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雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー④

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 ■平和って何?④

 ▼折鶴

 折鶴(おりづる、折り鶴)は、正方形の紙を折って鶴に似せた形に作るもので、折り紙の一種。
 最もポピュラーな作品のひとつであり、折り方も簡単なため多くの世代に知られている。
 初心者向けの折り紙本の多くには作り方が掲載されている。

 1枚の紙に切り込みを入れて、多数の折鶴を完全に切り離さずにくっついた状態で折る「連鶴」や、単体の折鶴を多数折って繋げていく「千羽鶴」などもある。
 他に尻尾を引っ張ることで羽を動かすものもある。
 また、折り終えた際に鶴の下部に息を吹き込むことで、胴体部分を膨らませることができる。
 広島の七夕や仙台七夕などでは、七夕飾りの一つとして折り鶴を用いる。

 《歴史》

 折鶴が文献に現れるのは江戸時代であり、井原西鶴の1682年に出版された『好色一代男』の中で、主人公の世之介が「比翼の鳥のかたち」をした「をり居(おりすえ)」をつくるという記述がある。
 ただし『好色一代男』では図や絵がなく文章のみで書かれているため、「比翼の鳥」の折り紙がどのようなものなのかは定かではない。
 はっきりと折鶴が描かれるのは1700年に出版された『當流七寶 常盤ひいなかた』である。
 そのひいなかたの中の121番「落葉に折鶴」の項に、着物の模様として折鶴が描かれている。
 その後、折鶴を発展させた連鶴が誕生した。明確な形で連鶴が記載されているのは1797年に京都で出版された『秘伝千羽鶴折形』である。
 しかし1800年前後の複数の錦絵(浮世絵)には連鶴と思しき連なった鶴が描かれており、『秘伝千羽鶴折形』以前から連鶴が存在していたと考えられている。
 具体的には、少なくとも18世紀後半には江戸で連鶴が折られていたと考えられる。

 『秘伝千羽鶴折形』はその後その存在が忘れ去られていたが、1957年に吉澤章が国際折紙研究会の機関紙「O・T通信」で発表し、更に同年の『週刊朝日』の書評欄で紹介されたことにより、一般の人にも広く知られることとなった。
 折り鶴を1000羽作り、糸で束ねたものを千羽鶴という。
 現在折り鶴や特にこの千羽鶴を、幸福祈願、災害慰安、病気快癒・長寿などの願いをこめて、寺社に贈ったり、被災者や入院患者へ贈ったりする習慣がある。  
 この理由の一つには「鶴は千年、亀は万年」という慣用句があることがあげられる。

 ▼平和の祈り

 また広島市への原子爆弾投下により被爆し、後に白血病で死亡した佐々木禎子が、生前に病気の恢復を祈って折り鶴を折り続けたというエピソードも広く知られている。
 佐々木禎子のエピソードや千羽鶴・折り鶴はカルル・ブルックナーの"Sadako will leben"(サダコは生きる)やエレノア・コアの"Sadako and the Thousand Paper Cranes"(サダコと千羽鶴)によって広く英語圏にも知られることとなった。
 そのため千羽鶴は世界平和の象徴としてとらえられ、広島平和記念公園などに供えられている。
 また広島平和記念資料館には2016年に同地を訪問したアメリカのバラク・オバマ大統領が自ら折って持参した折り鶴がメッセージとともに展示されている。
 2017年には同大統領から長崎市にも折り鶴が贈られた。
 長崎の爆心地を中心に作られた平和公園には「折鶴の塔」がある。

 ▼千羽鶴

 千羽鶴(せんばづる)は、多数の鶴の描かれた模様や絵画、および折り紙である折り鶴を1000羽作り、糸などで綴じて束ねたものを指す。
 瑞鳥である鶴が千羽(多数)いることから更なる瑞兆を表す。
 千羽は多数の意味で、1000羽ちょうどでなくてもよい。
 かつては社寺に奉納されていたが、現在は祝福、幸福祈願、災害などへの慰安、病気平癒祈願、見舞いなどを目的に作成や贈呈が行われている。

 広島市への原子爆弾投下で被爆し、原爆症で死亡した佐々木禎子が自らの延命を祈って作ったことから、平和の象徴にもなっている。

 《歴史》

 千羽鶴の起源ははっきりとは分かっていない。
 かつては、1797年の魯縞庵義道の『秘傳千羽鶴折形』のように連鶴を「千羽鶴」と呼称していた。
 『秘傳千羽鶴折形』の序文では、鶴と富、折り鶴と長寿祈願を結びつけている。
 小川未明の作品「千羽鶴」(1916年)には、小さな紙で作った折り鶴を糸でつなぐという記述があり、少なくともこの時代には現代のような形の千羽鶴が存在していたことがわかる。
 戦前には、糸に通した折り鶴を「千羽鶴」と呼称し、女児の技芸上達祈願として淡島・鬼子母神などの寺社にささげていた。

 ◆平和の象徴に

 折り鶴や千羽鶴が平和の象徴となったのは、原爆の子の像のモデルになった原爆被爆者の少女、佐々木禎子が千羽鶴を折ったことによる。
 1955年2月に亜急性リンパ性白血病と診断され、広島赤十字病院に入院していた佐々木禎子は、1955年5月に岐阜県または愛知県の人からもらった慰問の手紙に、5cmほどのセロハンの折り鶴がはさんであるのを見て、折り鶴を千羽折れば病気が治ると信じて鶴を折り始めたようである。
 1995年の中国新聞によれば、愛知淑徳高青少年赤十字団員が原爆患者に贈った4千羽の折り鶴のうち、2千羽が広島赤十字病院に贈られている。
 佐々木禎子は、自分で折り鶴を折り上げることにこだわっていたようである。 
 佐々木禎子の折った折り鶴の数については諸説あるが、実兄の佐々木雅弘によれば、最初の千羽は自らの病気治癒祈願として、次の千羽は父の借金のことを祈っていたという。
 佐々木禎子は1955年10月に亡くなるが、その思いは同級生や他の被爆者により引き継がれ、原爆の犠牲になったすべての子供たちへの慰霊として1958年5月に原爆の子の像が平和記念公園に建てられる。
 この原爆の子の像の塔の鐘には、湯川秀樹により「千羽鶴」と彫られている。 
 この物語はフィクションも巻き込みながら海外へと紹介され、千羽鶴は単純な長寿祈願を超えて、「生きたい」という生存権利の主張という意味合いを持って世界に広がっていった。
 1999年と2000年の広島市のアンケートでは、佐々木禎子と千羽鶴について、日本以上に海外で知られているという結果が出ている。

 関連項目
      ー 秘傳千羽鶴折形 ー

 秘伝千羽鶴折形
 (ひでんせんばづるおりかた)
 (秘傳千羽鸖折形)

 1797年(寛政9年)に京都の吉野屋為八によって初版が発行された、連鶴49種を集めた書のことである。
 連鶴の作者は、伊勢国桑名の長円寺11世住職・義道一円(ぎどういちえん、1762年 - 1834年、漢詩を書く際の号は魯縞庵(ろこうあん))である。
 編著者は「東海道名所図会」などで知られる秋里籬島(あきさとりとう)、絵師は竹原春泉斎。木版一色刷りで、現代の文庫本とほぼ同サイズの和綴じ本である。
 これは、現存する世界で最も古い遊戯折り紙の本と言われている。
 また、この折り方は「桑名の千羽鶴」として桑名市の無形文化財に指定されている。

 《概要》

 千羽鶴折形には、全部で49種の連鶴の作り方が掲載されている。
 更に原本の挿絵には50番目の作品(拾餌に似ている)と51番目の作品(釣りふねに似ている)が描かれている。
 それぞれの完成形には、和名の銘と、その銘にちなんだ恋に関する狂歌が添えられている。
 作品の作り方として紙にどのような切り込みを入れるかどうかは開いた紙に実線を入れることで示されている。
 ただし、唯一「百鶴」では紙を三角に八折りし、一度に切り込みを入れる方法が指示されている。
 これは本が書かれた江戸時代に流行していた紋切り遊びの手法である。
 千羽鶴折形は近年までその存在が忘れ去られていたが、1957年9月に吉澤章が国際折紙研究会の機関紙「O・T通信」で発表し、更に同年の『週刊朝日』の書評欄で紹介されたことにより、一般の人にも広く知られることとなった。
 また中西康大が魯縞庵が桑名に実在した人物であることや、編著者が秋里籬島であることをつきとめた。
 編著者の秋里籬島はこの本の製作にあたり作者を「露菊」として記載し、秋里籬島の名は自身の判子「籬島」を押印することによってのみ使用した。
 このため増版時には印が押されなくなり、編著者が秋里籬島であることがわからなくなってしまった。

