思います。というのも、特段親しい方でなかったとしても、新聞の死亡欄などで「七十五」とか「七十六」とかあるのを見ただけでも、「えっ!?同年代。てか、もう自分ももう二年か三年すればその年齢やで!!」といったように驚愕したり、こちらもさして親しい方でなかったとしても、近所の△□さんが亡くなった、その方は七十一歳で、しかも自分と同じ年齢だったりすると――「私/俺もいつ死んでもおかしくない。いや、かといって死に対する覚悟なんて全然できてないんだけど……」といったように、朝から気分が暗くなったりすることさえある。

 

 さらに、わたしのおばあちゃんが話していたことだと、七十歳代から八十歳代になるっていうのは、すごく大きな違いがある、ということでした。わたしのおばあちゃんの場合、七十代はまだ比較的健康だったものの、八十歳になって以降、日一日とだんだんに身体の衰えを感じるようになった……ということだったと思います。もちろん、八十代になっても七十代と変わらず心だけは健康元気!!という方もいらっしゃると思うものの――うちのおばあちゃんの場合は身体の衰えのみならず、「心がまるで曇り空のようにモヤモヤする。そして自分の力ではこのモヤモヤをどうすることも出来ない」と洩らしていたことがあります。おばあちゃんは鬱っぽい気質の方ではなかったですし、心身の衰えを嘆くあまり鬱っぽくなっていたというよりも……その頃からだんだんに、いわゆる斑ぼけといいますか、軽度の認知症的傾向が多少見られるようになって来ていたんですよね。

 

 わたし自身の意見としては、今の時代、七十代の方のことを「老人」といったようにはあまり意識しません。でも、八十代以降になると、「自分で自分の気を引き立てようとしても」無理だったり、そうした時に同年代の親しかった方の訃報を聞いたりすると「自分もいつお迎えがくるかな」と考えたり、「前までこんなことはなかったのに、もうこんな簡単なことをするにも随分時間がかかるようになった」といった、身体の衰えを意識する場面が増えたり、さらにはそのことを人に手伝ってもらわなければならないことで、口に出しては言えないけれどストレスが溜まったり……色々あると思うわけです。。。

 

 日本はやっぱり葬式仏教徒の方が多いですから、「死」というものを意識せざるをえない頃になって、仏教系のことに熱心になられる方というのは結構多いのではないかと想像します。般若心経を写経してみたり、「とにかく南無阿弥陀仏と唱えていればいい」と考えたり、仏教についてわかりやすく書かれた本を読んでみたり……一クリスチャンの意見としてではなく、わたし自身は個人的にそれは「いいこと」ではないかと考えています。

 

 キリスト教徒側の意見としては、「何がいいことだ!ただの偶像礼拝じゃないか」ということになると思うのですが、それはとりあえず一旦横に置いておくとして――それで「死への恐怖が薄まる」であるとか、そうした心理的な薬のような効果があるのであれば、いいことではないかと個人的に考える、ということなのです(^^;)

 

 また、わたし自身はクリスチャンではありますが、「死」というものが目前に迫っているのがわかったとしたら、イエスさまを信じていてなお、相当ジタバタするんじゃないかな~と想像しています。そして、その方が仏教でもキリスト教でも、その他どんな宗教を信じているにしても、あるいは無信仰でも、それでいいのだと思っています。「人間は死ぬまでジタバタする」……その「ありのまま」をイエスさまは受けとめてくださるのですし、「死ぬまで死にたくないよう~!!」とでも言いながら周囲の失笑を買いつつジタバタする――それがわたし個人の死ぬ瞬間の理想ですらあるような気がしてます。。。

 

 でも、他の方はどうも違うらしい。クリスチャンの方でよく聞くのは、「死への恐怖などまるで感じていないように、喜びつつ亡くなった」とか、「イエスさまのことを賛美しつつ、安らかに亡くなった」とか、「死後の顔が笑顔で輝くばかりだった」など、「できればそうありたい」と誰もが望み願うような形で死ねるということが理想なのかもしれません。でも、やっぱりわたし自身としては「死ぬまでジタバタすればいいんだよ」、「死ぬ瞬間まで強がったり、怖くない振りをしたりするなんて、疲れるじゃないか」、「そういう弱みをもし誰にも見せられないとしたら大変だけれど、そうした本音を家族でも友人でも、誰かひとりでも相談できる人がいたら、『あ~あ、死にたくねえなあ』とでも、一度大きな声で言ってみたらいいと思う。何より、生命を持つものは誰も、死を恐れないということは絶対にありえない(そのように本能として組み込まれているので)。その事実自体は単純なものなので、そこにあまり「でも、~~だから自分は死は怖くない」とか、恐れはしないとか、死に際してまでがんばる必要はないような気がします。何より、その頃にはなんらかの病気によって苦しんだり悩んだり、そちらの症状のほうがより深刻になっている可能性のほうが高い、ということがあるので、そんな余裕もなくなっている気がする、というか。

 

 >>わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

(ヨハネの福音書、第5章24節)

 

 >>わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

(ヨハネの福音書、第11章25〜26節)

 

 それでも、死に際してイエスさまを信じるとしたら、それはとても素晴らしいことだと一クリスチャンとしては思います。ほら、昨今はキリスト教と聞いただけで、もともと評判よくないのに「金を無心されるんじゃないか」という悪いイメージまで張りつくようになりましたが、正統的なキリスト教の教えを説く場所ではどこも、不当にお金をむしり取られるといったことはありませんから(^^;)ゆえに、死に際して、死が近くなってきたから急に信仰熱心になって信じたということでも……死後に何か遺産の少しでも寄付しろとか、そうしたことはありませんので、安心して信じて大丈夫と思います。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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