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世界の女傑たち Vol.005−①

2023-10-14 21:00:00 | 自由研究

 ■ココ・シャネル Ⅰ

 ココ・シャネル(Coco Chanel)
 出生名:ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chasnel)またはガブリエル・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel)、1883年8月19日 - 1971年1月10日)

 フランスのファッションデザイナー、企業家。
 彼女が創設したシャネルブランドは世界有数のファッションブランドとして現在も営業している。


 20世紀初頭からファッションデザイナーとして活躍し、一時的な活動停止を経て、その死に至るまで世界の代表的なファッションデザイナーであり続けた。
 戦間期における彼女のデザインは女性の社会進出が進んでいた当時の世相と適合し、世界のファッションスタイルに大きな影響を与えた。
 婦人服へのジャージー生地の導入、日常生活における利便性とファッション性を両立したスーツ、リトル・ブラック・ドレス(LBD)の概念の普及など、彼女がファッションに残した遺産は現代のファッションにも多大な影響を残しており、これらを通じてスポーティー、カジュアル・シックな服装が女性の標準的なスタイルとして確立されたとされている。
 さらに高級婦人服の枠組みを超えて影響力を広げ、ジュエリー、ハンドバッグのデザイン、香水の制作も行った。
 香水のシャネルNo.5は彼女を象徴する製品となった。
 また彼女自身がデザインした有名な「C」を2文字組み合わせたモノグラムは1920年代から使用されており、現在でもシャネル社のシンボルとなっている。
 その影響の大きさから、彼女は『タイム』誌の20世紀の最も重要な100人にファッションデザイナーとして唯一リストされている。

 シャネルは第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるフランス占領の間、ドイツの外交官かつ諜報員であったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(Hans Günther von Dincklage)男爵(英語版)(Freiherr)と不倫し、ドイツ当局に協力的な姿勢を取っていた。
 ドイツの敗北後、「裏切者」たちが枢軸国に対する協力者(英語版)として訴追される中、シャネルは愛人のフォン・ディンクラーゲとともにスイスに亡命し処罰を免れたが、この対独協力行為(コラボラシオン)と亡命は彼女の評価に影響を与えているだけでなく、しばしば批判の対象となっている。
 戦時中のシャネルはファッションの第一線から身を引いていたが、スイスにでの亡命生活の後、パリに戻り業務を再開した。
 戦後もファッションデザイナーとして成功し、その商品は世界的に普及した。
 1971年1月、パリのホテル・リッツで死去した。

 《来歴》

 ▼幼少期

 ガブリエル・ボヌール・シャネルは、1883年、洗濯婦ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォル(Eugénie Jeanne Devolle、以下、ジャンヌ)の子として、フランスのメーヌ=エ=ロワール県ソーミュールの、修道女会(Sœurs de la Providence)が運営する慈善病院(救貧院)で生まれた。
 ガブリエルはジャンヌとアルベール・シャネル(Albert Chanel)の第二子であり、姉のジュリアが1年ほど前に生まれている。
 アルベール・シャネルは各地を回って作業着や下着を売り歩く行商人で、定住所を持たず市場のある町から町へ移動する生活を送っていた。
 アルベールがジャンヌ・ドゥヴォルと結婚したのは1884年のことである。
 これはジャンヌの家族に説得されてのことであった。
 一家は「協力して、事実上」、すでにアルベールに結婚のための「費用を支払っていた」のである。
 ガブリエル・シャネルの出生届には「Chasnel」と記録された。
 この時ジャンヌは体調不良で届出に立ち会うことができず、アルベールは「不在」であった。両親不在のもと、代理人の手で行われた出生届で姓の綴りが間違って登録されたのはおそらく事務的な手違いである。アルベールとジャンヌの間には二男三女があり、一家はブリーヴ=ラ=ガイヤルドの「一部屋だけの住居にすし詰めで」暮らしていた。

