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in the name of ending the war Chord : 09 マンハッタン計画①

2023-08-21 21:00:00 | 日記

 マンハッタン計画①

 マンハッタン計画
 (マンハッタンけいかく)
 (英: Manhattan Project)

 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。
 計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。
 さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。

 科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。
 大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。
 なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。
 最初は「代用物質開発研究所 (Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名されたが、これを知った(後にプロジェクトを牽引することになる)レズリー・グローヴスが、その名称は好奇心を掻き立てるだけであるとして新たに提案したのが採用されたものである。

 《歴史》

 ▼背景

 ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。
 この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。
 なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。
 ルーズベルトは、国立標準局長官リーマン・ブリッグズに命じてS-1ウラン委員会を設け、シラードが提案した問題を検討した。
 ブリッグズは1939年10月21日にシラード、ユージン・ウィグナーとエドワード・テラーとの初めての会合を開いた。 
 11月1日に、諮問委員会は大統領宛の報告書を作成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始することを報告した。
 しかし、「もしその(ウランの)反応が爆発性のものならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破壊力をもった爆弾になろう」と付け加えた。

 ブリッグズは合衆国防衛研究委員会 (NDRC) に対して、ウランと当時発見されたばかりのプルトニウムの研究に16万7000ドルの支出を要求した。
 しかし当初はルーズベルトは関心を示さず、そのまま委員会は中断した。
 1939年6月、イギリスでは、バーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見を成し遂げた。
 2人の計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だと見積もられた。
 オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、後にガンバレル方式と呼ばれる単純な兵器の機構と、ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告の2つのレポートを書き、バーミンガム大学物理学科主任のマーク・オリファントを通じてイギリス防空科学調査委員会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティザードへ送った。
 これにより、1940年5月には、MAUD委員会と呼ばれるウラン爆弾の実現可能性を評価する委員会が組織された。
 委員会によって起草された調査報告書は、1941年10月に合衆国政府に伝えられた。
 それによってアメリカ人物理学者が認識していなかったウラン爆弾の実現可能性が示された。

 ▼着手

 1942年10月、ルーズベルトはアメリカ国防研究委員会 (NDRC) 議長のヴァネヴァー・ブッシュと副大統領ヘンリー・A・ウォレスとのミーティングで、核兵器開発プロジェクトを承認した。
 ルーズベルトはプロジェクトの管轄を、海軍ではなく大規模なプラント建設に慣れている陸軍に行わせた。
 また、ルーズベルトはイギリスとの協力体制についても同意し、10月11日にはイギリスの首相ウィンストン・チャーチルに書簡を送った。
 プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。
 責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。

 《プロジェクトの場所》

 ▼オークリッジ

 マンハッタン計画が決まった翌日、グローヴス准将とジョージ・マーシャル大佐は提案されていた土地の調査のため汽車でテネシー州に向かうと、グローヴス准将はその土地に好印象を持った。
 1942年2月、グローヴス准将は、ウラン精製工場と計画の司令部を設置するために、テネシー州東部クリンチ川沿いのオークリッジの土地を取得した。
 取得した土地の面積は56,000エーカー (23,000 ha) に上る。
 米陸軍は、原爆製造に必要なウラン精製工場をオークリッジに建設した。
 土地の取得費用、350万ドルは、9月29日にアメリカ合衆国陸軍次官のロバート・ポーター・パターソンによって承認された。
 追加の3,000エーカー (1,200 ha) も後に取得された。
 10月7日に発せられた土地の取得によって影響を受けた家族は1,000以上に上る。
 抗議も懇願も1943年の議会による審問も何の抗力も成さなかった。
 11月中旬、連邦保安官は農家の家屋のドアにも退去の告知を貼り、建築請負人はここに転居してきた。
 いくつかの家族は1920年代にグレート・スモーキー山脈国立公園または1930年代にノリス・ダムの建設のために退去し、ここに落ち着き何世代にも受け継がれてきた家と農場からの退去に2週間の猶予を与えられた。
 1945年3月まで支払いが終わらなかったこの土地の買収価格は、想定価格は1エーカーにつき47ドルであったが合計たった260万ドルであった。
 オークリッジ全体が軍の許可なく誰も入ることができない排除区域となるという公共布告第2番が発せられた時、テネシー州知事プレンティス・クーパーは怒ってその布告書を破り捨てた。

