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如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

秋の旅(20)

2007-10-27 23:39:41 | インド旅行記
12月07日
たいした予定もなく、少し暖かくなった頃に朝食を取り、9時半過ぎに散歩に出かけた。TIPAのテント小屋にいってみようと思った。TIPAとはチベットの伝統芸能を保存し公演する組織らしい。
行ってみるとテント小屋ではなく、学校のような立派な建物が建っていた。想像していたよりははるかに立派な施設である。
あるいは、ここのグランドにテントを張るのかもしれない。
コーラスの練習が聞こえてくる。斜面の上の林の中の道を歩いてきたので、私が立っているのは建物より高い位置なのだが、歌の練習はその建物の屋上で行われていた。
数人が混声で歌っている。チベットの民謡のようであった。耳に懐かしい歌声である。
昔どこかで聞いたような感じがするのは、芸能山城組のレコードで似たような曲を聞いているからかもしれない。
しばらくそこに立ち止まって、山にこだまするような歌声を聞かせてもらった。

もう少し上まで登ってから、今度は、この道とほぼ並行して斜面の下の方を走っている道に降りて、その先にある寺院を見て、マクロードガンジに帰るつもりだったのだが・・・
後ろから、せっせと坂道を上ってくる若い男がいる。不審な男・・・しかし、どうも日本人のようである。声を掛けてみると、案の定日本人。
彼はこれから、片道4時間ほどの山に登ろうとしているという。しかし、その山の名前も定かではないという。同宿のカナダ人からこの道を行けばいいと聞いたのだという。ずいぶんいい加減な人である。
しかし、誘われて、その人と一緒に登る気になった私はもっといい加減。
その辺りの人に聞いてみると山の名前はTRIUNDというらしい。私の持っていたパンフレットによれば、標高2827m。確かに片道4時間と書いてある。しかし、標高差は1000m近い。時計はもう10時近くを指している。山に登るなら、もっと早く出なければならない。
それで、午後2時まで登ってみて、登り切らなくても下山するという事にして歩き始めた。案内板はないが、道にペンキで矢印が書いてあったりするし、途中までは人家があるので、道を聞きながら登って行く。登山道は民家の庭先に出たりするが、全体には良く整備されている。民家が終わってから少し登った鞍部にシヴァ神を祭った寺院があった。そこまで登っただけで息が上がってしまい、私ひとりなら止めているところだが、それもできない。
その寺院のところで道はふたつに分かれているが、そこで尾根の向こう側に下ってしまわずに、山の斜面を右に登って行くと、後はTRIUNDまで一本道である。1時間おきくらいに水を売る小屋があって、道はダラダラの登りである。佐々木君というその男は、もちろん私よりは歩くのが速いから、私は「先に行ってください。」と言う。それでも私一人で歩くのに比べれば、ずいぶん速く歩いた。
いったいどこまで登るのかという問題があったが、そのうちにめざす場所が見えてきた。目的のTRIUNDは、自分たちが今登っている沢の上に見える尾根にある山小屋であるらしい、そのあたりにはチベッタンの旗もひらめいている。道は深い谷の急斜面に付けられているのだが、岩がしっかりしているし、道幅も広くて安心感があった。岩石の種類はよく分からないが、白っぽく透明感があって長方形にかけるような種類のものが主体である。
最後の登りにさしかかるところで馬を3頭連れた男に会った。馬は小型である。荷を運んだ帰りらしい。歌を歌いながらゆっくり下っていった。最後の斜面は特に急で、標高も2800mと高いから息が切れた。
この辺りの空には大ワシが数羽舞っている。白いきれいな胸毛をした巨大なワシである。そのワシがかなり低いところまで降りてくるので怖さを感じる。
そしてやっとの事で,TRIUNDの小屋にたどり着いた。頂上ではなく尾根の上である。午後2時を少し過ぎていた。
この尾根の上は風が強いためか立木がなく、草原になっていて見晴らしが非常によい。目の前にひろがる山はヒマラヤらしい岩山である。高さは4000m以上あるのだろうか。
TRIUNDという名はこの辺一体を指す名前らしいが、トレッキングでTRIUNDと云えばこの山小屋の所らしい。山小屋はしかし閉まっていた。
私たち2人の他には、私たち程度の軽装の男女2人連れと、ちゃんとしたトレッキングの装備をした4人のグループがいた。
歩くのをやめるとすぐに冷えてきたし、帰りの行程も3時間はかかりそうなので急いで下山した。それでも、マクロードガンジに着いたのは、陽の沈んだ午後5時だった。

