最後のブログ更新からどんだけ経ったのか!?
夏だったのに、もうすぐ師走という事態です。
あわわわわ。
改めまして。
AYUKOでございます。
みなさま、あれからいかがお過ごしでしょうか?
さて。
今回は「折り合いをつける」という話について。
最近、知人にいただいた(?)言葉ですが。
私は大いに拒絶した。(出さなかったけど)
折り合いをつける、とは。
要は妥協点を見つける。
時には諦めも肝心。
生きていると、そうせざるを得ない時がある。
なんでもかんでも自分の思い描いたように行く訳がない。
しかし、そこで「折り合い」をつけることによって、
「行き止まり」をかわし、前に進むことができるわけだ。
賢明な大人の生き方である。
大人とは賢明な人間のことである。
わかってます、そんなこと。
しかし。
ここで「いつ、どの時点で折り合いをつけるのか」だ。
(万が一、折り合いをつける必要がある場合)
「折り合いありき」で事を進めるとしたら、
なんて味気なく、夢も希望もないことよ。
自分の達成したいことへの道のりを「100」としたら、
50でもう未来を憂いて「折り合い」をつけるのか。
そしたら、もうそこでGAME OVERなのだ。
もちろん、人は一人で生きているわけではない。
家族だったり、友人だったり、あらゆる人たちと関わって生きていて、
その中での自分の立ち位置や責任がある。
そういう「自分一人ではない環境」というのも考慮に入れて、
「どこまで達成すれば、満足とするのか」という、
それこそ「折り合い」地点を考える。
それが、「賢明な大人」がすることである。
でもね。
私は言いたい。
自分に関わる人たちを苦しめる、こと以外は、
「折り合いつけずに、夢と希望を持ってやりたいことやれ。気がすむまで。」
でも、これは「周りの人に対して、とにかく我を通せ」という意味ではない。
自分の中の夢のことだ。願い・希望のことだ。
達成しようと、しまいと、
気が済んでもいないのに、まだやれること、やりたいことがあるのに、
「折り合いをつける」、つまりGAME OVERにすることは、
私から見た「賢明な大人のふりをした、臆病者」だ。
夢や希望を「現実的でない」と一蹴する、つまんない奴だ。
全てを考慮した上で、気が済むまでやればいい。
「本当の行き止まりだ」と確信した時に、「折り合い」を考えろ。
もう〜歳だから、
一般的には〜だから、
あの人が〜言ってたから、
世の中とは〜だから、
というような「一般論」に従うのは「折り合い」ではない。
気が済むまで全力を尽くし、
その道を支えてくれる周りに感謝し、
それでも「完全なる行き止まり」に来た時に、
「折り合い」という妥協ではなくて、
「納得・理解」という形の、もっと深いところに宿るパワーが、
それでも前に進む(生きてゆく)という自分を支えてくれるのではないかと、
私は思う。
私ははっきり言って、ちっとも賢明でない。
もう少し「大人」になった方がいいと思っている。
大人の世界はシビアだ。
私は生きてゆくことに関しては、甘ちゃんだ。
だから、上記のことは「恐ろしく幼稚」なのかもしれない。
それでも。
私は「つまんない大人」にはなりたくないと思っている。
はた迷惑でも、どこか「アホ」でいたいと思っている。
大人というのは、
多分、物事の「限界を知る」ということだと思う。
でも、「限界を知る」と「限界をつける」というのは全く異なることだ。
果たして本当に限界を知っている大人はどれだけいるだろう?
自分で限界をつけて、知ったような気になっている人たちの方が多いのではないだろうか。
本当の意味で「限界を知る」というのは、そう簡単にできない。
なぜなら「限界まで」行かなければならないから。命がけである。
でもせめて「予め限界をつけること」をやめることはできないだろうか。
今の幼稚な私にとっては、やっぱり、
「折り合いをつける」というのは「つまんない大人の世界の話」なのである。
夏だったのに、もうすぐ師走という事態です。
あわわわわ。
改めまして。
AYUKOでございます。
みなさま、あれからいかがお過ごしでしょうか?