 最初はキングストン・デモリション・レンジと呼ばれていたが、1943年初頭、公式にクリントン・エンジニア・ワークス (CEW) と名付けられた。
 ストーン・アンド・ウェブスターは製造施設の集約を可能にするため、13,000人もの住宅地域は建築技術会社のスキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリルにより計画および建設された。
 この町は後にオーク・リッジと名付けられる元のブラック・オーク・リッジの丘の上に位置していた。
 1943年8月、マンハッタン技術者地域の長がマーシャルからケネス・ニコルスに替わると軍が占める地域は広がっていった。
 彼の最初の任務の1つはこの地域の本部をオーク・リッジに移転することであったが、名称は変えなかった。
 1943年9月、町の施設の管理を、オーク・リッジがあるアンダーソン郡とローン郡によるローン・アンダーソン・カンパニーとして知られる子会社を通してターナー・コンストラクション・カンパニーに外注した。
 最初の工場ができると全米から労働者が集められ、人口は増大し、1945年5月にクリントン・エンジニア・ワークスに82,000名、ローン・アンダーソンに10,000名が雇われた時、最大の75,000名となった。
 オークリッジの4つの施設にはX-10、Y-12、K-25、S-50というコードネームを与えられた。
 X-10サイトは後にオークリッジ国立研究所となり、Y-12サイトはY-12国家安全保障複合施設(en:Y-12 National Security Complex)として現存している。
 のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆の町)、シークレット・シティ(秘密都市)と呼ばれるようになった。

 ▼ロスアラモス

 計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイマーである。
 オッペンハイマーの提案で研究所はニューメキシコ州ロスアラモス(サイト Y、後のロスアラモス国立研究所)に置かれることが1942年11月に決定した。
 彼を研究所長に、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などが集められた。
 当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする、数学の優秀な高校生も集められた。
 その他、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなどが協力した。

 ▼ハンフォード

 プルトニウムの生産場所としてオークリッジは不適切であった。
 オークリッジは人口密集地であるノックスヴィルに近く、予期しない事故が起こった際に市街地へ放射性物質が降り注ぐ危険があったためである。
 グローヴズ准将は、建設監督となるデュポン社の民間技術者を雇用し、プルトニウム工場用地を管理する将校と一緒に土地の査定を行わせた。
 プルトニウムの生産には多量の水と電気が必要とされるため、ワシントン州南央のコロンビア川沿いの盆地が候補に上がった。
 1943年1月末に、そこの20万ヘクタールが510万ドルで取得され、ハンフォード技術工場(Hanford Engineer Works: HEW)と名付けられ(後のハンフォード・サイトで米国で最大級の核廃棄物問題の箇所)、サイトWというコードネームが与えられた。
 工場の建設に当たった労働者は最終的には5000人にのぼる。
 陸軍による地主に対しての農作物に対する補償額が争点となり、ハンフォードでの土地の取得計画は難航した。
 一部の土地は終戦後のマンハッタン計画終了までに完了しなかった。
 用地買収の問題はあったものの、工場建設は進められ1943年4月に工場は稼働を開始した。
 当初そこで働く労働者はおよそ25000人であり、その半数は工場内のバラックに住んでいた。

 ◆計画に参加した組織等

 ロスアラモスの他にもシカゴ大学冶金研究所やカリフォルニア大学バークレー校など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、米国以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加している。
 またデュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の大企業も参画している。
 この計画に対しては多額の資金(当時の額面で19億ドル)が投入された。

 《開発》

 マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというグローヴスの方針には自由な研究を尊ぶ科学者からの反発も強かった。
 ウラン濃縮には電磁濃縮法が使用された。当時、戦略物資として銅の使用が制限されていたので国立銀行から銀を借りて電磁石のコイル用線材に用いた。
 銀は銅に比べ電気抵抗が少なく、多少なりとも発生磁力向上と消費電力削減に貢献した。

 ▼フランクレポート

 1945年3月、連合国によりドイツが原爆を開発していない確証が得られると、ジェイムス・フランクやレオ・シラードらは、フランクレポートの提出など、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。

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 フランクレポート
 (Franck Report)