 この本は魯縞庵がまとめた49種の連鶴を、秋里籬島が和名をつけて狂歌を添え、順序や書籍のレイアウトにも工夫を施して製作された。
 魯縞庵はこの本以前に100種の千羽鶴に漢名をつけ『素雲鶴』(そうんかく)という本にまとめていた。
 『素雲鶴』は現存していないと考えられていたが、2014年11月に長円寺本堂の書庫から『新撰素雲鶴』と書かれた冊子が見つかり、その中に挟まれていた連鶴の展開図が描かれた縦28cm、横39cmの美濃紙が『素雲鶴』の一部とみられている。
 『素雲鶴』と考えられるものには30種、『新撰素雲鶴』には158種類が収録されている。
 本の題名『千羽鶴折形』のうち、「千羽鶴」という単語は現代における連鶴を意味していた。
 また千羽鶴折形は明確な形で連鶴が記載された最古の本であるが、連鶴はこの本が出版される以前から存在したと考えられている。

 関連項目 ー 佐々木禎子 ー

 佐々木 禎子、(ささき さだこ)
 (1943年〈昭和18年〉1月7日〜1955年〈昭和30年〉10月25日)

 太平洋戦争末期の広島市への原子爆弾投下による被爆者の一人。
 12歳の若さで白血病により亡くなり、広島平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルになった。
 原爆を投下したアメリカ合衆国のシアトルの平和公園にも銅像がある。
 2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。

 このように彼女の死は日米で語り継がれているだけでなく、旧ソビエト連邦でも教科書に載るほど広く伝えられ、現在のロシア連邦でも千羽鶴を折るイベントが開かれるなどしているが、その意味合いは反核運動よりも、アメリカを非難して、それに対抗する核抑止力の必要性を訴える目的が濃厚であった。

 ▼生涯

 1943年1月7日、広島県広島市に生まれる。
 「禎子」という名前は、元気に育つようにという父母の願いをこめて、両親の店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。
 1945年8月6日、2歳のときに広島に投下された原爆によって、爆心地から約1.6km離れた楠木町(広島市西区)の自宅で被爆した。
 爆風により屋外まで飛ばされたものの、外傷は負わなかった。
 しかし母に背負われて避難する最中に、放射性降下物を含む「黒い雨」に打たれた。
 また祖母はその際に家に戻ったため亡くしている。
 ともに被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。
 1954年8月の検査では異常はなかった。
 運動神経が抜群で足が速く、将来の夢は「中学校の体育の先生」になることであった。
 小学6年生の春の運動会で学級対抗リレーの選手の一人に選ばれたが6年竹組は最下位になった。
 が、その後もリレーの練習を続け秋の運動会では6年竹組は優勝した。
 その日付は1954年10月25日と記録されている。

 しかしその直後から体に異変がみられるようになる。
 同年11月下旬頃、軽い風邪をひき、首や耳の後ろにしこりができた。
 しこりは徐々に大きくなり、顔がおたふく風邪のように腫れる。
 正月明けに近所の病院で診察を受けるも、一向に腫れが引くことはなかった。
 さらに1月末には左足に紫色の斑点がみられるようになる。
 原因が解からぬまま1月18日、2月16日にABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)で検査を受ける。
 2月18日、かかりつけの小児科医の畑川先生からABCCの検査結果をもとに父親に「病名は亜急性リンパ腺白血病で禎子さんはあと3ヶ月、長くても1年はもたんでしょう」と告げられる。
 2月21日、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。
 10月25日の朝に危篤となる。父親から食べたい物は何かと尋ねられた禎子は「お茶漬けを食べたい」と伝えた。家族が大急ぎで用意したお茶漬けをたくあんと共にふた口ほど食べ、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」と呟いた。
 これが最期の言葉となる。
 1955年10月25日午前9時57分、
 担当の沼田医師が臨終を家族に告げた。
 享年12歳。

 ▼折り鶴

 1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。
 禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。
 病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じて鶴を折りつづけた。
 8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。
 その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。
 その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。
 当時の折り紙には小さい大きさの物が無く、紙の質も悪かったので、小さい鶴は、折りやすい、小さな薬の包み紙のセロファンなどを用いて折る事が多かった。
 1000羽折ったものの病気が回復することはなく同年10月25日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。
 死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。
 禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋は「2千以上のようです」と語っている。
 実際の数については遺族も数えておらず、不明である。
 また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。
 その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。
 2013年10月、病床で作った折り鶴のうち1羽が母校の広島市立幟町小学校に寄贈されることとなった。
 また、2010年からは、日本への原子爆弾投下時のアメリカ合衆国大統領であったハリー・S・トルーマンの親族と佐々木禎子の親族の間で親交がもたれ、2015年11月にトルーマン元大統領の大統領図書館に折り鶴のうちの1羽が寄贈された。

 〔ウィキペディアより引用〕

 私は未だ“平和”という言葉の意味の周りを徘徊しています。
 私の脳裏には、ジョン・レノンの“IMAGINE”が流れていて...。
 何術もなく、途方に昏れてます。

 IMAGINE

 1971年にジョン・レノン
 (John Lennon)が作詞作曲した、平和を願う歌。

 imagine peace from every angle.
 あらゆる角度から平和を想像する。

in the name of ending the war Chord : 09 マンハッタン計画①

2023-08-21 21:00:00 | 日記

 マンハッタン計画①

 マンハッタン計画
 (マンハッタンけいかく)
 (英: Manhattan Project)

 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。
 計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。
 さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。

 科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。
 大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。
 なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。
 最初は「代用物質開発研究所 (Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名されたが、これを知った(後にプロジェクトを牽引することになる)レズリー・グローヴスが、その名称は好奇心を掻き立てるだけであるとして新たに提案したのが採用されたものである。

 《歴史》

 ▼背景

 ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。
 この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。
 なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。
 ルーズベルトは、国立標準局長官リーマン・ブリッグズに命じてS-1ウラン委員会を設け、シラードが提案した問題を検討した。
 ブリッグズは1939年10月21日にシラード、ユージン・ウィグナーとエドワード・テラーとの初めての会合を開いた。 
 11月1日に、諮問委員会は大統領宛の報告書を作成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始することを報告した。
 しかし、「もしその(ウランの)反応が爆発性のものならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破壊力をもった爆弾になろう」と付け加えた。

 ブリッグズは合衆国防衛研究委員会 (NDRC) に対して、ウランと当時発見されたばかりのプルトニウムの研究に16万7000ドルの支出を要求した。
 しかし当初はルーズベルトは関心を示さず、そのまま委員会は中断した。
 1939年6月、イギリスでは、バーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見を成し遂げた。
 2人の計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だと見積もられた。
 オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、後にガンバレル方式と呼ばれる単純な兵器の機構と、ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告の2つのレポートを書き、バーミンガム大学物理学科主任のマーク・オリファントを通じてイギリス防空科学調査委員会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティザードへ送った。
 これにより、1940年5月には、MAUD委員会と呼ばれるウラン爆弾の実現可能性を評価する委員会が組織された。
 委員会によって起草された調査報告書は、1941年10月に合衆国政府に伝えられた。
 それによってアメリカ人物理学者が認識していなかったウラン爆弾の実現可能性が示された。

 ▼着手

 1942年10月、ルーズベルトはアメリカ国防研究委員会 (NDRC) 議長のヴァネヴァー・ブッシュと副大統領ヘンリー・A・ウォレスとのミーティングで、核兵器開発プロジェクトを承認した。
 ルーズベルトはプロジェクトの管轄を、海軍ではなく大規模なプラント建設に慣れている陸軍に行わせた。
 また、ルーズベルトはイギリスとの協力体制についても同意し、10月11日にはイギリスの首相ウィンストン・チャーチルに書簡を送った。
 プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。
 責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。

 《プロジェクトの場所》

 ▼オークリッジ

 マンハッタン計画が決まった翌日、グローヴス准将とジョージ・マーシャル大佐は提案されていた土地の調査のため汽車でテネシー州に向かうと、グローヴス准将はその土地に好印象を持った。
 1942年2月、グローヴス准将は、ウラン精製工場と計画の司令部を設置するために、テネシー州東部クリンチ川沿いのオークリッジの土地を取得した。
 取得した土地の面積は56,000エーカー (23,000 ha) に上る。
 米陸軍は、原爆製造に必要なウラン精製工場をオークリッジに建設した。
 土地の取得費用、350万ドルは、9月29日にアメリカ合衆国陸軍次官のロバート・ポーター・パターソンによって承認された。
 追加の3,000エーカー (1,200 ha) も後に取得された。
 10月7日に発せられた土地の取得によって影響を受けた家族は1,000以上に上る。
 抗議も懇願も1943年の議会による審問も何の抗力も成さなかった。
 11月中旬、連邦保安官は農家の家屋のドアにも退去の告知を貼り、建築請負人はここに転居してきた。
 いくつかの家族は1920年代にグレート・スモーキー山脈国立公園または1930年代にノリス・ダムの建設のために退去し、ここに落ち着き何世代にも受け継がれてきた家と農場からの退去に2週間の猶予を与えられた。
 1945年3月まで支払いが終わらなかったこの土地の買収価格は、想定価格は1エーカーにつき47ドルであったが合計たった260万ドルであった。
 オークリッジ全体が軍の許可なく誰も入ることができない排除区域となるという公共布告第2番が発せられた時、テネシー州知事プレンティス・クーパーは怒ってその布告書を破り捨てた。