 ガブリエル・シャネルの出生届には「Chasnel」と記録された。
 この時ジャンヌは体調不良で届出に立ち会うことができず、アルベールは「不在」であった。
 両親不在のもと、代理人の手で行われた出生届で姓の綴りが間違って登録されたのはおそらく事務的な手違いである。
 アルベールとジャンヌの間には二男三女があり、一家はブリーヴ=ラ=ガイヤルドの「一部屋だけの住居にすし詰めで」暮らしていた。
 ガブリエルが12歳の時、母ジャンヌが死去した。
 ガブリエルことココ・シャネルは母が32歳で結核により死亡したと後に主張しているが、「これは必ずしも死因の正確な診断とは言えず、むしろ貧困、妊娠、そして肺炎が原因であった可能性が高い」。  
 父アルベールは息子2人を農場労働者として送り出し、娘3人はオーバジーヌ(英語版)の聖母マリア聖心会(religieuses du Saint Cœur de Marie)が運営する孤児院に預けた。
 聖母マリア聖心会は「捨てられて孤児になった少女たちのために家庭を与えるなど、貧しく排除された人々を保護するために設立された」修道会であった。
 孤児院での生活は、厳格な規律が課せられる厳しく質素なものであったが、ここで裁縫を学んだことは、彼女の後の仕事につながる経験であった可能性がある。
 しかし、彼女にとって孤児院送りとなったことは耐え難い惨めな経験であり、後に伝記作家やジャーナリストたちが彼女にインタビューを行った時もそこでの生活について一切語ることはなかった。 
 フランスの作家エドモンド・シャルル=ルー(英語版)は、ヴィシーに住んでいた頃のシャネルが大切な男性を亡くした際、友人に漏らした「私がどんなふうに感じているか、わざわざ説明しなくても結構よ。
 こんな思いは、とても小さなころから知ってたわ。
 私はすべてをはぎとられて死んだのよ……。
 こんなことは十二のときに経験済み。人間はね、一生のうちで何度でも死ぬものなのよ……」という言葉を記録している。
 18歳になるとオーバジーヌの孤児院を出なければならなかったため、彼女は次にムーランの町のカトリック女子寄宿舎に預けられた。
 シャネルが晩年に語った子ども時代の話、特に母の死後のそれには多くの矛盾があり、様々な魅力的な物語が付け加えられているが、このような話は概ね事実ではない。
 このような「作り話」には、母親が死んだ後、父が運命を切り開くべくアメリカに向かい、自分は二人のおば(この叔母たちは架空の人物であり実在しない)に預けられたとか、生年は1883年ではなく1893年であるといったものがある。
 また、ミドルネームであるボヌール(「幸福」の意)は洗礼式の際に彼女を洗礼盤の上に運んだ修道女が将来の幸福を祈って名付けたものだとも語っているが、洗礼証書にはガブリエルの名前しかなく、これも創作であると見られる。

 ▼舞台への挑戦

 オーバジーヌ(英語版)で6年間裁縫を学んだ後、シャネルはある仕立て屋で職を見つけた。
 そして副業として騎兵将校の溜まり場となっていたキャバレーで歌を歌ってもいた。
 シャネルはムーランのパビリオンのカフェ・コンセール(当時人気の娯楽の場)「ラ・ロトンド(La Rotonde)」で舞台デビューとなる歌を歌った。
 彼女の仕事はposeuse(ポーズ嬢、スターたちが舞台で入れ替わる幕間の場を繋ぐパフォーマー)であった。
 給料は出なかったため、その収入源はテーブルを周ってチップを集めることであった。
 彼女が「ココ(Coco)」という名前を得たのはこの頃である。
 彼女が夜にこのキャバレーで歌う時、しばしば歌った歌が「ココを見たのは誰?(Qui qu'a vu Coco ?)」であった。
 彼女はココというニックネームを父親から与えられたものだと言うのを好んだが、「ココ(Coco)」は彼女のレパートリーの曲「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」(「コケコッコー」の意)及び「Qui qu'a vu Coco ?」、または囲い者を暗喩するフランス語の単語「cocotte」から来ていると考えられている。
 poseuseとしてのココは売れっ子であったが、田舎の舞台での脇役は彼女を満足させるものではなく、都会のより本格的な舞台の上で活躍することを目指すようになっていた。

 1906年、シャネルは温泉リゾート地ヴィシーに向かった。
 ヴィシーは林立するコンサートホール、劇場、カフェを誇っており、彼女はそこで芸能人として成功することを夢見た。
 しかし、競争の激しいヴィシーで実績のない人間には機会はほとんどなかった。
 半ば素人の娘をposeuseとして舞台に置くという演出も、もはや時代遅れの田舎の習慣であり、ヴィシーでposeuseとしてデビューの糸口を掴む道はなかった。
 シャネルは幾度かのオーディションを受けたが、その容姿こそ評価されたものの歌声に対する評価は低く、舞台の仕事を得ることはできなかった。
 貸衣装やレッスン代がかさみ、何としても職を見つけなければならなかったシャネルはグランド・グリーユ(Grande Grille)でdonneuse d'eauとして勤務した。
 この仕事は、治癒効能があるとして有名なヴィシーのミネラルウォーターをグラスに注いで分けるというものであった。
 ヴィシーの行楽シーズンが終わると、シャネルはムーランの古巣「ラ・ロトンド」に戻った。
 この時には彼女は自分の将来において舞台での成功が見込めないことを認識していた。