 1945年6月11日にシカゴ大学に設けられた7人の科学者による委員会が、原子エネルギー、特に原子爆弾の社会的、政治的影響を検討して大統領の諮問委員会に提出した報告書である。
 報告書では、戦後の核管理体制実現の重要性とともに、日本に対する原子爆弾の無警告での使用に反対していたが、提議は拒絶された。
 正式なタイトルは『政治的・社会的問題に関する委員会報告』(Report of the Committee on Political and Social Problems) であるが、委員会の委員長ジェイムス・フランクの名をとって、フランクレポートもしくはフランク報告と呼ばれている。

 ◆内容の概略

 報告書は5000語弱、5つの節からなり、はじめに、マンハッタン計画に参加した科学者という特殊な立場にいることによって「残りの人類はまだ気づいていない深刻な危機を知った少数の市民の立場にある」ためここでの提案を促すことが、他の人々への自らの責任であるとする。
 その上で報告書は科学的知見に基づいて戦後に訪れるであろう世界予測を行う。
 そこでは、基礎的科学知識が共有され、またウランも独占はできないため、どんなに機密性を保持したとしてもアメリカの優位が「数年以上我々を守り続けることができると望むのはばかげたことである」として、核兵器のアメリカによる独占状態も長くは続かないだろうとした。
 また核兵器にはそれを防ぐ有効な手段を提供できず、結局、核戦争の禁止協定のような国家間の国際的合意を行うことのみが戦後の核開発競争と核戦争の危険を防止できるとした。

 報告書はこの国際的合意の締結のために、「核兵器を世界に向けて初めて明らかにする手段が大きな、おそらくは運命的な重要性を帯びる」とする。
 こうした合意を行うためには相互信頼が重要であるにもかかわらず、日本に対する予告なしの原爆使用は他国からの信頼を失い、国際的な核兵器管理の合意形成が困難になるであろうとしている。
 それに代わって報告書では、無人地域でのデモンストレーション実験を行うこと、もしくは爆弾を使用せずできるだけ長くそれを秘匿しておくことによって、核兵器の国際的な管理体制を作り上げるよう訴えている。

 ◆経緯

 第二次世界大戦中のアメリカの原子爆弾製造プロジェクトであるマンハッタン計画において、シカゴ大学にあった冶金研究所 (Metallurgical Laboratory, Met Lab) は原子炉の作成とそれによるプルトニウムの生産の実証を担っており、計画初期において重要な役割を果たした。
 ただし原爆に使用される大規模なプルトニウムの生産と精製とは、これとは別にデュポン社がワシントン州のハンフォード・サイトで行うこととなっていたため、ハンフォードの施設が軌道に乗り始めるとともにシカゴの科学者たちには時間的余裕が生ずることになった。
 当初、機密性の保持の問題から、原爆のもつ政治的・社会的意味を科学者間でおおっぴらに議論することは難しかったが、1945年春になると、ナチス・ドイツが原爆を作成していないことが明らかとなり、またその敗北も時間の問題と思われるようになったため、こうした空気は実質的に和らぐことになった。
 こうした条件下で、冶金研究所の科学者の中から原爆が日本に対して使われることに対する懸念が表明され始めることになった。
 とりわけ最も活動的であったレオ・シラードは5月末に後の国務長官ジェームズ・F・バーンズを訪問して持論を展開するなどした。

 一方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、1945年5月に戦時および戦後における核エネルギーに関する諸事項を議論するため、暫定委員会と名づけられた秘密の委員会を組織していた。
 冶金研究所を統率していた物理学者アーサー・コンプトンはこの委員会の4人の科学顧問団 (Scientific Panel) の一人であった。
 コンプトンは冶金研究所内で高じてきた混乱を納めるため、6月の始めに研究所の科学者からなるいくつかの委員会を組織し、その報告書を科学顧問団で討議した結果を暫定委員会に報告することを約束した。
 このうちジェイムス・フランクを委員長とし、爆弾の政治的・社会的影響を議論し報告する委員会がフランクレポートを作成することとなった。
 この政治的・社会的問題に関する委員会、通称フランク委員会のメンバーは全7名であり、フランクの他は、ドナルド・ヒューズ (Donald J. Hughes)、ジェイムス・ニクソン (James J. Nickson)、ユージン・ラビノウィッチ、グレン・シーボーグ、J.C. スターンズ (J.C. Stearns)、そしてレオ・シラードから成っていた。

