京都デモ情報《ブログ版》

京都周辺で開催されるデモ行進・街宣・イベント・裁判・選挙等の情報を共有するためのページです。

【書評】世界革命

2023年06月15日 | 書評



本書は、なぜロシア革命がスターリン主義化して世界革命に繋がらなかったかを論証している。大きな原因として、帝国主義国支配層の意を受けた社民主義政党によりヨーロッパ圏の革命勢力が潰されたこと、先進国プロレタリアと植民地従属国労働者農民が革命の現場で合流できなかったこと、の二点を挙げている。それは、社会主義革命と共産主義革命は、高度に発達した生産力を持つ先進資本主義国のプロレタリアよって成就するという、第2インターナショナル的教条と一対のものとして捉えられている。

この行き詰まりを突破し1970年代革命に向け著者が打ち出すのは、辺境の地から農民労働者軍が帝国主義本国へ攻め上り、先進国プロレタリアに加勢する世界革命戦争路線である。今から見れば荒唐無稽な超極左主義にも思えるが、当時はベトナム戦争を始めとして各国で民族解放的な農民ゲリラや都市暴動が戦われており、裏付けのない話ではなかった。また先進国から世界革命戦争を担う主体として、流民となった元学生が街に屯していた。実際に、赤軍派や東アジア反日武装戦線はこの流れから発生した。問題は、
①立ち返るべき革命根拠地としての辺境が高度経済成長による資本主義化の波に吞まれた
②辺境の民がオリエンタリズムに基づく片想いを相手にしなかった
③辺境は平等と連帯の生きうる原始共産制というより奴隷制や家父長制の源泉でしかなかった
ことである。人民公社と紅衛兵に蹂躙された中国が、改革開放路線でブルジョア的先進国へ変貌したのは、象徴的出来事といえる。何よりも、その後「縄文日本文明」にまで退却した、著者の生き様に現れているというべきか。

では今この本を紐解くことは、懐旧談の種捜しに過ぎないのか。本書で、先進国プロレタリアは帝国主義が用意する財や地位、利権に懐柔された社民主義の温床として、不信の目を向けらている。だが時代は変わった。現代の先進国プロレタリアは、新自由主義の中で雇用条件や福祉を削られ不安定な地位に陥っている。正規雇用の労働者も、いつ非正規労働者に突き落とされるか分かったものではない。デジタル化の進展が生み出したギグワーカーなど、流民の最たるものだ。労働組合の組織対象外である労働者は、理解の範囲外にある棄民として扱われる。こうして我々は、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの労働者と同等の生活レベルと生存条件を分かち合う、「世界帝国主義資本に対する予備軍プロレタリアート」(p.142)になる。あらゆる国々の労働者は本質的に、国境という障壁を取り払われた「単一の労働過程」(p.10)を流動させられるのだ。

ここに、現代の世界革命を実現する経路が見出せる。資本家は世界核戦争を含めた環境破壊と、利ザヤ稼ぎしか出来なくなった。そんな資本家を押し退けることができるのは、現実に社会を動かす大多数のプロレタリアである。資本主義を転覆することだけが、プロレタリアートの希望となる。そしてデジタル技術を包摂した単一の生産過程で結合するプロレタリアのみが、生産の桎梏となった私有財産制国家に変わり共産主義共同体を創出できる。日本では新自由主義の下、労働組合破壊を徹底的に押し進めたため、事実上社民主義政党は存在しない。また残された野党による政権交代もありそうにない。投票だけは行なっている、民主主義風の専制カルト政治国家が日本だ。それは本書の分析からいえば、資本主義を崩壊の危機から救うバックアップが存在しないということである。帝国主義の最も弱い環は身近にあるといえる。これらのことを、太田龍こと栗原登一は行間より訴えかけているのである。

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【書評】叛乱を解放する

2023年03月02日 | 書評




叛乱の渦中に介入する党をいかにして捌くか、ということを本書の著者長崎浩は長年に渡り主題としてきた。そのために、倫理を求めることなく政治に徹することで叛乱を評議会(コミューン)へつなげる、叛乱党とでもいうべき「大衆党」と「固有の党」からなる枠組みを設け、そこに党を据えようとする。そして、マルクス・レーニン主義に基づく革命党と、そこから枝分かれした自称前衛党諸派を叛乱から遠ざけようと務める。大義名分は内ゲバの予防だ。