12月08日
もう一度ダライラマ寺院に行ってみた。今日は日曜日でインド人の観光客が目立つ。
昼頃にアッパー・ダラムシャラーからバスでロアー・ダラムシャラーのバス停に下った。下る途中で道端の修理工場の溶接機を借りて、乗客を乗せたままバスを修理するのには参った。下り坂でトラブッたらどうなる事かと思う。

パターンコート行きのバスが出るまでにはだいぶん時間があるので、荷物をクロークに預けて街を歩いてみた。ロアー・ダラムシャラーと云ってもまだ尾根の途中であるが、ここまで降りてくるとチベッタンは少なくなってしまう。ヒマラヤの山々はこの辺りからの方がよく見えるようだ。
バスの発車時刻は3時45分のはずだったが3時過ぎにバス停に戻ると、すぐにパターンコート行きが1台発車した。日曜日なので臨時便が出ているらしかった。
バスを捜す場合、字が読めないから、車掌らしき人を捜しては、パターンコート行きのバスはどれかと聞いて歩くのだが、みんな親切に教えてくれる。
バスは、ひとつひとつの停留所に寄って乗客を乗せたり降ろしたりして、ずっと満員状態である。その混雑の中を車掌が行ったり来たりして料金を集めている。インドの車掌は私の知る限りでは皆男性であった。
バスは4時間かけてパターンコートに着いた。しかし、駅前ではなく、駅からだいぶ離れた夜の薄暗い街角に降ろされた。
仕方なく、暗い夜道を道を尋ねながら歩いてゆくと、駅のホームのはずれの線路の反対側にたどり着いた。他の人のまねをして、そこから線路を渡ってホームに上がる。

ホームではちょうどデリー行きの列車が出発するところだった。バスの中で、時間を気にしていた人たちはこの列車に乗る予定の人たちだったらしい。
しかし、私の乗る列車は4時間以上後である。なぜそんな列車にしたかと云えば、早い列車に乗るのは忙しいし、早朝のデリーに着いても時間を持て余すだけなので、10時頃ニューデリーに着く列車にしたのだ。
従って、この寒い駅で4時間待たなければならない。とりあえず駅のレストランで食事。ここのベジタブルカリーはおいしかった。インドで食べた中では一番おいしかったと思う。
それから、待合室のベンチに座って寒さよけにシェラフをかぶって時間を潰す。
待合室には軍人さんが多い。
軍人さんはふたつのタイプに分けられる。ひとつのタイプは、これから訓練にでも出かけようと云う予備役の軍人らしい人。彼らの服装は半分軍服半分私服と云った感じで、広げると布団になる大きな荷物を持っている。この人達は列車を待っているらしく、思い思いに布団を広げて寝ているから、明け方の列車にでも乗るのだろう。
もうひとつのタイプは、銃を持った軍人さん。頭に赤青ツートンのターバンを巻いている人が目立つ。銃は小型の自動小銃だったりライフルだったりする。この人達は、この駅の警備をしているのか、見回りらしい事をしている。現役の軍人の精悍さがある。荷物が盗まれないように見回りなどしながら、私に声をかけてくる。
「これはおまえの荷物か。おまえは日本人か。日本は金持ちな国だ。おまえの仕事はなんだ。」
不審に思われて調べられた日には、言葉の壁があるからたいへんだと思う。にこやかに、おだやかに、僧侶のように対応するのがよい。