 報告書はコンプトンがシカゴを去る6月14日までに準備せねばならなかった。
 委員長のフランクは報告書の草稿の執筆をドイツ時代からの同僚であり英語の文書記述にも長けたラビノウィッチに依頼し、自らの一枚の走り書きを手渡した。
 当初こうして完成した草稿は、ほぼ核エネルギーの管理の問題だけを扱ったものであった。
 この草稿を読んだシラードは、ラビノウィッチに対して原爆の無人地域でのデモンストレーションを行いそれを他国の代表に公開すべきと議論した節を挿入するよう働きかけた。
 ラビノウィッチは後にこのときのことを「この問題について議論するため、ミッドウェイ〔シカゴ大学構内を抜ける大通り〕をレオ・シラードと何時間も行き来し、〔そして〕ことによると機密の壁を破り、自分たちの政府によって成されようとしていることをどう思うかを、そしてそのことに我々は賛同するのかどうかをアメリカの人々が判断できるようにするべきなのかどうかと自問しながら眠れない夜を過ごした」と述懐している。
 こうして短い期間の内にフランクの名とラビノウィッチの文章とシラードのアイデアを盛り込んだ報告書が完成した。    
 フランクは6月11日の日付のあるこの報告書を携えてワシントンD.C.行きの列車に乗り、暫定委員会の委員長スティムソン長官のオフィスへと直接届けている。

 フランク以下の科学者が知るところではなかったが、暫定委員会では5月31日にすでに原爆の使用方法の問題を議論し、爆弾を日本の都市に対して無警告で使用するという決定が下されていた。
 その後届けられたフランクの報告書がどの程度の影響を及ぼしたのか詳しいことについては意見が分かれているものの、6月16日にコンプトンと、アーネスト・ローレンス、ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミからなる科学顧問団の会合が開かれ、そこではデモンストレーションを求める意見が一部の科学者の間にあるとした上で「我々は戦争の終結をもたらしそうな技術的デモンストレーションを提案できず、直接の軍事的使用以外の受け入れ可能な代替案は見出せない」と結論付けられた。
 この科学顧問団の報告は6月21日の暫定委員会で議論され、フランクレポートの提案は拒絶されることになった。
 科学顧問団の一員のオッペンハイマーは後にデモンストレーションについて「あの当時構成されていた日本政府、反戦派と好戦派に分断されていた政府が、高々度で爆発させ、わずかしか被害を与えない巨大な核の爆竹に影響されることになったかどうか自問してみれば、答えは誰でも自分と同じようなものになるだろう。
 分科学顧問団の一員のオッペンハイマーは後にデモンストレーションについて「あの当時構成されていた日本政府、反戦派と好戦派に分断されていた政府が、高々度で爆発させ、わずかしか被害を与えない巨大な核の爆竹に影響されることになったかどうか自問してみれば、答えは誰でも自分と同じようなものになるだろう。」と述べている。
 また暫定委員会の委員で大統領特別代表であったバーンズは、あらかじめ標的を告げれば捕虜をそこにつれてくるかも知れず、またあらかじめ警告しても爆弾が失敗すれば日本の軍国主義者を安心させ、その後は降伏を含めどんな勧告も力を持たなくなるだろうと、警告を与えるべきでないとした理由について回想録で述べている。

 シカゴの委員会の科学者には何らの返答ももたらされず、強い無力感を残すことになった。 ラビノウィッチは、このときみなに共有された感情を「自分たちが防音壁のようなものに囲まれており、ワシントンに手紙を書いても誰かに語りかけても何らの反応も戻ってこない」ようだと表現し、「ミシガン湖に報告書を投げ入れてしまってもよかった」と感じたと後に語っている。
 こうして7月になってもフランクやラビノウィッチはなおも返答を待ち続けたが、シラードはその後も原爆の直接使用に反対する活動を継続し、大統領に宛てた請願書に署名を集めるなどした。
 しかし結局、8月6日に広島、次いで9日には長崎にも原爆投下されることになった。
 フランクレポートは日本への原爆の直接の投下と戦後の核軍備競争を防ぐことはなかったが、雑誌『原子力科学者会報』を発行し、またパグウォッシュ会議の実現に尽力したラビノウィッチをはじめ、この活動は戦後の科学者による核軍備競争に対する政治的・社会的活動のひとつのきっかけを作ることとなった。

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   〔ウィキペディアより引用〕




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