 ▼バルサンとカペル

 ヴィシーに出る前、ムーランでシャネルはフランス軍の元騎兵将校かつ繊維業者の息子であるエティエンヌ・バルサン(英語版)と出会った。
 バルサンは兵役後に両親の遺産を受け継ぎ多大な資産を抱え、またプレイボーイで鳴らしていた人物であった。
 シャネルが23歳の頃、彼は遺産を使ってコンピエーニュ近郊ロワイヤリュー(Royallieu)のシャトーを購入し、そこで競走馬の育成を始めた。
 この地域は樹木が並ぶ乗馬道と狩猟場で知られていた。
 この計画を聞いたシャネルは同行を望み、バルサンの愛人となってロワイヤリューで生活を始めた。
 そこでの生活は自堕落なものであった。
 バルサンの富によってシャネルは言外にあらゆる退廃を伴うパーティーでの歓楽、美食に溺れることが可能となった。
 バルサンはシャネルに卑小な「豊かな生活」―ダイヤモンド、ドレス、そして真珠―を浴びせかけた。
 バルサンはシャネルを社交界の場に立たせようとはしなかったが、競馬狂いであった彼の下でシャネルは乗馬を学び、馬に熱中した。
 この経験は後のシャネルのデザインに影響を与えている。当時のフランスでは、富裕な女性の服装はルイ16世(在位:1774年〜1792年)時代のような装飾豊かでボリュームのあるものが流行しており、ロングスカートやつば広帽子のために彼女たちは移動の際に男性の補助が必要であった。
 着飾った姿は富と地位を証明するものであり、女性たちが敢えてこれを拒否することもなかった。
 新しく登場していた自動車と異なり、乗馬は上流階級の婦人たちも行うものであったが、乗馬時の服装もロングスカートが普通であったため横座りで騎乗しなければならず、またスカートがはためいた時に足首を露出させないように乗馬用のブーツも必要であった。
 しかし、こうした作法に無頓着、あるいは無知であったシャネルは現地の仕立て屋に自分の体形に合わせて乗馬用のズボンを作るように求めた。
 これはズボンが明確に男性用のものであった当時としては突拍子もない話であり、エドモンド・シャルル・ルーはシャネルが仕立て屋に出した注文について「彼女は自分がいかに過激なことを言っているのか気づいていなかったに違いない」とコメントしている。
 当時のシャネルを知る人々によれば、彼女は才能ある馬の乗り手であり技術は確かなものであったという。

 1909年、シャネルはバルサンの友人の一人、ボーイ・カペルと関係を持ち始めた。
 シャネルは晩年に当時を「二人の紳士が私の熱く小さな体を巡って競り合っていた」と回想している。
 カペルは富裕なイギリスの上流階級で、シャネルをパリのアパルトマンに住まわせ、彼女の最初の店舗の出店費用も提供した。
 カペルの服装のスタイルがシャネルのデザインセンスに影響を与えたと言われている。
 シャネルNo.5の容器デザインの原型となったデザインには2つの説があるが、その両方がシャネルとカペルの関係に関わるものである。
 一つはシャネルはカペルが革製の旅行鞄に忍ばせていたシャルベ(英語版)のトイレタリー・ボトルの直交する斜線を採用したというものであり、もう一つはカペルが使用していたウイスキー・デカンタのデザインを採用したというものである。
 シャネルとカペルは共にドーヴィルのようなファッショナブルなリゾート地で時を過ごした。
 しかし、シャネルは彼と身を落ち着けることを望んでいたものの、カペルが彼女に対して誠実であったことはなかった。
 二人の関係は9年間続いた。カペルがイギリスの貴族であるダイアナ・ウィンダム夫人(Lady Diana Wyndham)と1918年に結婚した後でさえ、カペルはシャネルとの関係を完全に絶つことはなかった。
 カペルは1919年12月22日、交通事故で死亡した。
 事故現場の道路脇に設置されたカペルの事故の記念碑はシャネルが依頼したものであると言われている。
 後にシャネルは友人のポール・モランに「彼こそ私が愛したただ一人の男」と語り、その死について「彼の死はわたしにとって恐るべき打撃だった。
 わたしはカペルを失うことですべてを失った。」と述懐している。