しかし、叛乱党など現実的に有り得るのか。本書の中で、1970年頃と思われるが長崎氏が実際に大衆政治同盟と称した叛乱党の建設を提案したことが記されており、それに対する関係者の応答がふるっている。
『小さく純化した「党」と「大衆政治同盟」なる集団の関係を、実際にどう考えたらいいのか、いろんな受け取り方をされて混乱していくんです。相模湖あたりで合宿したり、どっかの寺に集まったり、説明会だか討論会だかやって、喧々囂々』(p.58 )
困惑と同時に、どうやって長崎氏を角を立てず煙に巻いてやり過ごそうか、と顔を見合わせている人々の姿が思い浮かぶ。長崎氏は、
「それでもありうるかもしれない党という観念を、徹底的に大衆叛乱のうちに見出し形象化することだ」(p.59)
と強引な論を張るが、別項の2021年に行われたインタビューでは、
「もちろん実際は難しいですよ」(p.217)
と、トーンダウン。本書の終わりにさしかかって、
「こんな政治の党が組織としてありうるはずがない、ただの観念だ。それに政治の党と大衆の党の関係をどう組織したらいいのか。これらは当然の疑問として論じられるだろうが、それでも政治の党のカテゴリーは跳梁することを止めない」(p.377)
もう、イデア界の産物であることを隠そうともしない。

なぜ長崎氏は本人も出来ると思っていない、大衆の党と固有の党(政治の党)からなる叛乱党というコンセプトに固執するのだろうか。本書を読み進めるうちに彼の隠れた動機が浮かび上がる。
「セクトの問題、これがブントの潰れ方が六八年まで残したブントの禍根」(p.165)「ブントは死にきれず」(p.208)「ブントの潰れ方が残した禍根」(p.211)「ブントは解体したまま死にきれず、その禍根は日本の1968まで跡を引くことになる」(p.369)「ブントはブントとして死にきれず」(p.370)「安保ブントの経験が、というよりその潰れ方が残した禍根が」(p.375)
という、本書全体に散りばめられた「禍根」「潰れ方が」「死にきれず」を繰り返す長崎氏の総括文からは、彼が60年安保闘争に敗北し分解したブント(共産主義者同盟)を往生させられなかった責任に囚われていることが見て取れる。浮かばれない長崎氏とブントの魂は、混然一体となって疎外現象を招き入れる。ブントの禍根は悪霊となって他の党派やセクトに憑依し、ピュアな叛乱を捻じ曲げようと常に狙っている。悪霊を退治するには政治に通じた叛乱党が必要だ。60年安保の放埒沙汰の後に、こういう「影の言葉」(p.92)を啓示されたのだろう。こうしてアジテーター長崎氏は、大衆叛乱が起こる度に叛乱党の必要性を売り込むことで、左翼性を糊塗した党無き叛乱党主席に納まることができた。そういう前衛党一人的な立ち位置から、全共闘運動に口を差し挟んだのである。「三里塚闘争、対政府交渉の顛末」(p.245)で語られる、わざわざブント記念日を選んで調印された6・15協定も、そんな彼ならではの代償行為といえる。
「住民運動の模範であった三里塚闘争が、テロやゲリラでゆがめられたまま終結することに危機を感じた」(p.272)
叛乱論の最終墜落地点を示す当人のセリフではある。長崎氏に掛かると当事者を差し置いた自民党政府との裏取引ですら叛乱が生み出す政治や地域自己権力なるものに化ける。交渉を持ちかけた政治家役人も、乗せやすいが使えないと早々に見限ったことだろう。まるで、おせっかいな社会運動版破産管財人といった趣きだが、そんなことで禍根という自ら抱える罪業は軽減するのだろうか。とはいえ、叛乱党というコンセプトが失効しない限り、本人の精神的ゲシュタルトは何の不整合も感じないように思われる。