インドの駅は夏暑くないように、風通し良くできている。シェラフを頭からスッポリかぶっていても少し寒いくらいだ。どの人も何かしら防寒用に毛布などを持っていて、それにくるまっていた。そのうちに、駅に寝泊まりしているらしい少年が床に段ボールを敷いて、売店に預けてあった毛布を出すとくるっとくるまって寝てしまった。

私の乗る列車は、時刻通りにホームに入ってきた。しかし、その混みようは半端でない。移動の兵隊さんが乗っているのである。入り口にも通路にもベットの回りにも荷物が積まれて、私のベットにも誰かが寝ている。それでもなんとかベットをあけてもらって寝ることはできた。
軍人さん達は北の国境沿いから来たらしく、しっかりした防寒支度をしていた。インド人ではないように見える人もいる。国境が定まっていないというカシミールあたりに駐屯していたのだろうか。

秋の旅(19)

2007-10-27 19:54:46 | インド旅行記
12月03日
夕方、日が沈んだ頃に、ニーザム・ムッディーン駅に到着した。薄暗い駅である。駅の外に出てオートリクシャを拾おうとしたがなかなか拾えない。一台つかまえたが値引き交渉をするとすぐに行ってしまった。なんだか妙である。それでもどうにか1台つかまえて、ニューデリー駅まで行き、メインバザールに宿を探した。

12月04日
メインバザールに泊まるのは初めてだが、確かに宿は多い。便利である。街には独特の活気があって、歩いていても楽しいし、興味が湧いてくる。
この辺りには牛が多い。ほとんど車が入ってこないために牛も住みやすいのだろう。それと野菜市場があって、売れ残りやかすの葉っぱなど、牛の餌になるモノがたくさんあるから、野放しの牛でも食べてゆけるのだろう。
ゴールデン・カフェはそんな野菜や果物の露天の並ぶほこりっぽい道ばたにあるレストランである。安いレストランだから、もちろんドアはない。風でほこりや排気ガスが流れ込んでくるテーブルで食べるのであるが、中華料理風の品が食べられるので日本人に人気のようである。
このレストランの掲示板には行方不明の日本人青年の尋ね人の張り紙がある。大学法学部の学生とある。どこにいるのか、生きているのか。インドで行方不明になったら、見つけるのは大変だろう。薬でやられてしまっているかもしれないし、病気で行きだおれてしまったかもしれない。インドは怖い場所ではないが、たとえば、東京と同じくらいには危険だと思う。
興味半分で薬に手を出して結局廃人同様になってしまい、それを助けようとした友人を傷つけた、なんて話をバラナシで聞いたことがある。

まずリカンフォームを済ませた。これで帰りの便は決まったわけだ。次にインフォメーションに行って、ダラムシャラーの気候とか、交通機関について情報をもらった。
ここでもタクシーを奨めるのには参った。ナンボかかると思っているのだろう。
それでも地域別のデータベースが用意されていて、コンピュータで打ち出したリストをくれた。私はデリーからバスで行くつもりだったが、バスは良くないから鉄道で行けとインフォメーションの人は言っていた。それで、この言葉には従うことにする。確かにバスで行くには長距離過ぎるように思えたからだ。

それから、ダラムシャラーに行くためのチケットを買いに駅に行った。午前11時くらいである。
駅の外国人専用の予約オフィスはすごく混んでいた。一応乗る予定の列車は決めていたのであるが、そこにいた日本人の話では2時間くらい並んでいるという。しかし、まあ、それくらいなら仕方がない。少し立っていれば座れるから、疲れることはない。外国人と云ってもパキスタンの人が多いのだろうか、インド人と区別のつかない人が多い。
なかにはぞっとするほどの美人もいる。雰囲気はインド人に近いだが、もっとアラビア風で目は憂いを含んだ深みのあるブルー。その目に吸い込まれてしまいそうになる。