 最初はキングストン・デモリション・レンジと呼ばれていたが、1943年初頭、公式にクリントン・エンジニア・ワークス (CEW) と名付けられた。
 ストーン・アンド・ウェブスターは製造施設の集約を可能にするため、13,000人もの住宅地域は建築技術会社のスキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリルにより計画および建設された。
 この町は後にオーク・リッジと名付けられる元のブラック・オーク・リッジの丘の上に位置していた。
 1943年8月、マンハッタン技術者地域の長がマーシャルからケネス・ニコルスに替わると軍が占める地域は広がっていった。
 彼の最初の任務の1つはこの地域の本部をオーク・リッジに移転することであったが、名称は変えなかった。
 1943年9月、町の施設の管理を、オーク・リッジがあるアンダーソン郡とローン郡によるローン・アンダーソン・カンパニーとして知られる子会社を通してターナー・コンストラクション・カンパニーに外注した。
 最初の工場ができると全米から労働者が集められ、人口は増大し、1945年5月にクリントン・エンジニア・ワークスに82,000名、ローン・アンダーソンに10,000名が雇われた時、最大の75,000名となった。
 オークリッジの4つの施設にはX-10、Y-12、K-25、S-50というコードネームを与えられた。
 X-10サイトは後にオークリッジ国立研究所となり、Y-12サイトはY-12国家安全保障複合施設(en:Y-12 National Security Complex)として現存している。
 のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆の町)、シークレット・シティ(秘密都市)と呼ばれるようになった。

 ▼ロスアラモス

 計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイマーである。
 オッペンハイマーの提案で研究所はニューメキシコ州ロスアラモス(サイト Y、後のロスアラモス国立研究所)に置かれることが1942年11月に決定した。
 彼を研究所長に、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などが集められた。
 当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする、数学の優秀な高校生も集められた。
 その他、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなどが協力した。

 ▼ハンフォード

 プルトニウムの生産場所としてオークリッジは不適切であった。
 オークリッジは人口密集地であるノックスヴィルに近く、予期しない事故が起こった際に市街地へ放射性物質が降り注ぐ危険があったためである。
 グローヴズ准将は、建設監督となるデュポン社の民間技術者を雇用し、プルトニウム工場用地を管理する将校と一緒に土地の査定を行わせた。
 プルトニウムの生産には多量の水と電気が必要とされるため、ワシントン州南央のコロンビア川沿いの盆地が候補に上がった。
 1943年1月末に、そこの20万ヘクタールが510万ドルで取得され、ハンフォード技術工場(Hanford Engineer Works: HEW)と名付けられ(後のハンフォード・サイトで米国で最大級の核廃棄物問題の箇所)、サイトWというコードネームが与えられた。
 工場の建設に当たった労働者は最終的には5000人にのぼる。
 陸軍による地主に対しての農作物に対する補償額が争点となり、ハンフォードでの土地の取得計画は難航した。
 一部の土地は終戦後のマンハッタン計画終了までに完了しなかった。
 用地買収の問題はあったものの、工場建設は進められ1943年4月に工場は稼働を開始した。
 当初そこで働く労働者はおよそ25000人であり、その半数は工場内のバラックに住んでいた。

 ◆計画に参加した組織等

 ロスアラモスの他にもシカゴ大学冶金研究所やカリフォルニア大学バークレー校など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、米国以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加している。
 またデュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の大企業も参画している。
 この計画に対しては多額の資金(当時の額面で19億ドル)が投入された。

 《開発》

 マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというグローヴスの方針には自由な研究を尊ぶ科学者からの反発も強かった。
 ウラン濃縮には電磁濃縮法が使用された。当時、戦略物資として銅の使用が制限されていたので国立銀行から銀を借りて電磁石のコイル用線材に用いた。
 銀は銅に比べ電気抵抗が少なく、多少なりとも発生磁力向上と消費電力削減に貢献した。

 ▼フランクレポート

 1945年3月、連合国によりドイツが原爆を開発していない確証が得られると、ジェイムス・フランクやレオ・シラードらは、フランクレポートの提出など、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 フランクレポート
 (Franck Report)

 1945年6月11日にシカゴ大学に設けられた7人の科学者による委員会が、原子エネルギー、特に原子爆弾の社会的、政治的影響を検討して大統領の諮問委員会に提出した報告書である。
 報告書では、戦後の核管理体制実現の重要性とともに、日本に対する原子爆弾の無警告での使用に反対していたが、提議は拒絶された。
 正式なタイトルは『政治的・社会的問題に関する委員会報告』(Report of the Committee on Political and Social Problems) であるが、委員会の委員長ジェイムス・フランクの名をとって、フランクレポートもしくはフランク報告と呼ばれている。

 ◆内容の概略

 報告書は5000語弱、5つの節からなり、はじめに、マンハッタン計画に参加した科学者という特殊な立場にいることによって「残りの人類はまだ気づいていない深刻な危機を知った少数の市民の立場にある」ためここでの提案を促すことが、他の人々への自らの責任であるとする。
 その上で報告書は科学的知見に基づいて戦後に訪れるであろう世界予測を行う。
 そこでは、基礎的科学知識が共有され、またウランも独占はできないため、どんなに機密性を保持したとしてもアメリカの優位が「数年以上我々を守り続けることができると望むのはばかげたことである」として、核兵器のアメリカによる独占状態も長くは続かないだろうとした。
 また核兵器にはそれを防ぐ有効な手段を提供できず、結局、核戦争の禁止協定のような国家間の国際的合意を行うことのみが戦後の核開発競争と核戦争の危険を防止できるとした。

 報告書はこの国際的合意の締結のために、「核兵器を世界に向けて初めて明らかにする手段が大きな、おそらくは運命的な重要性を帯びる」とする。
 こうした合意を行うためには相互信頼が重要であるにもかかわらず、日本に対する予告なしの原爆使用は他国からの信頼を失い、国際的な核兵器管理の合意形成が困難になるであろうとしている。
 それに代わって報告書では、無人地域でのデモンストレーション実験を行うこと、もしくは爆弾を使用せずできるだけ長くそれを秘匿しておくことによって、核兵器の国際的な管理体制を作り上げるよう訴えている。

 ◆経緯

 第二次世界大戦中のアメリカの原子爆弾製造プロジェクトであるマンハッタン計画において、シカゴ大学にあった冶金研究所 (Metallurgical Laboratory, Met Lab) は原子炉の作成とそれによるプルトニウムの生産の実証を担っており、計画初期において重要な役割を果たした。
 ただし原爆に使用される大規模なプルトニウムの生産と精製とは、これとは別にデュポン社がワシントン州のハンフォード・サイトで行うこととなっていたため、ハンフォードの施設が軌道に乗り始めるとともにシカゴの科学者たちには時間的余裕が生ずることになった。
 当初、機密性の保持の問題から、原爆のもつ政治的・社会的意味を科学者間でおおっぴらに議論することは難しかったが、1945年春になると、ナチス・ドイツが原爆を作成していないことが明らかとなり、またその敗北も時間の問題と思われるようになったため、こうした空気は実質的に和らぐことになった。
 こうした条件下で、冶金研究所の科学者の中から原爆が日本に対して使われることに対する懸念が表明され始めることになった。
 とりわけ最も活動的であったレオ・シラードは5月末に後の国務長官ジェームズ・F・バーンズを訪問して持論を展開するなどした。

 一方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、1945年5月に戦時および戦後における核エネルギーに関する諸事項を議論するため、暫定委員会と名づけられた秘密の委員会を組織していた。
 冶金研究所を統率していた物理学者アーサー・コンプトンはこの委員会の4人の科学顧問団 (Scientific Panel) の一人であった。
 コンプトンは冶金研究所内で高じてきた混乱を納めるため、6月の始めに研究所の科学者からなるいくつかの委員会を組織し、その報告書を科学顧問団で討議した結果を暫定委員会に報告することを約束した。
 このうちジェイムス・フランクを委員長とし、爆弾の政治的・社会的影響を議論し報告する委員会がフランクレポートを作成することとなった。
 この政治的・社会的問題に関する委員会、通称フランク委員会のメンバーは全7名であり、フランクの他は、ドナルド・ヒューズ (Donald J. Hughes)、ジェイムス・ニクソン (James J. Nickson)、ユージン・ラビノウィッチ、グレン・シーボーグ、J.C. スターンズ (J.C. Stearns)、そしてレオ・シラードから成っていた。

 報告書はコンプトンがシカゴを去る6月14日までに準備せねばならなかった。
 委員長のフランクは報告書の草稿の執筆をドイツ時代からの同僚であり英語の文書記述にも長けたラビノウィッチに依頼し、自らの一枚の走り書きを手渡した。
 当初こうして完成した草稿は、ほぼ核エネルギーの管理の問題だけを扱ったものであった。
 この草稿を読んだシラードは、ラビノウィッチに対して原爆の無人地域でのデモンストレーションを行いそれを他国の代表に公開すべきと議論した節を挿入するよう働きかけた。
 ラビノウィッチは後にこのときのことを「この問題について議論するため、ミッドウェイ〔シカゴ大学構内を抜ける大通り〕をレオ・シラードと何時間も行き来し、〔そして〕ことによると機密の壁を破り、自分たちの政府によって成されようとしていることをどう思うかを、そしてそのことに我々は賛同するのかどうかをアメリカの人々が判断できるようにするべきなのかどうかと自問しながら眠れない夜を過ごした」と述懐している。
 こうして短い期間の内にフランクの名とラビノウィッチの文章とシラードのアイデアを盛り込んだ報告書が完成した。    
 フランクは6月11日の日付のあるこの報告書を携えてワシントンD.C.行きの列車に乗り、暫定委員会の委員長スティムソン長官のオフィスへと直接届けている。