しかし長崎氏にとって厄介なことがある。悪霊の方がこの世に今も実在することだ。それは、本文中最もページを割いて問題視している中核派だ。
「六〇年ブントの叛乱への思想的備えのなさ、それでいて肉体的に叛乱の先端を走ったこと、このねじれが中核派という化合物を生み出したのではないか。六〇年ブントの潰れ方が、こういう化合物を後に残し、それが1968のセクトの中心になるのです」(p.212)
「中核派の路線主義は明らかに六〇年ブントの壊れ方に、敢えて言えばその残した禍根にその起源があるからだ」(p.350)
叛乱を超えられず分裂崩壊したブント、その敗北の禍根を受け継いでいるからこそ、前衛党の体のまま倫理と革命を掲げ叛乱に出入し叛乱を揺さぶる悪霊党、中核派。中核派を叛乱党のカテゴリーに吸収し溶解させなければ、長崎叛乱論は思想的にも実践的にも挫折を余儀なくされ、叛乱党という悪魔祓い的投影の効力は証明されない。学者ぶって言い換えるなら“歴史”にならない。より重大なことは、ブントの成仏と埋葬がいつまでたっても実現されないということだ。つまり、叛乱論から本書に至る、活動家長崎浩の一生涯を懸けた本願が成就しない。「内ゲバ論の共同制作を提案」(p.8)「公共的に制作」(p.354)など、本当は中核派を溶解するための撒き餌だろう。

『私自身は六〇年ブントの解体の後に、「真のマルクス・レーニン主義」「綱領-路線の前衛党」なる党の観念を捨てた。それだけに一層、1968における中核派の路線主義そのものの功罪に注意を向けたいのである』(p.352)
という一文からも、中核派が存在するために、長崎氏は棄教者の負い目に苛まれていることが伺える。1968(1971もか?)、全共闘、ノンセクト、ブントといったセンチメンタルな美名で負い目を覆い隠そうとうする他の似たような棄教者や、グラムシ、吉本隆明あたりを中和剤にし自らの不手際をセクトになすりつけ無かったことにしている、昔学生運動今小市民たちの集合意識を救済するためにも、叛乱や内ゲバをダシにした為にする議論は出版需要があると思われる。もしかすると長崎氏は、反日共意識を紐帯とする寄り合い所帯でしかなかった共産主義者同盟を、コミューンの萌芽と錯覚したままなのかもしれない。だからこそ、余計に党派がコミューンの雑音として排除の対象になる。
「マルクス=レーニン主義という革命論の歴史をせめて現時点で清算しておかないといけない。先祖返りの道を少なくとも理論的思想的に断ち切っておくことが必要だと思います。そうでないと、叛乱のたびにまた起こるに決まっている問題です。前衛党が必要だなどといって新・新左翼のセクトが登場します」(p.225)
中核派という悪霊が取り憑いて離れない。

そうであるなら、長崎氏が安心立命の境地を得るためにやるべきことは、内ゲバ語りの老人サークルを作ることではない。そんなことをしても、大衆政治同盟の時のように喧々囂々して終わるだけだ。「歴史は二度繰り返す、一度目は…」と、昔の偉人も言っている。ましてや暴露本回顧本の類を収集し、高度大衆消費社会に回収された同類を相哀れむことでもない。84歳になる長崎浩氏が今やるべきは、革命の権化である中核派議長清水丈夫氏と差し向かいで討論することではないか。
「六〇安保は先ほど言いました戦後政治過程の頂点として闘われ、同時にこの過程にピリオドを打つことになります」(p.187)
この結果への無念を引きずる両名が、それを止揚できるのかどうか。「アンポに固執する点で」(p.193)清水氏と長崎氏は奇妙に孤立した対峙の関係にある、ことを認めれば可能か。雑誌情況を通じて対談の申し入れすれば、何とかなるだろう。そこから生み出されるアマルガムは、「改憲と再軍備を断念させ」(p.368)る国民運動に収斂し60年安保闘争以降凍結されたままの戦後政治過程を流動化させることに繋がる、少なくとも理論的思想的には。これが、2015年安保~2020東京五輪~令和版所得倍増計画…と、3・11以来続く高度経済成長無き60年代戦後復興二番煎じ劇を終わらせるため、現に必要とされる公共制作というものだ。また長崎氏が風化する一代作文屋で終わるのか、それとも死後も広く生き続ける精神となるのか、を決定する最期の投企になると言っておこう。端的に言って長崎氏やその周辺に必要なのは、ブント崩れにありがちな、いつまでもブントという記憶修正されたブランドを引きずる生き方から解放されることだ。でないと、いつまでも反日共反中核意識のみを紐帯にした、何百回目かのブント紛い運動を作っては壊すパロディーから逃れられない。