 バルサンと暮らしている間、シャネルは主にバルサンの家に出入りする女性たちのために帽子をデザインしていた。当初これは暇つぶしのようなものであり、また当時の標準と比較して極めてシンプルなシャネルのデザインは一種のアート表現であるように捉えられた。
 そのため、帽子はむしろ話の種として女友達を不思議がらせたりするために作られたものであった。
 しかし、シャネルが生活を変えて再び芸能人としての道を目指したいと言い出した時、その道での成功はないと考えたバルサンが代わりに帽子作りをすることを提案し、カペルの説得も受けた彼女はこれに同意した。
 1910年に婦人用帽子職人(英語版)のライセンスを取得し、ヴァンドーム広場に近いパリで最もファッショナブルな地区のカンボン通り21番地にブティック「シャネル・モード(Chanel Modes)」を開店した。
 この場所は既に被服業界の拠点が確立されていたため、シャネルはこの店では彼女が作った帽子のみを販売した。
 シャネルの製帽業者としてのキャリアは舞台女優ガブリエル・ドルジア(英語版)が1912年に演出家フェルナン・ノジエール(フランス語版)の作品『ベラミ(Bel Ami)』(ギ・ド・モーパッサンの小説『ベラミ』の戯曲化)でシャネルの帽子をかぶったことを通じて花開いた。
 その後、ドルジアは『レ・モード(Les Modes)』誌に掲載された写真において再びシャネルの帽子のモデルとなった。

 ▼クチュリエールとして

 1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業し、レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出した。
 シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていたジャージー(英語版)やトリコットのような安手の生地で作られていた。
 ブティックの立地は最高であり、ドーヴィルの中心にあるファッショナブルな通りにあった。
 ここでシャネルは帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスのマリニエール(marinière)を販売した。
 シャネルは妹のアントアネット(Antoinette)と同い年の父方の叔母アドリエンヌ(Adrienne)という2人の家族から献身的な支援を受けた。
 アドリエンヌとアントアネットはシャネルの作品のモデルを務め、毎日のように街と遊歩道を練り歩きシャネル製品を宣伝した。
 シャネルはドーヴィルでの成功を再現することを決意し、1915年にビアリッツに本格的な店舗を出した。
 スペインの富裕層の顧客に近いコスタ・バスカのビアリッツは金持ちグループや第一次世界大戦で自国から亡命してきた人々の遊び場であった。
 ビアリッツの店舗はフロントがなくカジノの正面の別荘内にあった。
 1年間の営業で、この地でのビジネスが極めて有利なものであることが証明され、1916年にはシャネルはカペルが提供した原資を返済することができるようになった。
 ビアリッツでシャネルは追放されたロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公と出会った。シャネルと大公はロマンティックなひと時を過ごし、その後何年もの間密接な関係を維持した。

 1918年、シャネルは事業を拡大し、同じカンボン通りの31番地に新店舗を開店した。
 1919年までに職業を「クチュリエール」として、この店舗をメゾン・ド・クチュール(maison de couture)として登記。
 現代的なブティックを目指す彼女は、1921年から、香水のほか、衣服や帽子に合ったアクセサリーを、次いでジュエリーや化粧品なども販売するようになった。
 敷地もさらに拡大し、1927年までに、カンボン通り23番地から31番地までの一画に相当する5件の不動産を保有した。
 1920年の春(恐らくは5月)、シャネルはバレエ・リュスの団長セルゲイ・ディアギレフによってロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーに引き合わされた。
 夏の間に、シャネルは戦後、ストラヴィンスキーの一家がソヴィエト連邦から逃れ住処を探していることを知った。
 彼女はストラヴィンスキー一家をパリの郊外のギャルシュにある自分の新居ベルレスピロ(Bel Respiro)に招待し、彼らが適当な住居を見つけることができるまでの間住まわせた。
 彼らは1920年9月の第2週にベルレスピロに到着し、1921年の5月まで滞在した。
 シャネルはまた、バレエ・リュスの新たなストラヴィンスキーの新作(1920年)、『春の祭典(Le Sacre du Printemps)』の金銭的損失をディアギレフへの匿名の贈与で補填した。
 その金額は300,000フランと言われている。
 クチュール・コレクションの発表に加えて、シャネルはバレエ・リュスのためのダンス衣装のデザインに没頭した。
 1923年から1937年にかけて、彼女はディアギレフとダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーが振付た作品群、特に『青列車(Le Train bleu)』、ダンス・オペラの『オルフェ(Orphée)』と『オイディプス王(Œdipe roi)』に協力した。