 フランク以下の科学者が知るところではなかったが、暫定委員会では5月31日にすでに原爆の使用方法の問題を議論し、爆弾を日本の都市に対して無警告で使用するという決定が下されていた。
 その後届けられたフランクの報告書がどの程度の影響を及ぼしたのか詳しいことについては意見が分かれているものの、6月16日にコンプトンと、アーネスト・ローレンス、ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミからなる科学顧問団の会合が開かれ、そこではデモンストレーションを求める意見が一部の科学者の間にあるとした上で「我々は戦争の終結をもたらしそうな技術的デモンストレーションを提案できず、直接の軍事的使用以外の受け入れ可能な代替案は見出せない」と結論付けられた。
 この科学顧問団の報告は6月21日の暫定委員会で議論され、フランクレポートの提案は拒絶されることになった。
 科学顧問団の一員のオッペンハイマーは後にデモンストレーションについて「あの当時構成されていた日本政府、反戦派と好戦派に分断されていた政府が、高々度で爆発させ、わずかしか被害を与えない巨大な核の爆竹に影響されることになったかどうか自問してみれば、答えは誰でも自分と同じようなものになるだろう。
 分科学顧問団の一員のオッペンハイマーは後にデモンストレーションについて「あの当時構成されていた日本政府、反戦派と好戦派に分断されていた政府が、高々度で爆発させ、わずかしか被害を与えない巨大な核の爆竹に影響されることになったかどうか自問してみれば、答えは誰でも自分と同じようなものになるだろう。」と述べている。
 また暫定委員会の委員で大統領特別代表であったバーンズは、あらかじめ標的を告げれば捕虜をそこにつれてくるかも知れず、またあらかじめ警告しても爆弾が失敗すれば日本の軍国主義者を安心させ、その後は降伏を含めどんな勧告も力を持たなくなるだろうと、警告を与えるべきでないとした理由について回想録で述べている。

 シカゴの委員会の科学者には何らの返答ももたらされず、強い無力感を残すことになった。 ラビノウィッチは、このときみなに共有された感情を「自分たちが防音壁のようなものに囲まれており、ワシントンに手紙を書いても誰かに語りかけても何らの反応も戻ってこない」ようだと表現し、「ミシガン湖に報告書を投げ入れてしまってもよかった」と感じたと後に語っている。
 こうして7月になってもフランクやラビノウィッチはなおも返答を待ち続けたが、シラードはその後も原爆の直接使用に反対する活動を継続し、大統領に宛てた請願書に署名を集めるなどした。
 しかし結局、8月6日に広島、次いで9日には長崎にも原爆投下されることになった。
 フランクレポートは日本への原爆の直接の投下と戦後の核軍備競争を防ぐことはなかったが、雑誌『原子力科学者会報』を発行し、またパグウォッシュ会議の実現に尽力したラビノウィッチをはじめ、この活動は戦後の科学者による核軍備競争に対する政治的・社会的活動のひとつのきっかけを作ることとなった。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   〔ウィキペディアより引用〕



Wonder To Oneself ♯003

2023-08-18 21:00:00 | 日記

 ■橋田壽賀子と向田邦子のドラマによる ひとつの考察 ー 理想家族 ー

 この二人のどういう人なのかを紹介させて貰います。

 先ずは、向田邦子氏の場合
から。

 向田 邦子(むこうだ くにこ)
 (1929年(昭和4年)11月28日〜1981年(昭和56年)8月22日)
 日本のテレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞を受賞。

 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。
 共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。
 父親の転勤で全国を転々とするが、本人は鹿児島時代が文学の原点と語った。
 実践女専国語科を卒業後、映画雑誌の記者を経て、ラジオ・テレビの台本・脚本を書く。
 『七人の孫』『寺内貫太郎一家』等、自分の実感をもとに庶民の生活を温かくかつその暗部をも描いて「ホームドラマの旗手」といわれた。
 1980年、短編連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』(後に作品集『思い出トランプ』に所収)で直木賞受賞。

 《略歴》

 1929年(昭和4年)、東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)に生まれる。
 父親は高等小学校を卒業したあと第一徴兵保険(東邦生命保険。現、ジブラルタ生命保険)に給仕として入社し、そこから幹部社員にまで登りつめた苦労人。 
 なお転勤族であったため一歳で宇都宮に転居したのを初めとして、幼少時から高等女学校時代まで日本全国を転々としながら育つ。
 香川県の高松市立四番丁小学校卒業、東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現・実践女子大学)国語科卒業。
 新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。
 その後雄鶏社に転職し、「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。
 そのころ市川三郎の元で脚本を学び、シナリオライターを目指した。
 雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活躍する。
 ホームドラマ作品の脚本家として現在も知名度は高く、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』といった人気作品を数多く送り出した。
 1970年代には倉本聰・山田太一と並んで「シナリオライター御三家」と呼ばれた。
 1981年(昭和56年)8月22日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。
 享年51。
 法名は、芳章院釋清邦大姉。
 墓所は東京都府中市の多磨霊園。

 墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る 久彌」。遺品はかごしま近代文学館に寄贈され、常設展示されている。
 寄贈を決めた時の母・せいの言葉は「鹿児島に嫁入りさせよう」であった。

 代表作でもある向田邦子作品、TVドラマ『だいこんの花』
 《ストーリー概要》

 元海軍大佐で巡洋艦「日高」(架空の船名で実在しない)の艦長も務めた永山忠臣(森繁久彌)、早くに妻・繁子(加藤治子)亡くしてからは一人息子・誠(竹脇無我)男手ひとつで育て上げた。
 忠臣は妻を「だいこんの花のような、素朴だが美しく控えめな人だった」と常々語り、結婚適齢期になった誠にも「妻を娶るならだいこんの花のような人を」と口うるさく言うのであった。
 誠の恋愛事情や忠臣の元部下が営む小料理屋の一家とのかかわりを交えつつ、明治世代の頑固親父・忠臣と戦後世代の現代っ子・誠の家族模様を綴る。

 名作『パパと呼ばないで』

 《ストーリー概要》

 独身男の安武右京(石立鉄男)は亡くなった姉の娘、橋本千春(杉田かおる)を引き取り、中央区佃の米屋・井上精米店の2階に下宿を始める。
 子供の扱いがわからず、とまどう右京だったが、次第に情が通い、千春はかけがえのない存在になっていく。

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 橋田壽賀子氏の場合

 橋田 壽賀子(はしだ すがこ)
 (1925年〈大正14年〉5月10日〜2021年〈令和3年〉4月4日)
 日本の脚本家、劇作家、タレントである。
 本名:岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)(旧姓:橋田)。
 位階は従三位。
 静岡県熱海市名誉市民。

 1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属される。
 1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー。
 同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出した。
 代表作は『おんな太閤記』、『おしん』、『いのち』、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』、『春日局』、『渡る世間は鬼ばかり』、『橋田壽賀子スペシャル 源氏物語 上の巻・下の巻(光源氏第1部・第2部)』、『おんなは度胸』、『春よ、来い』、『なるようになるさ。』シリーズ、『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』など。

 《経歴》

 日本統治時代の朝鮮・京城で1925年(大正14年)に生誕。
 勉学のため帰国するまでの9年間を朝鮮で過ごした。
 父親は、チタンを産出する鉱山と土産店を営んでおり、母も店に出て忙しく、「オモニ」と呼ばれていた近所の主婦が世話をした。
 大阪府立堺高等女學校卒業後、日本女子大学文学部国文学科入学。
 日本女子大3年生時、空襲で大学が閉鎖。
 大阪へ戻り海軍経理部へ勤めていた時に終戦後を迎える。
 その後「新古今和歌集における<つ>と<ね>の研究」をテーマに卒業論文を執筆し、日本女子大学を卒業。
 この後、東京大学を受験するも失敗。
 学者になる事を諦め同時に受験をしていた早稲田大学第二文学部国文科に入学、その後芸術科に転科の演劇専修に移り、中退。
 女学校時代は文章が苦手だった。
 その当時、日本軍兵隊への慰問文がコンクールで入賞したこともあったが、それは母が壽賀子の名前を使って書いたものであった。
 早稲田大学在学中には学生劇団「小羊座」に入って役者を務めたほか、久板栄二郎の脚本塾に通って演劇の執筆を始めた。
 1949年(昭和24年)、松竹に入社して脚本部所属となり、松竹最初の女性社員となった。
 最初の脚本の仕事は、1950年(昭和25年)公開の映画『長崎の鐘』(監督:大庭秀雄)における新藤兼人の手伝いであった。
 初めて単独で脚本を執筆した作品は、1952年(昭和27年)公開の映画『郷愁』(監督:岩間鶴夫、主演:岸恵子)である。