米中全面核戦争への日本参戦という日米安保条約が極点に向かう情勢下において、「キシヲタオセ」式運動とその尻馬に乗る叛乱はもう通用しない。高度経済成長や“平和と民主主義”に回避する路線は塞がれたのである。愚直に、凍結された戦後政治過程を叩き続けた者のみが未完の60年安保闘争=普遍史の流れを主導する。それを一段深い意識で再認識できるか、本書を通じて我々大衆の側も試されている。


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【書評】テロルの現象学

2023年02月07日 | 書評




本書は、自己観念と共同観念そして党派観念に対抗する集合観念こそが、陰惨なテロルのない革命を形成すると主張する。具体的実例は預言者を頂く千年王国主義運動とされ、薔薇十字会やフリーメーソンといった秘儀結社によって担われたという。なにやら胡散臭い話だが、付け足した補論の中で、『千年王国主義運動を近代に継承した革命運動が、そもそも「オカルト的なもの」と不可分だった事実』と、オカルトであることを認めている。それでいてオウム真理教事件はボリシェヴィキ的戯画とされ、党派観念による凶行とされる。「いまや世界の民衆叛乱を領導しているのは、宗教と叛乱の融合形態としてのユートピア社会主義であって」と書いておきながら、その辺り、著者のご都合主義で腑分けしているだけではないのか。補強のため便利使いされているブランキもいい迷惑だろう。

そもそも集合観念なるカテゴリー自体、成立するのか怪しい。「それはまず民衆のなかにこそ潜んでいたのであり、彼らは民衆の秘教的伝統を再発見したに過ぎないのだ」と実在性を強弁するが、オカルトを集約したカルト宗教の集団ヒステリーを、言い換えただけというのが実態ではないか。著者自身も扱いに難儀する集合観念をなぜ差し挟む必要があるのかといえば、全共闘運動をその系譜に連ねることで何とか全共闘運動を救済したいということに尽きるだろう。そして、連合赤軍事件の責任は、個人と党派に押し付けたいということだ。「包摂-破壊-再包摂-再破壊」と、集合観念は共同観念や党派観念の廃滅に向かう反.弁証法的実践を導くとされる。実際は散発する反乱一揆の類に、神秘主義のふりかけをまぶして共通性と一貫性があるかのごとく演出しただけ。全共闘運動救済という最初に決めた結論に、ストーリを合わせたシロモノでしかない。

本書を真に受けて、現代版全共闘など作ろうと思わないでほしい。ましてや超越的次元の実現など目指すのは遇の骨頂である。最終的に、自称ファシストか太田龍、文鮮明、麻原クラスにも至らないソフトオカルティストになるだけだ。あるいは、常に闘争から撤退する言い訳を追い求める中身の無い「ラディカリスト」か。マルクス主義党派をこき下ろすつもりが、カルト宗教の正当化と勢力拡大に一役買った本として片づけられるだろう。この著作の積極的意義は、革命は宗教の力を借りないと正当化できなかった歴史があり、脱宗教化した革命としてのマルクス主義はまだスタートしたばかりだということを、言外に示したことである。


