次の文章を読んで、空欄A~Jに適当な語句・人名を記入しなさい。
18 世紀に入ると幕藩体制社会は大きくかわるが、それに対応する幕府の機構改革は、すでに綱吉時代に着手されていたが、まだ十分なものではなかった。
1716(享保元)年、第 8代将軍となった徳川吉宗は、その後約 30 年にわたって将軍職にあり、精力的な改革政治を展開したが、それは綱吉以来の幕府がとりくんできた諸問題の総仕上げで あった。
吉宗は当時圧倒的に件数の多かった金公事(貸借訴訟)に対し、[ A ]令を出して急場をしのぎ、その間に機構改革と法令の整備をはかった。
機構改革では、勘定所内部を公事方と勝手方の二部門に分離し、勘定奉行も二つに分けて二部門を分担専管させた。
法令の整備では、三奉行に対して実務のための民事・刑事両法典の編纂を命じ、これは 1742(寛保 2)年に[ B ]として完成した。
しかし機構と法を運用するのは人である。そこで吉宗は代官の勤務状況をきびしく点検し、また[ C ]の制によって財政に大きな負担をかけずに人材登用ができる途をひらいた。
さらに[ D ]を設けて在野の意見を吸収するとともに、投書制度による官僚の気分ひきしめに利用した。
小石川薬園内に設けられた[ E ]は投書によるものである。
幕府財政は吉宗の将軍就任時には最悪の状態であった。そのため吉宗はきびしい倹約令を出すとともに1722(享保 7)年に[ F ]令を出して諸大名に臨時の助力を求め、その間に年貢の増徴と新田開発による財政再建策を強行した。
年貢増徴については、それまでの検見法に代って[ G ]を採用し、また年貢率の引き上げをはかった。
新田開発については、[ H ]新田を奨励し、新田地主として小作料をとることを認めることによって、都市商人の資金を新田開発に導入することとした。
このほか土地政策では、享保7年の質流禁令(流地禁止令)が質地騒動によって撤回された後は、田畑の移動集積が事実上黙認されるようになり、寄生地主的土地所有が、幕藩体制の枠内に於てではあるが、公認されることになった。
吉宗は農業政策のうえでも、元禄ころ以来しだいにさかんになってきた適地適産による特産物農業を政策的に認め、これを積極的におしすすめようとした。
[ I ]の意見を入れて関東に甘藷を栽培させたほか、甘庶・櫨・朝鮮人参などの栽培を奨励し、産業の開発に役立つ実学を発展させる意味で[ J ]輸入の禁を緩和した。
[解答]
A 相対済し B 公事方御定書 C 足高 D 目安箱 E 養生所 F 上げ米 G 定免法 H 町人請負 I 青木昆陽 J 漢訳洋書
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