 1959年(昭和34年)、秘書への異動を拒否して松竹を退職し、独立作家となる。
 ただし、それから3年間ほどはテレビ局へ原稿を売り込みに行っても採用されなかったため、小説や漫画の原作を書くなどした。
 1964年、『袋を渡せば』で作家デビュー。
 同年、東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』の脚本が話題となり、テレビドラマの脚本家として名を高めた。
 東京放送・創立記念日でもある1966年(昭和41年)5月10日(橋田の41歳誕生日)にTBS編成局企画部・課長岩崎嘉一(誕生日の関係で5歳あるいは4歳下)と結婚。
 結婚式の仲人は石井ふく子が務めた。「岩崎は肺腺がんに罹患している」と1988年9月24日に宣告され「自分が癌に罹患している」と夫が知ったら自殺するのではないかと思い「夫には本当のことを言わないでください。お願いします」と懇願する橋田に医師は「では肋膜炎ということに」と渋々答えた。
 翌年元日にNHKの大河ドラマ「春日局」の準備をしていたが岩崎の看病をしながら1年続くドラマの脚本を書き上げる自信がなく、橋田が石井に相談すると「いま番組から降りたら嘉一ちゃんは、自分ががんだって気づくかもしれないよ」と首を横に振った。
 1989年(平成元年)9月、死別。
 晩年の岩崎とは、別荘地として知られる「熱海自然郷」で暮らした。
 橋田は当時を「私は若くして両親を亡くしている。
 一人っ子なのできょうだいもいない。
 そしてたった一人の家族だった夫を、こうして失った。」と回顧している。
 静岡県熱海市で柴犬の「さくら」と暮らし、東京〜熱海間を往復する生活を送った。
 自宅は急峻な玄岳の頂上付近にあり、自動車を自ら運転して往復していた。

 1992年(平成4年)、亡夫の岩崎の遺産などを元手に「橋田文化財団」を設立。    
 理事長に就任し、橋田賞を創設した。
 2014年(平成26年)5月、『女性自身』で、同年4月開始の『なるようになるさ。』第2シリーズの視聴率低迷が主たる理由で脚本家業の引退を示唆していると報じられた。
 橋田本人は同誌の取材に対し、「引退したいですよ。でも、させてもらえないでしょうね」と語った。
 2015年(平成27年)8月20日、フジテレビ『ノンストップ!』のインタビューで「今の俳優さん達、名前も分からない。これじゃ(脚本)書けないから仕事が来ない」「ミステリーとか不倫ものとかばかり。普通のホームドラマが生きられない時代になった」と語り、改めて脚本家引退を示唆したが、その後引退報道に関する週刊女性の取材に対して「お仕事はまったく来ないです。いま、ホームドラマなんかやるところはないですから。私の時代じゃないと思いますよ。でも、引退はしません。また私が書きたいものを書かせてくれるところが出てきたら書かせていただきます。ただ、今はお休みして、充電中です」と引退を否定した。
 同年10月30日、日本政府より脚本家として初(監督作品も存在する脚本家を除く)となる文化功労者に選出されたことが発表された。
 そして2020年10月27日、同じく脚本家として初の文化勲章受賞者に選出されたことが日本政府より発表された。
 2021年(令和3年)2月下旬から、急性リンパ腫の治療のため東京都内の病院に入院。
 3月からは自宅のある静岡県熱海市内の病院に移り、治療を続けた。
 4月3日に自宅に戻り、翌4日9時13分、死去した。
 95歳だった。臨終は同じ熱海に居を構える泉ピン子が看取っている。
 橋田本人の遺志により葬儀は執り行わず同月5日に火葬され、同月9日に両親の墓所がある愛媛県今治市内の寺院と夫・岩崎が眠る静岡県の冨士霊園に納骨された。
 死没日付をもって従三位に叙された。 
 また、長年執筆の拠点を構えた熱海市は、2021年(令和3年)4月10日の熱海市表彰式典で、名誉市民の称号を追贈した。
 2022年6月15日、生前親交の深かった女優の泉ピン子が、火葬場で特別に分けてもらったという橋田の遺骨を、クルーズ船「飛鳥II」から海洋散骨したと報告した。

 《作風》

 「大衆に受け入れられてこそ価値のある作品」という信念のもと、数多くの作品でヒットを飛ばした。
 代表作は『おしん』(1983年〜1984年、NHK)や『渡る世間は鬼ばかり』(1990年〜2019年、TBS)が有名。
 他にも、『おんな太閤記』(1981年、NHK)、『いのち』(1986年、NHK)、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』(1987年〜1989年、TBS)、『女たちの百万石』(1988年、日本テレビ)、『春日局』(1989年、NHK)、『おんなは度胸』(1992年、NHK)、『春よ、来い』(1994年 - 1995年、NHK)、『テレビ、翔んだ!』(1999年、日本テレビ)、『ハルとナツ 届かなかった手紙』(2005年、NHK)、『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』(2010年、TBS)など、数多くの傑作を輩出し、いずれも後世に残る作品を輩出した。
 NHKやTBSの制作作品で脚本を担当することが多く、テレビ東京での仕事はまったくない(これは同局がドラマをほとんど放映しないことも原因している)。

     〔ウィキペディアより引用〕




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 今思うと、二人の“理想家族”は、何だったんだろう。

 “幸せな家庭”を語る、語らないが本筋かも知れない。

 稀に「夢を持つな、目標を持て!」と聞くが、そういう言葉は

 人が夢に関わると儚くなる、と言うが...。

 ■東光寺

  ▼夢の話

 東光寺の本堂には「覚夢殿(かくむでん)」という額が飾ってあります。
 夢から覚める場所、という意味です。

 “夢から覚める”、とはどういう意味でしょうか?

 ーー過去は夢、未来は幻。

 過ぎ去った過去は夢であり、まだ見ぬ先にある未来は蜃気楼のようにあやふやなものである。
 過去も未来も「今」というものに比べれば、とても儚(はかな)いものである。
 覚夢殿の「夢」とは、この「過去」という意味も持っています。
 過去は今さら変えることはできないし、動かすこともできません。
 過去とは自分にはどうにもならないものなのです。

 昔あんなコトがあった。 とても悲しいコトがあった。
 恥ずかしいコトがあった。
 苦しいコトがあった。

 そういう過去を引きずって過ごしても何にもなりません。

 苦しいだけです。

 ここに来たら「早く夢から目覚め、前を向きなさい」と、「過去にこだわるのは止めて、今を進みなさい」と、「覚夢殿」とはそういう意味なのです。

 ◇ 「目覚めよ」とは言っていますが、積極的に過去を捨てる必要はありません。
 大切な過去は心にしっかり仕舞っておきましょう。

 皆さんには過去よりも、もっと大切な、「今」があります。

 今日という日の、「今」を大切にしてください。

 過去は夢、未来は幻ですが、「今」というものは確かに「今」ここに、存在するのです。

 後ろにある過去ではなく、先にある未来でもなく、目の前にある「今」こそを大切にしてください。

 過去の夢にも、未来の幻にも振り回されず、ひとつひとつ、一瞬一瞬を、大切に生きてもらえればと思います。
〔情報元 :

銭の花《商魂》 ♯008

2023-08-17 21:00:00 | 日記

 ■カルピス

 カルピスは、アサヒ飲料の機能子会社となる日本の乳製品メーカーのカルピス株式会社(英称:Calpis Co., Ltd.)及び、同社が製造してアサヒ飲料が販売する乳酸菌飲料の名称である。
 ローマ字表記はCALPIS、日本以外ではCalpicoとも。


 カルピス本社は、東京都渋谷区恵比寿に所在していた。
 2012年(平成24年)10月にそれまでは味の素が保有していた全株式がアサヒ飲料などを傘下に持つアサヒグループホールディングスに譲渡されて同社の機能子会社となった後、2016年(平成28年)1月のアサヒグループにおける飲料事業の再編に伴ってアサヒ飲料の機能子会社である2代目法人となり、本社が東京都墨田区吾妻橋のアサヒビール本社ビルへ移転した。
 これに併せ、「カルピス」の登録商標についてもカルピスから親会社のアサヒ飲料に商標権が移管された。
 2020年(令和2年)12月現在のコーポレート・スローガンは「カラダにピース。CALPIS」。ブランド・スローガンは「ピースはここにある。」。

 《企業》

 企業としてのカルピスの創業者は、僧侶出身の三島海雲である。20世紀の初頭の創業初期より、後に日本初の乳酸菌飲料となる「カルピス」を生産していた。
 これと共に、脱脂乳(英語版)の生産の際に副産品として製造を開始したとされるカルピスバターが主力商品である。
 1990年の味の素との提携後は、カルピスを製造時に水で希釈調合しすぐに飲めるようにした清涼飲料水「カルピスウォーター」の生産、ミネラルウォーターの「エビアン」やワインの輸入、カクテル「カルピスサワー」などのアルコール飲料にも進出している。
 Calpisが牛の尿の意味の英語: cow piss「カウ ピス」と聞こえることから、アメリカ合衆国ではCALPICO(カルピコ)という名称で販売される。
 なお、製造情報の欄には輸出会社として「CALPIS CO.,LTD.」と書かれている。
 味の素は2007年(平成19年)6月11日に同年10月1日付で、カルピス株式会社を完全子会社化することで合意したと発表した。
 カルピス経営陣は他社との提携も考慮したが、今後の少子高齢化で懸念される日本市場の規模縮小と、それを補うための海外市場展開、さらには、いわゆる三角合併の解禁による海外企業の買収攻勢への対応を見据え、この統合案しかないと表明。苦渋の決断だったとしている。