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【書評】テロルの現象学 観念批判論序説

2023年01月25日 | 書評



世界を敵対的な混沌としてしか体験できない「世界喪失」(p.29)から生成する自己観念は、本書の中で社会不適格合者、落伍者の病的疎外感のように描かれ、全テロルの元凶扱いされている。それでいて自己観念は背理を生理とし、歴史的に共同観念と一連のものとされる。こうなるとテロの前段階でない社会運動とは、共同観念が支配する世俗社会で出世し偉くなって世の中変えようということにしかならない。それとも、新興宗教の信者になっていつ来るとも分からないメシアが主導する千年王国主義運動に期待するか。無論こんなものは日常に回収され、せいぜい職を引退した後、市民運動に参加するぐらいが関の山だ。本書が時代の節目ごとに再刊されるのは、予め観念の牙を抜く去勢効果が高いからかもしれない。臆することなく、革命の源泉は自己観念にあることを銘記しよう。

民衆を捉え切れない自己観念の限界を、弁証法と党派で止揚するのが党派観念とされる。未来をも合一する弁証法は党派にとって諸刃の剣であり、弁証法的運動が行き詰ると党神格化で代償してしまう。結果、党崇拝の証となる総体的テロリズムを呼び寄せることになる。これを打ち破るものとして、著者は集合観念による象徴的暴力を措定しているが、それは神話に強制退行することで、共同観念の設定を初期状態に戻し再起動を促す祝祭であり、共同観念に還帰せざるを得ない。まさに「永劫回帰」(p.238)である。超越的次元を目指す集合観念の具体例とされる千年王国主義運動は、いずれもそういう役割を果たした後、終焉した。集合観念を継承すると称される秘儀結社は、共同観念に寄生する反動的予備電源に過ぎない。現代日本でいえば、全共闘残党やシールズが当たるか。彼らの主導した2015年安保闘争が雲散霧消した後、東京五輪→大阪万博→札幌冬季五輪という共同観念の回帰が演じられている。吉田茂国葬のパロディとして安倍国葬まで差し挟んだのは、貶められた自己観念の意地にも見える。

2023年現在、心的外傷に矮小化された世界喪失が、原発災害や第三次世界大戦、全面核戦争という共同観念の制度的テロにより現実のものとなっている。〈われ/われ〉もろとも世界が滅亡するか〈われ〉が生き残れるかという選択を、我々は突き付けられているのである。観念の堂々巡りも終焉の時を迎えた。これに対抗できるのは、著者が死ぬほどその登場を恐れる「超共同観念」(p.336)だろう。今現在、共同観念を喰い破る観念として本書の中で明示されているのは、自己観念-党派観念の究極形態である超共同観念のみ。革命的党派(p.283)という箱舟が、超共同観念の波に乗り共同観念=国家という枠を超え出る時、超越的次元はコミューンとして現世に止揚される。一刻の猶予もない情勢に間に合うのは、唯一この集団投企だ。

著者は長年、本書の続編として集合観念から革命にたどり着く本論を刊行すると予告しているけれども、いまだ果たされていない。鋭意執筆中のようだが、恐らく未完で終わるだろう。カルマからは逃れられず、撤退する言い訳作りのための一発勝負を正当化するシロモノにしかならないはずだ。そんなものを「包摂-破壊-再包摂-再破壊」(p.192)と、観念的なものの廃滅に至る反.弁証法的実践とするのは、観念の遊戯であり牽強付会のそしりを免れない。あとがきでは、山上徹也には「観念的自己回復」が存在しないかのようだと戸惑いを隠さない。これは本書の影響力がいまだ健在であることを示すもので、考えあぐねることでもなかろう。山上徹也は『テロルの現象学』の止揚をも突き付けている


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【書評】対論 1968 (笠井潔 絓 秀実 外山恒一 著)