 1922年、テオフィル・バデール(英語版)は彼が創設したギャラリー・ラファイエットでシャネルNo.5を販売したいと思い、パリロンシャン競馬場で、シャネルを実業家のピエール・ヴェルテメールに紹介した。
 1924年、シャネルはピエール・ヴェルテメールとポール・ヴェルテメールの兄弟と契約を結んだ。
 この兄弟は1917年以来、高名な香水・化粧品ブランドのブルジョワ(英語版)の経営陣であった。
 彼らは企業法人パルファム・シャネル(Parfums Chanel)を創設し、ヴェルテメール兄弟がシャネルNo.5の生産、マーケティング、流通の費用全額を出資することに合意した。
 利益の70パーセントをヴェルテメール兄弟が受け取り、20パーセントがバデールの取り分であった。
 株式の10パーセントを保有するシャネルは名前を「パルファム・シャネル」にライセンス供与し、事業経営からは退いた。
 シャネルNo.5が爆発的なヒット製品となるにつれ、この契約に不満を強めたシャネルは20年以上の歳月をかけてパルファム・シャネルの完全な経営権を取得するための努力を続けることになる。
 彼女は、ピエール・ヴェルテメールは「私をハメた盗賊だ(the bandit who screwed me)」と発言している。

 ▼友人と恋人たち

 シャネルは戦間期の間、政治的・文化的に大きな影響を残す人々と様々にかかわった。
 この頃に彼女と関係をもった恋人や友人の中には彼らの死まで交友が続き彼女に影響を与え続けた人物もいる。
 彼女がパリに購入した自宅には友人たちが出入りし、その中にはディアギレフの他、当時パリにいたパブロ・ピカソやジャン・コクトー、シャネルの最も親しい友人となるミシア・セール、シャネルの恋人となり行動・精神面で大きな影響を残す詩人ピエール・ルヴェルディ、そして同じく深い恋愛関係を築いたイラストレーターのポール・イリーブ(英語版)らがいた。
 また、彼女はイギリスの貴族との関係を通じてイギリスの上流階級と交友を持つようになった。
 ミシア・セールは長くシャネルの友人であり続けた人物の1人である。
 彼女はパリのボヘミアン・ブルジョワで、スペインの画家ホセ・マリア・セール(英語版)の妻であった。
 シャネルとセールは似た者同士で惹かれ合ったと言われる。当時のミシアの目にシャネルがどのように映っていたのかについて、伝記作家らは「シャネルの天才、気前の良さ、破壊的なウィットを伴う激情、痛烈な毒舌、熱狂的な破壊性は誰をも惹きつけると同時に愕然とさせた」と評している。
 シャネルとミシアは2人とも修道院で学んでいた経験があり、共通の興味と信頼を保ち続けた。彼女たちはまた、薬物の使用も共有していた。
 1935年までにシャネルは薬物を利用する習慣を持つようになっており、人生の終わりに至るまで日常的にモルヒネを注射していた。
 チャンドラー・バール(英語版)の『匂いの帝王(The Emperor of Scent)』によれば、ルカ・トゥリン(英語版)は著作の中で、シャネルは「パリで最も素晴らしいコカインパーティーを催したのでココと呼ばれた」という根拠のない噂を広めた。

 作家のコレットはシャネルと同じ社会的なサークルに加っており、随筆集『牢獄と天国(Prisons et Paradis)』(1932年)の中でアトリエで働いているシャネルについて次のような奇態な説明を残している。
 「全ての人間の顔がある動物に似るとするならば、マドモアゼル・シャネルの顔は小さな黒い雄牛である。
 彼女のカーリーな黒髪は仔牛のそれであり、彼女の額から眉の上を通って落ち、彼女の頭の上をあらゆる動きで踊っている」 シャネルはミシアを通じて知り合った詩人ピエール・ルヴェルディと、1919年から交際を始めた。
 ルヴェルディとの交際はシャネルにとって思い出深いものであったらしく、作家エドモンド・シャルル・ルーは晩年に虚言癖が強くでるようになった頃のシャネルでも素直にその名前を出すことのできた人物として、アーサー・カペルとならんでルヴェルディを挙げている。
 定期刊行物に掲載された、シャネルのものとされる伝説的な名言はルヴェルディの助言の下で、共同で作られたものとされている。

