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Wonder To Oneself ♯003

2023-08-18 21:00:00 | 日記

 ■橋田壽賀子と向田邦子のドラマによる ひとつの考察 ー 理想家族 ー

 この二人のどういう人なのかを紹介させて貰います。

 先ずは、向田邦子氏の場合
から。

 向田 邦子(むこうだ くにこ)
 (1929年(昭和4年)11月28日〜1981年(昭和56年)8月22日)
 日本のテレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞を受賞。

 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。
 共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。
 父親の転勤で全国を転々とするが、本人は鹿児島時代が文学の原点と語った。
 実践女専国語科を卒業後、映画雑誌の記者を経て、ラジオ・テレビの台本・脚本を書く。
 『七人の孫』『寺内貫太郎一家』等、自分の実感をもとに庶民の生活を温かくかつその暗部をも描いて「ホームドラマの旗手」といわれた。
 1980年、短編連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』(後に作品集『思い出トランプ』に所収)で直木賞受賞。

 《略歴》

 1929年(昭和4年)、東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)に生まれる。
 父親は高等小学校を卒業したあと第一徴兵保険(東邦生命保険。現、ジブラルタ生命保険)に給仕として入社し、そこから幹部社員にまで登りつめた苦労人。 
 なお転勤族であったため一歳で宇都宮に転居したのを初めとして、幼少時から高等女学校時代まで日本全国を転々としながら育つ。
 香川県の高松市立四番丁小学校卒業、東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現・実践女子大学)国語科卒業。
 新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。
 その後雄鶏社に転職し、「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。
 そのころ市川三郎の元で脚本を学び、シナリオライターを目指した。
 雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活躍する。
 ホームドラマ作品の脚本家として現在も知名度は高く、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』といった人気作品を数多く送り出した。
 1970年代には倉本聰・山田太一と並んで「シナリオライター御三家」と呼ばれた。
 1981年(昭和56年)8月22日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。
 享年51。
 法名は、芳章院釋清邦大姉。
 墓所は東京都府中市の多磨霊園。

 墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る 久彌」。遺品はかごしま近代文学館に寄贈され、常設展示されている。
 寄贈を決めた時の母・せいの言葉は「鹿児島に嫁入りさせよう」であった。

 代表作でもある向田邦子作品、TVドラマ『だいこんの花』
 《ストーリー概要》

 元海軍大佐で巡洋艦「日高」(架空の船名で実在しない)の艦長も務めた永山忠臣(森繁久彌)、早くに妻・繁子(加藤治子)亡くしてからは一人息子・誠(竹脇無我)男手ひとつで育て上げた。
 忠臣は妻を「だいこんの花のような、素朴だが美しく控えめな人だった」と常々語り、結婚適齢期になった誠にも「妻を娶るならだいこんの花のような人を」と口うるさく言うのであった。
 誠の恋愛事情や忠臣の元部下が営む小料理屋の一家とのかかわりを交えつつ、明治世代の頑固親父・忠臣と戦後世代の現代っ子・誠の家族模様を綴る。

 名作『パパと呼ばないで』

 《ストーリー概要》

 独身男の安武右京(石立鉄男)は亡くなった姉の娘、橋本千春(杉田かおる)を引き取り、中央区佃の米屋・井上精米店の2階に下宿を始める。
 子供の扱いがわからず、とまどう右京だったが、次第に情が通い、千春はかけがえのない存在になっていく。

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 橋田壽賀子氏の場合

 橋田 壽賀子(はしだ すがこ)
 (1925年〈大正14年〉5月10日〜2021年〈令和3年〉4月4日)
 日本の脚本家、劇作家、タレントである。
 本名:岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)(旧姓:橋田)。
 位階は従三位。
 静岡県熱海市名誉市民。

 1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属される。
 1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー。
 同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出した。
 代表作は『おんな太閤記』、『おしん』、『いのち』、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』、『春日局』、『渡る世間は鬼ばかり』、『橋田壽賀子スペシャル 源氏物語 上の巻・下の巻(光源氏第1部・第2部)』、『おんなは度胸』、『春よ、来い』、『なるようになるさ。』シリーズ、『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』など。