 2012年5月8日、味の素がアサヒグループホールディングスにカルピスの全株式を2012年10月1日付、約1200億円で売却する内容の株式譲渡契約締結が発表された。
 同年10月に株式譲渡が行われ、アサヒグループホールディングスの子会社となった。
 同時に「業務提携:味の素株式会社」の記載も削除されている。
 統合後はアサヒ傘下の会社とマレーシアにてカルピス飲料を共同開発し、東南アジア向けに現地の趣向に対応させ、ハラル認証も取得している。
 2016年1月1日にアサヒグループの飲料事業の再編が行われ、事業ごとにグループ会社へ継承・移管した後、アサヒ飲料と合併。
 カルピスで行われていた国内飲料製造事業と乳製品事業はカルピスフーズサービスへ継承され、(2代目)カルピスとしてアサヒ飲料の機能子会社となった。

 《沿革》

 ★初代会社

 ・1916年(大正5年)4月
  前身となる醍醐味合資会社を設立。

 ・1917年(大正6年)
  ラクトー株式会社設立。

 ・1919年(大正8年)7月7日
  カルピス発売。

 ・1923年(大正12年) - カルピス製造株式会社に商号変更。

 ・1948年(昭和23年)
  カルピス食品工業株式会社に商号変更。

 ・1951年(昭和26年)
  乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年厚生省令第52号)によりカルピスが日本で初めての乳酸菌飲料となる。

 ・1987年(昭和62年)
  フランスBSNグループ(現:グループ・ダノン)と業務提携。

 ・1990年(平成2年)
 1月
  いわゆる「黒人マーク」の使用を、人種差別問題に配慮して中止。
 8月
  第三者割当増資を実施。
 味の素株式会社が増資を引き受け筆頭株主に。

 ・1991年(平成3年)
  味の素株式会社から飲料事業を譲受、両社の缶入り飲料事業を統合。

 ・1997年(平成9年)
  カルピス株式会社に商号変更。

 ・2007年(平成19年)
 9月25日
  上場廃止。
 10月1日
  株式交換により味の素株式会社の完全子会社になる。
 10月15日
  アサヒ飲料と自動販売機事業の統合を公表。
 12月10日
  アサヒ飲料との共同出資で、自動販売機事業の持株会社「アサヒカルピスビバレッジ株式会社」を設立。
 出資比率はアサヒ80%・カルピス20%である。

 ・2008年(平成20年)
 1月4日
  自動販売機事業子会社6社をアサヒカルピスビバレッジに譲渡。

 ・2009年(平成21年)
 10月1日
  物流子会社のカルピス物流サービスを、相模物流センター及び群馬物流センターは関東エース物流、岡山物流センターは関西エース物流(共に味の素物流の子会社)に譲渡。

 ・2012年(平成24年)
 10月1日
  株式譲渡によりアサヒグループホールディングス株式会社の完全子会社になる。

 ・2013年(平成25年)
 1月21日
  2012年(平成24年)10月31日に締結した業務提携契約に基づき、自社開発のチルド飲料の製造・販売をグループ会社のエルビーへ移管。
 8月31日
  酒類事業を終了(「カルピスサワー」はグループ会社のアサヒビールに移管され、同年12月10日に新仕様で発売される)。
 9月1日
  国内飲料事業(「カルピスサワー」を除く)及び営業部門をアサヒ飲料へ移管統合。
 これにより、「カルピスサワー」、エルビーが担当するチルド製品を除く日本国内における「カルピス」ブランドの飲料製品のマーケティングと販売をアサヒ飲料が手掛けるようになる。

 ・2016年(平成28年)
 1月1日
  国内飲料製造事業と乳購買を含む乳製品事業を子会社のカルピスフーズサービスへ、機能性食品(通信販売、素材)事業をアサヒグループホールディングス子会社のアサヒカルピスウェルネスへそれぞれ継承、海外飲料事業および発酵応用研究に関する組織と間接機能の一部をアサヒグループホールディングスへ機能移管した後、アサヒ飲料へ吸収合併され解散。

 ★2代目会社

 ・2016年(平成28年)
 1月1日
  乳製品の販売を行っていた(初代)カルピス子会社のカルピスフーズサービスが(初代)カルピスから国内飲料製造事業と乳購買を含む乳製品事業を承継して(2代目)カルピス株式会社に商号変更し、アサヒ飲料の子会社に移行。

 ・2020年(令和2年)
 12月末
  この月の製造・出荷分を以って同社が製造する製品(乳製品全般)における「CALPIS」ロゴのCIの商標使用を終了。

 ★事業所

 本社:東京都墨田区吾妻橋1-23-1
 工場:岡山(工場記号BC)
 群馬(工場記号KC)がある。
 国内工場の屋根は暖色系のオレンジ色に統一されている。

 ★由来

 1908年(明治41年)、30歳の三島海雲は内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を訪れ、そこで口にした酸乳を参考にして、1919年(大正8年)にカルピスを開発・発売し、この飲料と同名の企業の創業者となったと伝えられている。
 脱脂乳を乳酸菌で発酵(酸乳)しこれに加糖、さらに酵母(馬乳酒中の酵母と近似)による発酵がカルピス独特の風味に不可欠であることは、長く企業秘密とされていたが、1990年代半ばに公開された。
 社名は、「カルシウム」とサンスクリットの「サルピス」(सर्पिस्, sarpis, 漢訳:熟酥=じゅくそ)を合わせたものである。
 社名を決める際、サンスクリット「サルピルマンダ」(sarpir-maṇḍa, 漢訳:醍醐)を使用し、「サルピス」・「カルピル」とする案も存在した。
 同社では重要なことを決める際には、その道の第一人者を訪ねる「日本一主義」があった。
 これにより、当時音楽の第一人者だった山田耕筰に社名について相談したところ、「カルピス」が最も響きが良いということで現行社名・商品名になったという。

 元々は、パナマ帽を被った黒人男性が、ストローでグラス入りのカルピスを飲んでいる図案化イラストが商標だった。
 これは第一次世界大戦終戦後のドイツ帝国で苦しむ画家を救うために、社長の三島が開催した「国際懸賞ポスター展」で、3位を受賞したドイツ人デザイナーのオットー・デュンケルスビューラーによる作品を使用したものである。
 1989年(平成元年)に一部から「差別思想につながる」との指摘を受け、パッケージリニューアル時にこのマークは使用されなくなったが、マーク中の「渦巻き状のストローが入ったグラス」の意匠はややデザインを変えつつ、現在も一部のパッケージに受け継がれている。
 なお、カルピスはかつてのロゴの図案を白黒反転させたマークも商標登録している。

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 関連項目 ー 世界名作劇場 ー
        (カルピス劇場)

 世界名作劇場(せかいめいさくげきじょう)は、主に日本アニメーション(以下、日アニ)が制作して『カルピスこども名作劇場』や『ハウス食品・世界名作劇場』といった名称で放送されているテレビアニメシリーズである。

 世界名作アニメ、世界名作アニメ劇場とも呼ばれる。 作数は解釈によって異なり、最広義には1969年の『ムーミン』を、日本アニメーションの公式では同社制作の1975年の『フランダースの犬』を第1作と数える。

 《概要》

 これまで約26作(数え方によって異なる)が製作・放送され、日本を代表するテレビアニメシリーズの一つとされている。中でも『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』『あらいぐまラスカル』の3作は、放送終了後もCMキャラクターとしての使用や公認のスピンオフ・パロディ作品が製作されるなど、シリーズの中でも圧倒的な知名度を誇っている。
 音楽面でも渡辺岳夫などの著名な作曲家が多数参加しており、主題歌群も家族向けのアニメソングコンサートなどでしばしば歌われている。
 すべての作品はフジテレビ系列で毎週日曜日の夜19時30分より本放送されていたため、かつてはフジテレビを代表するアニメ番組と認識されていた時期もある。
 また、フジテレビ系列局のない県を中心に、他系列局やクロスネット局で時差ネットされていた県も多い。
 どの作品以後を『世界名作劇場』シリーズに含めるのかは、諸説ある。

 ・シリーズ定着後に原作を持たずに作られた『七つの海のティコ』を例外とし「原作が日本国外の文学作品」という基準で、1969年の『ムーミン』以後の作品を指す。

 ・厳密には例外もあるが「日常を舞台にした作品」という基準で、1974年の『アルプスの少女ハイジ』以後の作品を指す。

 ・日本アニメーションの制作」という基準で、1975年の『フランダースの犬』以後の作品を指す。

 『世界名作劇場』という名前がついたのは1979年放送の『赤毛のアン』からであり、それまでは『カルピスこども劇場』や『カルピスファミリー劇場』という名前がついていた。
 『赤毛のアン』以降は提供がカルピスの一社だけで無くなったためシリーズ名を何度か変更している。
 その後ハウス食品工業が単独スポンサーとなって「ハウス世界名作劇場」と称した時期もあった。
 後にBSフジで新作を放送される際、冒頭にも「ハウス食品世界名作劇場」と冠された映像が付いている。
 なお本項では、日アニが公式にシリーズの総称としており一般的にも認知されている『世界名作劇場』を項目名とした。