2022年12月23日 | 書評



対談に参加している、元共産主義労働者党、元学習院大学全共闘、ファシスト(共産趣味者?)は、全員社会運動のポリコレ化を嘆いている。しかしp.137からp.141とp.199からp.203を読むと、この対談者達こそ、中小党派と小サークル頭目特有のケチ臭い中核派への対抗心から、社会運動のポリコレ化に手を貸していたことが分かる。「七・七というのは下剋上だったんだが、血債の思想でそれを“克服“した」(p.202)と手短に表現されてる通り、彼らによる七・七華青闘告発を利用した第三世界革命革命路線で中核派に屈服を迫る下剋上は、中核派が血債の思想という道徳主義を加味したため、克服されてしまった。挙句、血債の思想で息を吹き返した中核派に周恩来が資金援助を申し出たらしく(p.199)、「アジア三派」(p.138)は親方中国に袖にされたようだ。「我々は基本的に中国の革命を、潜在的にはずっと支持してきた」(p.203)。どうやらオリエンタリズム的見当違いが、第三世界代理店のつもりだった両人の思惑を頓挫させたらしい。そして「毛沢東主義と言っているのは“第三世界革命“路線、さらにほぼイコールで“反差別““マイノリティ“路線ということですね」(p.199)となる、意図しない道筋の先にポリコレを導き出してしまうのだ。外山氏の、反ポリコレを掲げた俺解放同盟とでも言うべき立ち位置は、この枝分かれが伸びきった先で枯れ果てたパロディに過ぎない。彼がこの対談の狂言回しに選ばれたのも、笠井氏と絓氏の思想交流が産み出した数少ない成果だからか。

2021年9月に開催された対談(p.227)らしい。だが第三世界革命への未練が滲む「世界内戦」(p.232)なるフレーズを漏らす辺り、三度目の世界大戦、しかも全面核戦争が近づく2022年末では既に牧歌的ノスタルジーだ。随所で“戦後最大の思想家“吉本隆明を問題にしているが、外山氏から『吉本について笠井氏は「功績7分、誤り3分」、絓氏は「功績3分、誤り7分」といっているという程度の違い』(p.8)と軽く一蹴されたように、全共闘の産みの親でありながらそれを遺棄した吉本を超えられない、捨て子達の煩悶を比較したものでしかない。最後の方では、「党派」「活動家集団」(p.232)なる大ボス小ボスの雑炊的連合体(p.55)にしかならない害毒を飽きもせず振りまき、後進を惑わす。連合赤軍も大ボス小ボスの雑炊的連合体=ブントの成れの果てであり、それは〈党〉の病理ではなく雑炊的連合体の打ち止めとなった全共闘の病理である。〈党〉に責任転換したまま理屈を積み重ねても、「フリーダム」を看板にした大ボス小ボスの離合集散を縮小再生産するだけ。高度経済成長と戦後民主主義の前に立ち往生し、敗北を遠方から眺めては撤退する言い訳を作り、「浮遊する都市群衆」(p.67)を景気よさげな市民社会に橋渡しする、いわば新左翼清算事業団破産管財人といった役回り。本書はその原罪に蓋をしたまま幕引きしたいという共通項で開催された、自助グループセラピーに見える。自家撞着と嘆息が基調となる左翼回顧本に、また新たな一冊が加わった。

本書の中で唯一未来に接続するのは、p.64からp.65と、p.90からp.110にかけ、70年安保闘争は60年安保闘争神話の再現として企図されたとする洞察だ。この文脈から、2022年に米中対立、沖縄、安保、日帝として現象していることは、70年安保から持ち越されたベトナム戦争、沖縄、安保、日帝といった“神話の伝承“(p.238)であり拡大された反復として捉えられる。それは3・11福島原発事故で先進国市民というアイデンティティを失った「空虚な群衆」(p.68)に憑依し、前世代から繰り越された「未遂の本土決戦」(p.110・p.124)の実行を迫るに違いない。あと数年もすれば、日本社会から搾取される外国人労働者のために闘う心優しい日本人活動家の弟妹甥姪や友人達が、技能実習生として中国に渡るだろう。道徳主義や倫理由来ではない、実用一点張りな労働者階級のインターナショナルも形作られ、7・7華青闘告発を消化してしまう。これらは否応なく、帝国主義国と第三世界を同時に貫く世界革命を要請する。いつまでも、「どうだ!」(p.9)と鼻息の荒い共産趣味者の出世頭にプロモートされた、小熊英二か絓秀実か笠井誰々かなどというチンケな、1968利権を巡るマーケット争いに付き合う時間も義理もなさそうだ。


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