 《経歴》

 日本統治時代の朝鮮・京城で1925年(大正14年)に生誕。
 勉学のため帰国するまでの9年間を朝鮮で過ごした。
 父親は、チタンを産出する鉱山と土産店を営んでおり、母も店に出て忙しく、「オモニ」と呼ばれていた近所の主婦が世話をした。
 大阪府立堺高等女學校卒業後、日本女子大学文学部国文学科入学。
 日本女子大3年生時、空襲で大学が閉鎖。
 大阪へ戻り海軍経理部へ勤めていた時に終戦後を迎える。
 その後「新古今和歌集における<つ>と<ね>の研究」をテーマに卒業論文を執筆し、日本女子大学を卒業。
 この後、東京大学を受験するも失敗。
 学者になる事を諦め同時に受験をしていた早稲田大学第二文学部国文科に入学、その後芸術科に転科の演劇専修に移り、中退。
 女学校時代は文章が苦手だった。
 その当時、日本軍兵隊への慰問文がコンクールで入賞したこともあったが、それは母が壽賀子の名前を使って書いたものであった。
 早稲田大学在学中には学生劇団「小羊座」に入って役者を務めたほか、久板栄二郎の脚本塾に通って演劇の執筆を始めた。
 1949年(昭和24年)、松竹に入社して脚本部所属となり、松竹最初の女性社員となった。
 最初の脚本の仕事は、1950年(昭和25年)公開の映画『長崎の鐘』(監督:大庭秀雄)における新藤兼人の手伝いであった。
 初めて単独で脚本を執筆した作品は、1952年(昭和27年)公開の映画『郷愁』(監督:岩間鶴夫、主演:岸恵子)である。

 1959年(昭和34年)、秘書への異動を拒否して松竹を退職し、独立作家となる。
 ただし、それから3年間ほどはテレビ局へ原稿を売り込みに行っても採用されなかったため、小説や漫画の原作を書くなどした。
 1964年、『袋を渡せば』で作家デビュー。
 同年、東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』の脚本が話題となり、テレビドラマの脚本家として名を高めた。
 東京放送・創立記念日でもある1966年(昭和41年)5月10日(橋田の41歳誕生日)にTBS編成局企画部・課長岩崎嘉一(誕生日の関係で5歳あるいは4歳下)と結婚。
 結婚式の仲人は石井ふく子が務めた。「岩崎は肺腺がんに罹患している」と1988年9月24日に宣告され「自分が癌に罹患している」と夫が知ったら自殺するのではないかと思い「夫には本当のことを言わないでください。お願いします」と懇願する橋田に医師は「では肋膜炎ということに」と渋々答えた。
 翌年元日にNHKの大河ドラマ「春日局」の準備をしていたが岩崎の看病をしながら1年続くドラマの脚本を書き上げる自信がなく、橋田が石井に相談すると「いま番組から降りたら嘉一ちゃんは、自分ががんだって気づくかもしれないよ」と首を横に振った。
 1989年(平成元年)9月、死別。
 晩年の岩崎とは、別荘地として知られる「熱海自然郷」で暮らした。
 橋田は当時を「私は若くして両親を亡くしている。
 一人っ子なのできょうだいもいない。
 そしてたった一人の家族だった夫を、こうして失った。」と回顧している。
 静岡県熱海市で柴犬の「さくら」と暮らし、東京〜熱海間を往復する生活を送った。
 自宅は急峻な玄岳の頂上付近にあり、自動車を自ら運転して往復していた。