 オリジナル作品である『七つの海のティコ』を除けば、本放送時に原作者が既に故人であることが多く、放送期間中に原作者が存命だった作品では『南の虹のルーシー』、『アルプス物語 わたしのアンネット』、『大草原の小さな天使 ブッシュベイビー』、『こんにちは アン 〜Before Green Gables』の4作のみである。

     〔ウィキペディアより引用〕



in the name of ending the war Chord : 08 アインシュタイン=シラードの手紙 ①

2023-08-16 21:00:00 | 日記

 アインシュタイン=
      シラードの手紙 ①

アインシュタイン=シラードの手紙
(アインシュタイン=シラードのてがみ、Einstein-Szilard letter)

 1939年、物理学者アインシュタインからフランクリン・ルーズベルト大統領宛に送られ、アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったことで知られる手紙についてー。
 この手紙に特に定まった呼び名はなくアインシュタインからルーズベルト大統領への手紙(または書簡、信書など)のように説明的に参照されることが多い。
 物理学者レオ・シラードの名が付されることがあるのは、この手紙の作成をシラードが依頼したことによる。

 手紙では、ウランによる連鎖反応が近々実現され、それが強力な爆弾となりうることを指摘した上で、政府の注意の喚起と研究の支援、そして政府と物理学者とを仲介する仕組み作りを訴え、最後にナチス・ドイツの核エネルギー開発を示唆する事実を指摘していた。
 この手紙から8か月後に、エンリコ・フェルミとシラードは政府から資金的援助を受けることとなったが、アメリカ政府がマンハッタン計画によって本格的な原子爆弾開発に取り組むようになるまでには、これ以降3年を要している。
 アインシュタインは晩年この手紙に署名したことへの後悔の念を吐露した。
 この手紙とは別に、1945年3月にアインシュタインはシラードの求めに再び応じてルーズベルト大統領への2度目の手紙として短い紹介状を書いている。
 シラードはこれに付随するものとして日本に対する原爆使用の懸念と、それによる戦後の核開発競争への懸念が表明された覚え書きを執筆したが、ルーズベルトの急死によりそれが読まれることはなかった。

 《手紙の内容》

 本文500語ほどの2ページからなる手紙は1939年8月2日の日付を持ち、その本文は以下のようなものであった。

 閣下、 原稿として私のところへ送られてきました E・フェルミと L・シラードによる最近の研究は、ウラン元素が近い将来、新しい重要なエネルギー源となるかもしれないという期待を私に抱かせます。
 このことによりもたらされる状況のある点は、注意深く見守り、必要とあらば、政府当局による迅速な行動を起こす必要があるものと思われます。
 よって、以下の事実と提案とに閣下のご注意を促すのが私の務めであると考えるものです。
 過去4か月の間に、フランスのジョリオ、またアメリカのフェルミとシラードの研究によって、大量のウランによる核連鎖反応が有望なものとなってきました。
 このことによって、極めて強い力と、ラジウムに似た大量の新元素とが生成されるでしょう。
 これが近い将来に成し遂げられるのは、現在、ほとんど確実なことであると思われます。

 またこの新たな現象は爆弾、それも、あまり確かとは言えないのですが、考えられることとしては極めて強力な新型の爆弾の製造につながるかもしれません。
  船で運ばれ港で爆発すれば、この種の爆弾ひとつで、港全体ならびにその周囲の領域を優に破壊するでしょう。
 ですが、また、こうした爆弾は航空機で運ぶにはあまりに重過ぎることがわかるかもしれません。
 合衆国には、ほどほどの量でごく貧弱な質のウラン鉱石しかありません。
 カナダと旧チェコスロバキアにはいくつかのよい鉱石がありますが、最も重要なウランの供給源はベルギー領コンゴです。
 この状況に照らして、閣下は、政府と、アメリカにおいて連鎖反応を研究している物理学者のグループとのより継続的な接触を保つことが望ましいとお考えになるかもしれません。
 これを達成するための、ひとつのありうる方法は、閣下の信頼にたる、そしてまたおそらくは非公式な地位で働くことのできる人物にこの仕事を託すことでしょう。
 この人物の仕事は以下のようなものとなるでしょう。

 a) 今後の開発の情報を政府機関へ逐次伝え、また合衆国へのウラン鉱石の供給を保障する問題に特に注意しつつ、政府の施策に対しての提案を行い、政府機関への接触すること。

 b) もし資金が必要なら、この目的に貢献しようと望む民間人との接触を通じてその資金を供給することにより、またおそらくは適切な設備を持つ企業の研究所の協力も得ることによって、現在、大学研究室の予算の制限内で行われている実験研究の速度を上げること。

 私の知るところでは、実際ドイツは、ドイツが接収したチェコスロバキアの鉱山からのウランの販売を停止しています。
 こうした、いち早い行動をドイツが取ったことは、おそらくはドイツ政府の外務次官フォン・ヴァイツゼッカーの子息が、現在ウランに関するアメリカの研究のいくつかを追試しようとしているベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に所属していることを根拠として理解できるでしょう。

 ここで本文中にある、フェルミ、シラード、およびフランスのジョリオ(ジョリオ=キュリー)の研究とは、ウランの中性子による核分裂の発見を受けて、1939年3月に相次いでこれら3者のグループで行われたウランの二次中性子放出の発見を指しており、この発見によってウランの連鎖反応の実現が一歩現実のものへと近づいていた。
 シラードはこのことがドイツに知られるのを遅らせるため実験結果を秘密にするように活動したが、ジョリオ=キュリーが拒否してネイチャー誌で公表し、手紙にあるようにドイツは直後にウラン輸出を禁止していた。
 こうしてこの当時、この事実は科学者の会議で公に語られ、ウランが都市ごと壊滅させるような強力な爆弾となりうるということは、新聞等で一般にも知られた事実となっていた。
 また、この手紙では爆弾が航空機で運べないであろう非常に大きなものとなるかもしれないと想定されている。
 これはシラードらが減速材を含んだ低速中性子による天然ウランの連鎖反応を考えていたことによる。
 シラードがこの時点で案じていたこうした原子炉のような連鎖反応では、実際には大きな爆発は起こらないことが後に明らかとなっている。
 しかし、後の1942年にウラン同位体の濃縮が工業的規模で可能であると考えられるようになったことと、高速中性子でそうした濃縮ウランが爆発的連鎖反応を起こすことがわかったことで、小型のウラン爆弾が可能とみなされるようになった。

 なお、最後の節で言及されているドイツの外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーの息子は、実際ドイツにおいてハイゼンベルクらとともに連鎖反応の研究に携わっていたカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを指している。
 ただし、ジョリオ=キュリーの論文によって実際にドイツ政府に警告を行ったのは別の人物であった。
 シラードらがこの手紙で政府に最も強く求めたこととは、情報を政府に与えるとともに、資金を融通するため政府と自分たち科学者グループとの接点となる人物を政府が置いてくれることであった。
 歴史ジャーナリスト、リチャード・ローズは、大統領へ手紙を渡す仲介者となるアレクサンダー・ザックス(リーマン・ブラザーズ副社長)への手紙の中でシラードが暗に自分がその役を引き受けることをほのめかしているとし、またこうした提案は「大胆であるのと同じように、アメリカの官僚政治に関して無知なものだった」と評している。

 《経緯》

 著名なアインシュタインが関わったこの手紙は、アメリカ政府の原子爆弾開発計画であるマンハッタン計画の最早期の引き金として有名である。
 しかし、その手紙の作成とその後のマンハッタン計画の開始までの経緯は複雑なものであった。