カウンターで日本人がなにやらもめていた。あとで聞いてみると、両替の証明書を持ってこなかったので切符を買えなかったとのこと。彼らは、『地球の歩き方』の編集者だという。立派なカメラをむき出しで首からぶら下げているし、そう言われればそうかなと云う感じの人たちである。メンバーは3人くらいだった。「切符が買えなかったことによって予定がくるってしまったら、ここの責任にして悪く書いてしまう。」とか言いながら食事に行ったがそれっきり戻っては来なかった。

ダラムシャラーの最寄りの駅はパターンコート駅。鉄道の幹線にある大きな駅らしく、急行列車が数本走っている。
そして2時間近く並んで行きと帰りの切符を買ったのだが、ふと考えてみると午前0時25分発の列車のチケットを買うのに前の日の日付を指定してしまったことに気が付いた。気づいたから良いようなものの、こういった基本的なところでミスが出るというのは情けない。
仕方なく、キャンセルの用紙と予約の用紙に再び記入して、また1時間半並んでようやく切符を手に入れることができた。午後3時であった。

ダラムシャラーはだいぶん寒そうである。ゴールデンカフェで会った日本人は、雪でバスが行かないと聞いたとか言っているし、インフォメーションの人も寒いという話はしていた。私は薄いセーターしか持っていないから何か着るモノを買わなければいけないのだろうかと思うが、必要なら現地で買えばよいと思いなおして、結局衣類を買うのはやめにした。しかし、デリーでさえ朝晩寒いほどだから、北に400km、標高2000mの場所はかなり寒いだろうとは思った。

メインバザールには、変な服装をした人がたまに歩いている。サドゥーなのだろうが、寒い場所のためか、黄色の僧服などを着ていて、手に3ッ又の槍のようなモノを持っている。どうもシヴァの信奉者らしいが、仮装行列のようでもある。こんなスタイルの人たちが托鉢?して歩いている。

日が暮れる頃に駅に向かった。オールドデリー始発の列車に乗るのである。デリーの街も交通渋滞のためか一方通行になっているらしく、オートリクシャはずいぶん遠回りして走る。いったんコンノートプレイスに行きニューデリー駅の方に向かい、ヤムナー川の方に走り、渋滞の中を照明で彩られた広場のような所を通り抜け、ずいぶん走ってから駅に着いた。
駅前は、やはり薄暗くて混みあっていた。ホームに入っても座る場所があるかどうか分からないので、入り口の階段にインドの人たちと一緒に腰掛けて時間を潰す。入り口に金属探知器のゲートがあったり、警官が見張っていたりするが、駅員らしい人はいない。
そこでぼんやり座っていると、警官が棒を持って座っている人を追い払い始めた。私の座っているところまでは来なかったが、けっこう乱暴ではある。

寝台列車は9時過ぎに発車したが、スリーパークラスの車両に普通の2等の乗客が乗ってきて、3段ベットの上まで人でいっぱいになった。これにはまいったし、いったいどうなる事かと思う。
しかし一応決まりはあるらしく、ある駅を過ぎるとそう云った客はいなくなり、チケットを持った客だけになった。持っていない客は車掌が出入り口の通路まで追い出すのである。それでやっと寝台車らしくなった。

12月05日
朝、明るくなるにつれて外の景色が見えてくる。まるで日本の秋のような風景である。まだそれほど寒いと云った感じはない。
パターンコートについては全く情報を持っていないから、駅に着いてみないとその先ははっきりとは決まらない。狭軌の鉄道があるらしいが、バスもあるらしい。どちらでも良いと思う。まだ朝である。便はいくらでもあるように思っていたし、遅くても昼過ぎにはダラムシャラーに着くつもりでいた。