 1992年(平成4年)、亡夫の岩崎の遺産などを元手に「橋田文化財団」を設立。    
 理事長に就任し、橋田賞を創設した。
 2014年(平成26年)5月、『女性自身』で、同年4月開始の『なるようになるさ。』第2シリーズの視聴率低迷が主たる理由で脚本家業の引退を示唆していると報じられた。
 橋田本人は同誌の取材に対し、「引退したいですよ。でも、させてもらえないでしょうね」と語った。
 2015年(平成27年)8月20日、フジテレビ『ノンストップ!』のインタビューで「今の俳優さん達、名前も分からない。これじゃ(脚本)書けないから仕事が来ない」「ミステリーとか不倫ものとかばかり。普通のホームドラマが生きられない時代になった」と語り、改めて脚本家引退を示唆したが、その後引退報道に関する週刊女性の取材に対して「お仕事はまったく来ないです。いま、ホームドラマなんかやるところはないですから。私の時代じゃないと思いますよ。でも、引退はしません。また私が書きたいものを書かせてくれるところが出てきたら書かせていただきます。ただ、今はお休みして、充電中です」と引退を否定した。
 同年10月30日、日本政府より脚本家として初(監督作品も存在する脚本家を除く)となる文化功労者に選出されたことが発表された。
 そして2020年10月27日、同じく脚本家として初の文化勲章受賞者に選出されたことが日本政府より発表された。
 2021年(令和3年)2月下旬から、急性リンパ腫の治療のため東京都内の病院に入院。
 3月からは自宅のある静岡県熱海市内の病院に移り、治療を続けた。
 4月3日に自宅に戻り、翌4日9時13分、死去した。
 95歳だった。臨終は同じ熱海に居を構える泉ピン子が看取っている。
 橋田本人の遺志により葬儀は執り行わず同月5日に火葬され、同月9日に両親の墓所がある愛媛県今治市内の寺院と夫・岩崎が眠る静岡県の冨士霊園に納骨された。
 死没日付をもって従三位に叙された。 
 また、長年執筆の拠点を構えた熱海市は、2021年(令和3年)4月10日の熱海市表彰式典で、名誉市民の称号を追贈した。
 2022年6月15日、生前親交の深かった女優の泉ピン子が、火葬場で特別に分けてもらったという橋田の遺骨を、クルーズ船「飛鳥II」から海洋散骨したと報告した。

 《作風》

 「大衆に受け入れられてこそ価値のある作品」という信念のもと、数多くの作品でヒットを飛ばした。
 代表作は『おしん』(1983年〜1984年、NHK)や『渡る世間は鬼ばかり』(1990年〜2019年、TBS)が有名。
 他にも、『おんな太閤記』(1981年、NHK)、『いのち』(1986年、NHK)、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』(1987年〜1989年、TBS)、『女たちの百万石』(1988年、日本テレビ)、『春日局』(1989年、NHK)、『おんなは度胸』(1992年、NHK)、『春よ、来い』(1994年 - 1995年、NHK)、『テレビ、翔んだ!』(1999年、日本テレビ)、『ハルとナツ 届かなかった手紙』(2005年、NHK)、『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』(2010年、TBS)など、数多くの傑作を輩出し、いずれも後世に残る作品を輩出した。
 NHKやTBSの制作作品で脚本を担当することが多く、テレビ東京での仕事はまったくない(これは同局がドラマをほとんど放映しないことも原因している)。

     〔ウィキペディアより引用〕




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 今思うと、二人の“理想家族”は、何だったんだろう。

 “幸せな家庭”を語る、語らないが本筋かも知れない。

 稀に「夢を持つな、目標を持て!」と聞くが、そういう言葉は

 人が夢に関わると儚くなる、と言うが...。

 ■東光寺

  ▼夢の話

 東光寺の本堂には「覚夢殿(かくむでん)」という額が飾ってあります。
 夢から覚める場所、という意味です。

 “夢から覚める”、とはどういう意味でしょうか?

 ーー過去は夢、未来は幻。

 過ぎ去った過去は夢であり、まだ見ぬ先にある未来は蜃気楼のようにあやふやなものである。
 過去も未来も「今」というものに比べれば、とても儚(はかな)いものである。
 覚夢殿の「夢」とは、この「過去」という意味も持っています。
 過去は今さら変えることはできないし、動かすこともできません。
 過去とは自分にはどうにもならないものなのです。

 昔あんなコトがあった。 とても悲しいコトがあった。
 恥ずかしいコトがあった。
 苦しいコトがあった。

 そういう過去を引きずって過ごしても何にもなりません。

 苦しいだけです。

 ここに来たら「早く夢から目覚め、前を向きなさい」と、「過去にこだわるのは止めて、今を進みなさい」と、「覚夢殿」とはそういう意味なのです。

 ◇ 「目覚めよ」とは言っていますが、積極的に過去を捨てる必要はありません。
 大切な過去は心にしっかり仕舞っておきましょう。

 皆さんには過去よりも、もっと大切な、「今」があります。

 今日という日の、「今」を大切にしてください。

 過去は夢、未来は幻ですが、「今」というものは確かに「今」ここに、存在するのです。

 後ろにある過去ではなく、先にある未来でもなく、目の前にある「今」こそを大切にしてください。

 過去の夢にも、未来の幻にも振り回されず、ひとつひとつ、一瞬一瞬を、大切に生きてもらえればと思います。
〔情報元 :


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