 ▼ハンガリー陰謀団

 中性子による原子核の連鎖反応によって莫大なエネルギーを解放するというアイデアと、それによる核戦争の危機に最も早く気づいたのはシラードであり、実験的にウランからの複数の二次中性子が確認された1939年3月のおよそ6年前、彼がナチス・ドイツから亡命して間もない1933年であった。
 ナチスが原爆を保有することを恐れたシラードは、やがてそれに対抗するためにはアメリカが先に原爆を保有するしかないと考え、それ以来、一刻も早い連鎖反応の実現を急いでいた。
 天然ウランを用いて、放出される二次中性子を連鎖反応として維持するためには、中性子をあまり吸収せずに速度をさげる適切な減速材を見つけ出すことが必要であった。
 コロンビア大学のエンリコ・フェルミとともに連鎖反応の実現に向けて研究を続けていたシラードは、1939年7月ごろには黒鉛を減速材とすることが有望であると考えるようになっていたが、それを実証する実験のための資金は不足していた。
 これに先立つ5月には、シラードらはすでにアメリカ陸軍と海軍に資金援助を募っていたものの果たせずに終わっていた。
 このころ、いずれもハンガリー生まれの亡命物理学者であったシラード、ユージン・ウィグナー、エドワード・テラーの3人はこの連鎖反応がもたらしうる未来を度々議論していた。
 この3人はアインシュタインへ手紙を依頼したことにより後にハンガリー陰謀団と冗談めかして呼ばれることになる。
 こうした話し合いの中で、ウィグナーは特にこの問題をアメリカ政府へ早急に訴えることが必要だと主張し、このため資金の調達も含め政府との橋渡しとなる人物探しが行われることとなった。
 また、ベルギー領コンゴで採掘されている良質のウランがナチスの手に渡ることへの懸念も表明された。
 ウィグナーは後に「核兵器が開発されたなら、いかなる2つの大国も、それらを統べる上位の権威機関によって軍事力がコントロールされない限り平和を保つことはできなくなると我々は悟り、もしそれが核戦争を廃絶するほど十分有効なものとなるなら、あらゆる形の戦争をも根絶するのに有効なものとなるだろうと期待した」とし「この期待が、敵の原爆の犠牲となる恐怖と同じぐらいに強く自分たちを駆り立てた」のだと当時の動機について語っている。
 シラードとウィグナーはドイツ時代にアインシュタインの教え子であったことがあり、特にシラードはアインシュタインの家を度々訪ね、連名で発明の特許を取得するなど深い付き合いをしていた。 
 こうしたことから、シラードはアインシュタインがベルギーのエリザベート王太后と面識があることを知っていた。
 こうして、ロング・アイランドの別荘へアインシュタインを訪ね、コンゴのウラン鉱石の問題に関してエリザベートへ警告してもらうことが提案された。

 ▼手紙の作成

 エリザベートへの手紙を依頼するため、1939年7月16日にウィグナーとシラードは車でアインシュタインの別荘へ向かった。
 別荘はロング・アイランドの東端に近い入り江に突き出た岬の付け根近くにあったが、さんざん道に迷い、多くの人に通りの名を尋ねたものの誰もその通りを知らなかった。
 ようやくたどり着けたのは、地元の子供にアインシュタインの家を知っているかと直接尋ねた後だった。
 彼らを軽装で迎えたアインシュタインは、シラードに説明を受けたこのとき初めて連鎖反応について理解することになった。
 彼は話の途中ドイツ語で「そんなことは考えてもみなかった!」と叫んだという。

 シラードによれば、アインシュタインは王太后の代わりにベルギーの内閣閣僚となっていた知人への手紙ならば書くことを約束した。
 ウィグナーはまずそれをアメリカ政府へ送り、添え状をつけるべきだとし、そのことも合意された。
 このときアインシュタインがドイツ語で口述した草稿が、その後いく度もの改訂を経て最終的にルーズベルト大統領宛の手紙となることになる。

 シラードがアインシュタイン邸から戻ってきてみると、アメリカ政府への接触の試みによって、フランクリン・ルーズベルトの選挙で演説原稿を書いたことのある経済学者アレクサンダー・ザックス (Alexander Sachs) がシラードに会うと告げてきていた。
 数日後、シラードとテラーはこのザックスと面会した。
 シラードの話を聞いた上でザックスは大統領に伝えるべきであるとし、手紙を自らが大統領に渡すと約束した。
 この大胆な提案にシラードとテラーは乗り気となり、元々ベルギー宛であったアインシュタインの草案を元として、シラードがルーズベルト宛へと書き換えた第2の草案が7月19日にアインシュタインへと送られた。
 アインシュタインは大統領宛となったこの手紙を送ることに快く応じたものの、この草稿をもう一度検討したいと返答し、7月末ごろシラードとテラーが再びロング・アイランドの別荘へと向かった。
 免許のなかったシラードを車に乗せたテラーは後に「私はシラードの運転手として歴史に名を残した」とこのときの経験を述べている。
 こうしてアインシュタインとシラードとの相談によって3つ目の草案が作成された。
 このときアインシュタインは「うん、そうだ。
 これではじめて、人類が核エネルギーを〔太陽からの〕間接的なものじゃなく直接に解放することになるぞ」と言ったという。
 シラードは再びザックスと会い、この草案を読んだザックスとの相談によって、政府と科学者との仲介者の役割をよりはっきりさせた長い文案も作成された。
 これら英訳された長短2つの文面が最終案として8月2日にアインシュタインに送付された。
 アインシュタインは両方に署名した上で長い方が良いと思うと書き添え、8月9日までにシラードに返送している。
 またあまり賢くやろうとせず大胆にやれという趣旨のことが付記されていた。
 シラードらには、はたして大統領への仲立ちとしてザックスが適任かどうか疑問があったものの、シラードは大統領に渡せない場合は返送して欲しいと付け加え、アインシュタインが署名した長い方の手紙が、8月15日にザックスへと手渡された。

 ▼ウラン諮問委員会

 9月1日ドイツが電撃的にポーランドに侵攻し、遂に第二次世界大戦が開始された。
 ルーズベルトに十分な時間を取ってもらう必要を感じ、直接の面会にこだわったザックスは、この急激な展開にはばまれ、いまだ手紙を届けることができていなかった。
 ひと月以上ザックスから何も連絡がないことにしびれを切らしたシラードとウィグナーは、9月末にザックスを訪問しそのことを知った。
 シラードらがザックスによる仲介を諦め他の手段を考え出した中、10月11日になってようやくザックスはホワイト・ハウスの大統領執務室の扉をノックした。
 ルーズベルトとの面会においてザックスは、ナポレオン・ボナパルトが夢想家と呼んでアメリカへ追い返したフルトンの蒸気船の話を例えに出し、アインシュタインの手紙を読む代わりに自らの用意した短い文書を読んで原子力のもたらす両義的可能性と重要性を説明した。
 ルーズベルトは「つまり君が望んでいるのは、ナチスが我々を吹き飛ばさないようにしようということだね」と応じ、この会見によって、国立標準局の局長ライマン・ブリッグズ (Lyman J. Briggs) を委員長とし陸海軍の兵器の専門家を含むウラン諮問委員会 (ウラニウム諮問委員会、Advisory Committee on Uranium, 単にウラン委員会、ウラニウム委員会とも) が設けられることとなった。
 これは、民間の資金を工面し政府との連絡役となる非公式の人物というシラードらが思い描き、手紙に記したものとは程遠いものだった。

 10月21日、これらのメンバーと、ハンガリー陰謀団の3人シラード、ウィグナー、テラー、およびブリッグズが招いたカーネギー研究所地磁気研究部の物理学者リチャード・B・ロバーツ (Richard B. Roberts) などからなるメンバーで第1回のウラン諮問委員会が開かれた。
 この地磁気研究部ではシラードらとは別にしばらく前から連鎖反応の評価を進めていた。
 シラードの説明に対し、ロバーツは天然ウランによる連鎖反応は有望でなく、自分たちが進めている高速な遠心分離機によるウラン濃縮の結果が明らかとなるまで数年は大学での研究レベルに留めておくべきだと主張した。
 また陸軍の代表は新兵器で防衛の役に立つなどと考えるのは素人であり「兵器は戦争の行方を決めたり歴史を作ったりするものではなく、一般市民の精神を通して戦争の勝利はもたらされるのだ」とした長い演説を始めた。
 ウィグナーはこのとき「それが正しいのなら、おそらく陸軍の予算を 30 % 削減して、その素晴らしい一般市民の精神を広めるべきでしょう」と皮肉で応酬している。
 結果としてこのウラン諮問委員会は、主に潜水艦の将来の動力源として核エネルギーの可能性に言及する大統領への報告書を提出するに終わった。
 しかし同時に、爆弾の可能性にも言及し「徹底的な調査のための適切な支援」として黒鉛の減速材としての有効性を確かめる当面の実験に必要な 6000 ドルがフェルミのグループへ与えられることが約束された。
 だが、この勧告はその後およそ半年の間、ホワイト・ハウスのファイルの中で忘れられたままとなり、その間フェルミとシラードの研究は立ち往生することとなった。
 第2回ウラン諮問委員会 編集 フェルミらへの黒鉛購入のための資金提供の約束がなかなか果たされなかったため、シラードは黒鉛による連鎖反応に関する論文を執筆し、それを公開するかどうか政府に判断を仰ぐという形で揺さぶりをかけようとした。
 委員会から4か月以上たった1940年3月7日、シラードはアインシュタインに会いに行き、再び手紙を依頼した。
 この手紙はザックス宛のものであったが、ザックスを介して大統領に転送された。
 この手紙では、ドイツにおいて核開発が組織的に進展している様子とシラードの論文の問題を記し、大統領への取次ぎの判断を仰いでいる。
 大統領は2回目のウラン諮問委員会の開催を指示し、委員会は4月27日に招集された。
 これによってフェルミとシラードは約束の 6000 ドルを手にし、黒鉛が中性子を吸収する度合いである捕獲断面積を測定した。
 結果は極めて小さく、それは黒鉛を減速材とした天然ウランでの制御された連鎖反応が実現可能であることを示していた。
 この後、ウラン諮問委員会は科学研究開発局 (Office of Scientific Research and Development, OSRD) の S-1 ウラン委員会 (S-1 ウラニウム委員会、S-1 Uranium Committee, S-1 は第1課 Section One の意) に引き継がれることとなり、1940年秋にはさらに4万ドルがフェルミのいるコロンビア大学に与えられた。

   〔ウィキペディアより引用〕