パターンコートからダラムシャラー方面に向かう狭軌の列車は、到着したのと同じホームの先端から発車していた。切符を買うのに走るほど乗り継ぎはスムーズだったが、混んでいて座れない。なんでこんなに混むのか分からない。乗客はインド人ばかりでチベッタンの顔は見えない。乗っている人々はインド人といっても肌の色の白い、目の青っぽい人が多く、南の地方ともデリーとも少し違った雰囲気である。

この狭軌の列車は8時40分発であったが、9時頃に動き出した。車両は確かに小さい。車幅は2mくらいにみえる。中央部分の左右にドアがある。
乗客がいっぱいでドアを閉めることができないほど混んでいる。
トイレも付いているが、使う人はほとんどいない。駅に止まったときに車両から降りて、線路脇で立ち小便する男の人が多い。
スピードはゆっくりである。早くても時速40kmくらいだろうか。列車は少しずつだが確実に勾配を登っている。
窓もドアも開け放たれているが、別に寒いわけでもない。線路脇には秋の花も咲いているし、南国風の木々も自生している。
しばらく行くと大きな湖があった。線路沿いの家の造りはデリーなどとはずいぶん違っていて、スレート葺きの家が多い。天然のスレートだから、当然屋根に傾斜をつけるわけで、遠目には、瓦葺きの家のように見える。
線路は単線で、1時間半くらいに一度、下りの列車とすれ違う。すれ違うときはこちらの上りの列車がいつも待つことになっているらしい。
駅に止まったときに車両から降りてみた。レールの間隔は80cmくらい、レール自体は当たり前だがしっかりした造りの本物である。また、この列車にも1等車のような車両が付いていた。ゆったり行くならそちらの方がよかったかもしれない。

線路は山沿いに蛇行していて、トンネルはほとんどない。
そして結局、カングラ・マンディールという名の駅まで4時間以上かかった。途中から座れたから良かったものの、予想外に時間がかかってしまったと思う。
カングラ・マンディールは小さな駅で、そこからさらに、ダラムシャラー行きのバスの出るバスステーションまでは2kmくらいある。このカングラマンディールというのはヒンドゥー教の寺院の名前で、そこに観光客が集まっているようであった。
この辺りまで来てもチベッタンの姿はほとんど見かけない。

カングラ・マンディールのバスステーションからバスに乗り、30分ほどでロワー・ダラムシャラーについた。ここはもう山の中腹である。ロワー・ダラムシャラーのバスステーションはなかなか立派で、多くの人で賑わっていた。ここまでくると幾らかチベッタンの人たちが見られるようになった。
亡命チベット政府のあるアッパー・ダラムシャラーへはさらに別のバスに乗って、また20分くらい登る。

検問を通り小さな教会を見ながら急坂を登りきった所がアッパー・ダラムシャラー。標高は1800m。ここも山の斜面の途中である。平坦な土地があるわけではなく、斜面につきだした尾根の上に小さな街ができていた。どことなく、奈良の吉野山の雰囲気に似ている。

例によってホテル探しからはじめる。最初にホテル・チベットに行ってみた。安い部屋でも1泊税込みで440Rs。ディスカウントは全く受け付けない。受付のおねえさんは、まるで日本人のような雰囲気のチベッタンの娘さんである。一応部屋を見せてもらったら、立派な部屋であった。しかし高いので、他をあたってみることにした。
2軒あたってみたけれど、あまりよい宿はなく、結局またホテル・チベットに戻った。このホテルの部屋の造りはかなり上等である。シャワー・トイレの造りも良いし、窓も広い。しかし、値段を考えれば二重丸のホテルである。ここのレストランは手頃な値段でチベット風のおいしい物が食べられる。

さて、どちらの道を行けばダライラマの住む場所へ行けるのかと散歩しているうちに夕暮れになってしまった。
このアッパーの街だけはさすがに亡命チベット政府の本拠地だけあってチベッタンの人が多い。
気温はそれほど低くなくて、日本で云えば秋の半ば過ぎ、紅葉前の気候である。