さて。
今回は「折り合いをつける」という話について。
最近、知人にいただいた(?)言葉ですが。
私は大いに拒絶した。(出さなかったけど)
折り合いをつける、とは。
要は妥協点を見つける。
時には諦めも肝心。
生きていると、そうせざるを得ない時がある。
なんでもかんでも自分の思い描いたように行く訳がない。
しかし、そこで「折り合い」をつけることによって、
「行き止まり」をかわし、前に進むことができるわけだ。
賢明な大人の生き方である。
大人とは賢明な人間のことである。
わかってます、そんなこと。
しかし。
ここで「いつ、どの時点で折り合いをつけるのか」だ。
(万が一、折り合いをつける必要がある場合)
「折り合いありき」で事を進めるとしたら、
なんて味気なく、夢も希望もないことよ。
自分の達成したいことへの道のりを「100」としたら、
50でもう未来を憂いて「折り合い」をつけるのか。
そしたら、もうそこでGAME OVERなのだ。
もちろん、人は一人で生きているわけではない。
家族だったり、友人だったり、あらゆる人たちと関わって生きていて、
その中での自分の立ち位置や責任がある。
そういう「自分一人ではない環境」というのも考慮に入れて、
「どこまで達成すれば、満足とするのか」という、
それこそ「折り合い」地点を考える。
それが、「賢明な大人」がすることである。
でもね。
私は言いたい。
自分に関わる人たちを苦しめる、こと以外は、
「折り合いつけずに、夢と希望を持ってやりたいことやれ。気がすむまで。」
でも、これは「周りの人に対して、とにかく我を通せ」という意味ではない。
自分の中の夢のことだ。願い・希望のことだ。
達成しようと、しまいと、
気が済んでもいないのに、まだやれること、やりたいことがあるのに、
「折り合いをつける」、つまりGAME OVERにすることは、
私から見た「賢明な大人のふりをした、臆病者」だ。
夢や希望を「現実的でない」と一蹴する、つまんない奴だ。
全てを考慮した上で、気が済むまでやればいい。
「本当の行き止まりだ」と確信した時に、「折り合い」を考えろ。
もう〜歳だから、
一般的には〜だから、
あの人が〜言ってたから、
世の中とは〜だから、
というような「一般論」に従うのは「折り合い」ではない。
気が済むまで全力を尽くし、
その道を支えてくれる周りに感謝し、
それでも「完全なる行き止まり」に来た時に、
「折り合い」という妥協ではなくて、
「納得・理解」という形の、もっと深いところに宿るパワーが、
それでも前に進む(生きてゆく)という自分を支えてくれるのではないかと、
私は思う。
私ははっきり言って、ちっとも賢明でない。
もう少し「大人」になった方がいいと思っている。
大人の世界はシビアだ。
私は生きてゆくことに関しては、甘ちゃんだ。
だから、上記のことは「恐ろしく幼稚」なのかもしれない。
それでも。
私は「つまんない大人」にはなりたくないと思っている。
はた迷惑でも、どこか「アホ」でいたいと思っている。
大人というのは、
多分、物事の「限界を知る」ということだと思う。
でも、「限界を知る」と「限界をつける」というのは全く異なることだ。
果たして本当に限界を知っている大人はどれだけいるだろう?
自分で限界をつけて、知ったような気になっている人たちの方が多いのではないだろうか。
本当の意味で「限界を知る」というのは、そう簡単にできない。
なぜなら「限界まで」行かなければならないから。命がけである。
でもせめて「予め限界をつけること」をやめることはできないだろうか。
今の幼稚な私にとっては、やっぱり、
「折り合いをつける」というのは「つまんない大人の世界の話」なのである。
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