如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

秋の旅(11)

2007-10-08 02:54:24 | インド旅行記
午後の時間
午後のダルシャンの待ち時間に「サイババ イエスを語る」を読んでいる。
新約聖書を読んだ人なら誰でも、イエスの時代にイエスと一緒に生きた人々を思い、自分がその時代に生きていたらどうだったろうかと思ってみたりするものだ。2000年前に生きたイエスはわずか3年ほどの伝道であったから、彼に実際に会った人の数はそれほど多くはなかったろう。
なぜ、キリスト教が、つまりイエスを教祖としたユダヤの教えが、イエスの死後あのように広まっていったのか、私にはよく分からない。わずか3年ユダヤの乾いた土地で伝道をしたユダヤの男、捕らえられたイエスを弁護し助けようとする信者さえいなかった。そして銀貨30枚で売られた男。彼の地元でさえ、当時の彼の評価はそれほど高くなかったように思える。すぐに忘れ去られても仕方のない、ひとりの変わり者であった。
彼はいくつかの奇跡を起こしたが、彼よりも以前にも以後にも似たようなことを行ったと云われる人はいただろう。なぜ彼だけが救世主としてあれほど祭り上げられたのか分からない。ただ言えることは、「イエスの教え」を布教していった人々が優れていたということ。
辺境の地でわずかに3年の間布教活動をして処刑された男の物語を、救世主の物語としてまとめていった、その人物はすごいと思う。
アシュラムに来ている西洋人の多くはキリスト教徒であろう。その人達の多くはサイババとイエスを重ね合わせている。

それにしても不思議に思うのは、午後のダルシャンである。ダルシャンは4時ころに始まるのに、会場の大広間には3時少し前に人を入れてしまう。そして、スワミは3時を過ぎた頃に住居から出てきて、女性の信者の間を通ってすぐマンディールに入ってしまう。それから4時までの間、姿を見せることもあるが、ほとんどマンディールに入ったままのことが多い。我々は4時までの1時間を広間に座って待つわけだが、セバダルの指示でぎっしり詰めて座らされているから、暑いし身動きがとれない。おしゃべりは原則禁止だから、千人以上の人が、ムッとする昼下がりの時間を思い思いに過ごすことになる。
この時間の正しい過ごし方はたぶん瞑想である。瞑想している人はいる。ちゃんと足を組んで背筋を伸ばして座禅のような感じで瞑想している人もちらほらいる。そういった正しい姿勢ではなくとも、結果的に、私を含めてみんな瞑想らしき事をしているわけである。
瞑想以外では、本を読む。白い服を着た学生たちは教科書らしきものを持ち込んでいる。外国人にも本を持ってきている人が多い。
その中でも、日本人は特に本好きのようで、ダルシャンラインにいるときから黙々と本を読んでいる人が多くて、それが目立ったりする。
それ以外には、『AUM SRI SAI RAM』とか『OM SAI RAM』とかノートにびっしり書いている人。口の中で何か唱えている人。
居眠りしている人も結構いる。泣き出す子供もいる。まだ小学校に上がらないような子供には、ずいぶん長く感じられる時間であろうし、蒸し暑い。
しかし、さいわい、信者の人達はほとんど体臭がしない。それは、菜食主義のためかもしれないし、シャワーを使ってから来るためかもしれない。

この午後の時間をゆったり楽しむようになったときには、アシュラムに溶け込んでいるわけだ。

私は、風通しのよい場所に座りたいし、会場のあちこちに座って違う角度からサイババの動きを見てみたい事もあって、属しているグループの人達とは離れた場所に座ってしまうことがしばしばだった。もっとも、アシュラムの外に滞在していた私はダルシャンラインに並ぶ時に単独で並んでしまうため、結果的にそうなってしまうようでもあった。
グループのメンバーは、いつも大体同じ場所に陣取っていた。そのあたりは確かによい場所なのだ。
しかし、その場所にも欠点はある。人垣の中に入るため風通しがあまり良くないこと。マンディールの正面ではないので、インタビュールームの前辺りにスワミがいる時よく見えないこと。スワミがグルッと周囲を歩く形になるためにその都度体の向きを変えなければならないこと、などである。