12月06日
シェラフだけかけて寝たら明け方寒かった。それで上から毛布をかけたらちょうど良くなった。
料金が安いのは、部屋の真上がレストランだからで、宵のうちは少しうるさかったが、真夜中から明け方にかけては本当に静かだった。
日が昇ってから屋上にでてみると、近くの緑の山の向こうにうっすらと雪をかぶった高い山が見えていた。

ゆっくりの朝食を食べてから、ダライラマ・テンプルの方に歩いて行ってみた。バス停のある小さな広場がこの街の中心で、そこから南に向かってのびる尾根の鞍部の上に、2本の道が家2軒ほどの間隔で平行して走っている。そのうちの右側の道を行くとダライラマ寺院に行ける。
ホテルから少し歩いた左手に、マニ車で周囲を囲んでいるラマ教寺院があって、チベッタンのおばさん達が参拝している。寺院の建物の中には大きなマニ車があって部屋の壁は仏画・仏像・灯明で飾られている。
通りを小豆色の僧服を着たラマ教の僧侶が2,3人で連れ立って、あるいはひとりで思い思いの方向に歩いて行く。その通りに面して土産物屋が並んでいる。
しばらく行くと道はピークを右に巻いて、人家が少なくなるが、ピークを過ぎるとまたひとかたまりの建物の集まった鞍部に出る。ダライラマ・テンプルはこの先の丘の上にある。
このあたりにはとりわけラマ僧の姿が多い。僧衣の赤っぽい小豆色は良い色である。ラマ僧の僧衣の生地は寒冷な場所で過ごせるように厚めの物である。彼らはほとんど革靴を履いている。

ダライラマ寺院はそれほど大きい寺院ではない。鉄筋2階建てくらいに見える。その向かいに守衛のいるしっかりした門があるのでその先にダライラマがいらっしゃるのだろう。寺院の前は公園風になっていて、行事の時にはここに信者が列を作るのだろうと思われた。
寺院の見所は2階部分にあるふたつのお堂である。
西側にある部屋には、すばらしい壁画が描かれている。ダラムシャラーにダライラマたちが逃れてきたは1950年代である。したがって、この寺院自体新しい物だから、この壁画の作者も現代の人のはずであるが、その絵のすばらしさと色彩の豊かさは伝統の力を充分に感じさせる。左右の壁のマンダラはすっきりした感じで現代的でさえある。いつまでも見ていて飽きない。
中央の部屋が本堂らしい。部屋の向かって左側には閻魔大王のような神様と十一面観音のような仏様の大きな像が並んでまつられていた。これも新しく作られた感じの像である。全体に新しく、しかも信仰のしっかりと生きている感じがここのすばらしい所なのだろうと思う。
この寺院は山の斜面から南に張り出した尾根の上にあるために、周囲の眺望もすばらしい。

ダライラマ寺院からの帰りには丘の東側を巻いて戻る道を選んだ。この道は途中から人ひとりがどうにか通れる道になってマクロードガンジに抜けていた。この道の下の斜面にもチベッタンの僧侶達の宿舎が並んでいた。

電話をかけに電話屋さんに出かけた。店番は男の子のような女の子で、大人びて落ち着いていた。電話をしていたのは、がっしりしたからだつきの、30歳くらいの僧侶とその弟子らしい20代そこそこの女性の僧侶である。店番が云うには男の方はスワミだという。スワミとは優れた僧侶のことを指すのだろうか。たしかに、大きな子供のように天真爛漫で人柄の良さそうな男ではあった。女性の僧侶は頭を丸めていたが、とても美しい人だった。

無題

2007-10-27 18:54:03 | Weblog
「秋の旅」を載せているうちに季節はどんどん進んで、朝晩は寒いほどになってきました。キンモクセイの花も終わり、ビラカンサの実は熟し、赤い実にはオナガが集まってきます。
昨年植えた無花果の木はあっという間に大きくなり、たくさん実を付けました。無花果の木の成長がこんなに早いとは知りませんでした。