 シャネルの書簡を検討すると、彼女が書いた手紙の不器用さと、シャネルのものとされる名言の作者の才能の間に完全な矛盾があることが明らかになる...ルヴェルディは彼女が自分の「職業(メティエ)」について書いたわずか数篇のアフォリズムを修正し、さらにこの「シャネリズム(Chanelisms)」(シャネル名言集)に、人生や美的感覚、または魅力や愛などについて、より一般的な考察を加えたのである。

 しかし、ルヴェルディはカトリックに帰依し信仰の道に傾斜するに従いシャネルとの関係も断ち始めた。
 ルヴェルディが1926年に北西部サルト県のソレムに隠棲した後も両者は連絡を維持したが、重要な関係は終わった。
 後述するイギリス貴族との交際が終わった1930年代には、シャネルはイラストレーター・デザイナーのポール・イリーブ(英語版)と交際するようになった。
 二人の関係は深く、1935年にイリーブが急死するまで続いた。
 イリーブは強烈な国粋主義・反共和主義者であり、風刺週刊新聞の『ル・テモワン(フランス語版)(証人)』を発行していた。
 シャネルはイリーブに惚れ込み、イリーブの活動に資金提供を行った。友人のミシア・セールは当時のシャネルについて「ココが生まれて初めて人を愛している」と発言している。

 ▼英国貴族との関係

 1923年、ケンブリッジ侯爵の隠し子と言われているヴェラ・ベイト・ロンバルディ(英語版)は、シャネルに最上級の英国貴族社交界に加わることを認めた。
 これは政治家ウィンストン・チャーチルやウェストミンスター公のような貴族、およびエドワード8世のような王族ら、重要人物を中心に運営されているエリートのグループであった。
 1923年にモンテ・カルロにおいて、当時40歳のシャネルはロンバルディによって大富豪であるウェストミンスター公ヒュー・リチャード・アーサー・グローヴナー(英語版)に紹介された。
 彼は親しい人々から「ベンドア(Bendor)」と呼ばれていた。
 ウェストミンスター公はシャネルに豪華な宝石、高価な美術品、ロンドンの有名なメイフェア地区にある邸宅を気前よく与えた。彼とシャネルの関係は10年続いた。
 公爵に紹介されたのと同じように、再びロンバルディを通じて、ロンバルディの従兄弟であった王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)のエドワード8世に紹介された。エドワード8世はシャネルに惚れ込み、シャネルとウェストミンスター公の関係を知りつつ彼女を追いかけた。
 エドワード8世がシャネルのアパルトマンを訪れ、自分を彼に親しい人々と同じように「デーヴィッド(David)」と呼ぶように求めたというゴシップがあった。
 数年後、『ヴォーグ』誌の編集者ダイアナ・ヴリーランドは「情熱的でひたむきで、猛烈に独立心旺盛な、その存在そのものが偉業であるシャネル」はエドワード8世と「すばらしいロマンティックなひとときをともにしたことがあった」と書いた。

 1927年、ウェストミンスター公はアルプ=マリティーム県(プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏)にあるロクブリュヌ=カップ=マルタンに購入した土地をシャネルに贈り、シャネルはそこに別荘(villa)を建設した。
 これは建築家のロベール・ストレイツ(Robert Streitz)によって建てられ、彼女はこれをラ・パウザ(英語版)(La Pausa、休息所)と呼んだ。
 ストレイツは階段とパティオのコンセプトにシャネルが若き日を過ごしたオーバジーヌ(英語版)修道院から影響を受けたデザイン要素が取り入れた。
 ウェストミンスター公とシャネルの関係はゴシップ誌に結婚を噂されるほどのものになり、ウェストミンスター公自身もシャネルに仕事を辞めてパートナーになることを求めていた。
 しかし、シャネルが結婚することはなかった。
 なぜウェストミンスター公と結婚しなかったのか、と問われた時、シャネルは「ウェストミンスター公は何人もいました。
 シャネルは1人しかいません」と答えたと言われる。

     〔ウィキペディアより引用〕


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