deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

56・黒みかげ石

2012-06-20 08:50:50 | Weblog
 彫れども彫れども、わが石のカタチ変わらざり。ぢつと手を見る。
 ・・・と、啄木のようにつぶやいてみる。その手の平は、ギョッとするような惨状になっている。
 げんのうは、1キロから1、3キロほどもある。そいつを右手に握りしめ、左手に持った石ノミの尻の打点に打ちつける。衝撃がまっすぐ、ノミ先に伝わる。ノミ先は、接点である石に打撃を与え、その表層を少しばかりハツる(石を削ることを「ハツリ」という)。振り上げ、打ち下ろし・・・これを延々とつづける。げんのうを打ちつけるベクトルに、打点とノミ先が正確に一直線でないと、接点がすべってはじかれ、ノミの持ち手である左手の指が石面にぶっつけられる。これがもう、痛ったいったらない。こんなミステイクを何度もくり返すと、軍手をしてはいても、左手の指の甲がずるずるとすりむけてくる。さらに強い衝撃をもらうと、骨がらみの鈍痛までやってくる。まったく、地団駄を踏んで泣きたくなる痛みだ。
 それに輪を掛けて痛いのが右手だ。クソ重いげんのうを振り込み、打ちつけ、振り込み、打ちつけをくり返すうちに、手の平にマメができる。それが膨らみきり、つぶれ、水が抜けてずるむけになったその上に、またマメができ、つぶれ・・・そうしてわが手の平は、ドリームボールを打ち崩さんと執念の素振りをくり返す武藤平吉(野球狂の詩/水島新司)のように、ズタズタぐちゅぐちゅになっていく。軍手はすでにボロボロの穴あきになっているが、破れたマメからあふれ出たジュースがあちこちににじみ、まるで迷彩模様だ。振り上げる手を休め、そんな軍手の布片をぺりぺりとはがしての、冒頭の印象だ。「ぢつと手を見」、ふと数えてみると、右手の平のせまいスペースに、14個ものマメができている。節分には歳の数だけ豆を食べよ、というが、もう少しでそれに届きそうなほどのマメが、手の平の上にのっているわけだ。まったく、なんという仕事をはじめてしまったことだろう。
 マメは、何度も何度も裂けては下から生まれ、育ち、膨らみきっては、破裂をくり返す。そのうちに、手の皮は樹皮のコブのようになり、奇妙なねばねばの体液をしたたらせて、昆虫を呼ばんばかりになる。これ以上、体液を失ってはまずい。当初はげんのうの柄に布テープを巻いて滑り止めとしていたが、やがて手の平の側にも、ボクシングの「バンテージ」のようなテーピングが必要になった。
「このやろ、このやろ、このやろ、このやろ・・・」
 ガツン、ガツン、ガツン・・・
 たくましくみなぎることを覚えた細腕を振り上げ、打ち下ろし、毎日、硬骨の敵に立ち向かう。が、そこまでやっても、目の前の石塊が形を変えていくようには見えない。どんだけ硬いねん、黒みかげ石・・・

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園