最近、いろいろな事がトントントンと進んでいます。ちょっとしたきっかけで年来の懸案事項が簡単に片付いてゆきます。そういう時もあるんだなと思います。
もちろんそれにつれて、新たな問題も出てきています。その中には、今までは大きな問題の影に隠れて見えなかった問題もあるし・・・
たぶん死ぬまで問題はあるわけで、それを問題とするかしないかを判断すればよいだけなのですが。
まあ、重要なもの、価値のあるものを判断する事ができれば苦労はないわけです。なかなかそれができない。
それゆえに無駄が多い。しかし、無駄だと思われることも、見方によれば大切な人生の一部だともいえる。だから、どうでもよい。
しかし、どうでもよいと思った瞬間にそれ以上深く考えなくなり、その結果としてまたミスも生まれてくる。そこがむずかしいところ・・・

「秋の旅」の方は、もうプッタパルティを出発してしまったので、残りわずかです。
プッタパルティでの生活は、基本的には毎日同じようなパターンでの規則正しい生活なので、あまり書く事もないと思ったのですが、こうしてみると結構な分量になってしまいました。
旅の途中と違って、書く時間がたくさんあったということかもしれません。
なるべく事実だけを載せようと思っていたのですが、結局かなり憶測やら推量・思い込みが入ってしまっているようです。
なお、登場する方の名前はすべて仮名にしてありますが、皆様にはいろいろお世話になりました。お礼を申し上げます。また無断で登場させてしまったことを、お詫び申し上げます。

先日テレビで、ポアンカレ予想を証明したとされるベレルマンについての番組を放送していました。
数学の学者や理論物理学の学者の頭の中がどうなっているのか、少し興味があります。
彼らとて人間ですから、自分たちと同じ世界に住んでいるはずですが、数学の学者の頭の中にある数学の世界は別世界なんだと思います。
現実の世界で生きながら、しかし人生の多くの時間を別世界で生きている人達。
しかも、最先端の、あるいは革新的な分野であれば、その世界を知る人の数はどんどん少なくなります。

そういえばこの秋のドラマに「ガリレオ」があります。このドラマの構成はどことなく「トリック」に似ています。”どことなく”です。しかし「トリック」にはあったアドリブのような軽い会話や笑いがないので、少し物足りなく感じます。

「トリック」の仲間由紀恵が出演しているのは木曜日の「ジョシデカ」。こちらの方はコミカルな演出で、その点は「トリック」の雰囲気があるかもしれない。仲間由紀恵の魅力は多少コミカルな演出の方が引き出される感じです。コミカルなんだけれどもいっしょうけんめい。
そういえば仲間由紀恵をテレビで最初に見たのは日テレの「夜もいっしょうけんめい」という歌番組でした。一時期準レギュラーだったと思います。もうずいぶん昔です。
当時彼女の歌はそれほどうまくなくて、「なんでこの子を使っているんだろう?」と思ったものです。
「夜もいっしょうけんめい」で私が期待していたのは、歌唱力のすばらしい人が自分の持ち歌以外の歌を歌うのを見ることでした。
毎週楽しみにして歌番組を見ていたのは「夜もいっしょうけんめい」が最後だったです。

それから同じ木曜日の同じ時間帯に「医龍Ⅱ」が始まりました。前の「医龍」を見てしまった続きでこれも見ています。あくまでもドラマの世界での話だということはわかっていますが、「大人の童話」といった感じで楽しめます。
このドラマの会話のシーンで「” ”」をジェスチャーで表現していますが、これって流行るんでしょうか?

そういえば水曜日には「相棒6」も始まりましたね。こちらもめちゃくちゃな話ですが、またつい見てしまうかもしれません。

こうして見ているドラマを並べてみると”刑事モノ”が多いですね。犯人探しとか、推理とか、そういったものに魅力があるのでしょうか。
しかし、刑事モノでもはじめから見る気もしないのがあるので、一概にそうとも言えないのですが・・・