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岐阜県可児市 荒川豊蔵資料館③旧荒川豊蔵邸・陶房

2024年04月06日 10時53分37秒 | 岐阜県

荒川豊蔵資料館。旧荒川豊蔵邸・陶房。岐阜県可児市久々利柿下 久々利。

2024年3月29日(金)。

牟田洞古窯跡下の谷間にあった荒川豊蔵邸の旧居宅、陶房などは、改修整備されたのち2017年4月から公開されている。

谷の上にある荒川豊蔵資料館から坂道を下ると陶房があり、谷間の奥の細道を進んで谷川に架けられた橋を渡ると、牟田洞古窯跡を物語る「物原(ものはら)」と「随縁碑」があり、その先の左上高台に旧風呂場跡の東屋、右上の石垣が積まれた高台には旧居宅が残されている。

「牟田洞古窯址」石碑と陶房。資料館は左斜面上の高台にある。

陶房。

荒川豊蔵は、牟田洞古窯跡において志野筍絵の陶片を発見したことが契機となって志野の再現を志し、この地に移住して作陶生活を送った。旧荒川豊蔵邸は、もともと別の場所にあった古民家を荒川豊蔵が入手し、住居兼陶房として1932年暮れに移築したものである。

戦後、住居から陶房機能を切り離した後に、新たに構えた別棟がこの陶房である。当初はロクロ場と室(モロ)のみであったが、昭和40年代には西側に高床式の書斎部分を増築し、現在の姿となった。

陶房内は昭和30年代以降のロクロ場に近い状態に復元されている。機械類は存在せず、昔ながらの手作業での制作工程であった様子が垣間見られ、豊蔵が使用していた道具や土、釉薬なども置かれている。

牟田洞古窯跡下の谷間。左斜面は「物原(ものはら)」。右高台上に居宅。正面奥に東屋(旧外風呂)。

牟田洞古窯跡を物語る「物原(ものはら)」。

牟田洞古窯の失敗作・廃棄物などが捨てられた跡である。

随縁碑。

この碑は、昭和5年(1930年)、荒川豊蔵が桃山期の志野筍絵陶片を発見した場所に、記念碑として建てられたものである。江戸期以降、志野などの桃山陶は、瀬戸焼と言われてきましたが、可児市久々利大萱での志野発見により美濃焼であったことが判明し、豊蔵が志野再現を志すきっかけともなった出来事である。

その一連の出来事が、奇縁の重なりによる発見だと感じた豊蔵は、「随縁」を座右の銘とし、碑にも刻んでいる。碑の脇には椿を、川岸には、窯下古窯跡から竹を2本移植した。脇石に腰掛け、物思いにふける豊蔵の絵姿が残され、大切な空間であったことを今に伝えている。

東屋(旧外風呂)下から随縁碑と谷間入口の陶房方向。

東屋はもとは外風呂で、川水を汲み、薪で湯を沸かす五右衛門風呂であった。瓦屋根の建物に、常滑の土管で煙突を作り、庭側に白壁の土塀があった。昭和17年には、豊蔵の陶房に川喜田半泥子が逗留し、その時の湯浴みの様子を画にしている。冬の寒さは厳しく、風呂上りでも住居に戻るまでには体が冷えてしまうのが難点であったという。

現在の建物は、改修前とほぼ同じ外観と規模にし、内部は休憩所になっている。

居宅(旧荒川豊蔵邸)。

居宅には多くの著名人が訪れている。

「斗出庵」石碑。「斗出庵」は豊蔵が多治見の虎渓山永保寺老師から戴いた号。

 

このあと名古屋方面へ戻り、多治見市モザイクタイルミュージアムへ向かった。

岐阜県可児市 荒川豊蔵資料館②荒川豊蔵の作品と蒐集品



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