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in the name of ending the war Chord : 11 マンハッタン計画③

2023-08-24 21:00:00 | 日記

 マンハッタン計画③

 ▼原子爆弾投下都市の選定経緯

 広島市と長崎市が原子爆弾による攻撃目標となった経緯は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃や焼夷弾爆撃(日本本土空襲)が続けられる中で、以下のようなものであった。
 1943年5月5日の軍事政策委員会で最初の原子爆弾使用について議論がなされ、「トラック島に集結する日本艦隊に投下するのが適当」というのが大方の意見であった。
 1944年11月24日から翌3月9日は通常兵器による空爆第一期で、軍需工場を主要な目標とした精密爆撃が行われた。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。
 ついで、1945年3月10日から6月15日は通常兵器による空爆第二期で以下のような大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃が行われた。

 ・1945年
  3月10日:東京大空襲
  3月12日:名古屋大空襲
  3月13日:大阪大空襲
  3月17日:神戸大空襲

 1945年4月12日のルーズベルトの急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。
 ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。
 4月25日にスティムソン陸軍長官と、マンハッタン計画指揮官グローヴスがホワイトハウスを訪れ、原爆投下に関する資料を提出した。
 しかしこの際トルーマンは、「資料を見るのは嫌いだ」と語ったという。
 1945年4月中旬から5月中旬に、沖縄戦を支援するため九州と四国の飛行場を重点的に爆撃し、大都市への焼夷弾爆撃は中断された。
 このため京都大空襲が遅れた。
 1945年4月27日、陸軍の第1回目標選定委員会 (Target Committee) において以下の決定がなされた。
 これはアメリカ政府に対しては極秘の元に行われた。
 日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。
 東京都区部、横浜市、名古屋市、大阪市、京都市、神戸市、八幡市、長崎市。
 次の17都市および地点が研究対象とされた。
 東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、福岡市、熊本市、長崎市、佐世保市。
  1945年5月10日と11日の第2回目標選定委員会がロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で開かれ、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された。

 1.京都市:AA級目標
 2.広島市:AA級目標
 3.横浜市:A級目標
 4.小倉市:A級目標

 このとき以下の3基準が示された。

 ・直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。

 ・爆風によって効果的に破壊しうるものであること。

 ・1945年8月まで爆撃されないままでありそうなもの。

 1945年5月28日、第3回目標選定委員会が開かれた。
 京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された。

 ・投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。

 ・投下地点は、工業地域の位置に限定しない。

 ・投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。

 これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。
 禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。
 これが目標となった都市に「空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。
 1945年5月29日、目標から外された翌日に横浜大空襲が行われた。
 なお、この横浜大空襲は、第3回目標選定委員会で横浜が目標から外されたから行われたものでなく、横浜に対して通常空襲を行うために、原子爆弾の投下目標から外したものと思われる。
 1945年6月1日、スティムソン陸軍長官を委員長とする政府の暫定委員会は、 原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、 それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
 その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない、と決定した。
 なお原子爆弾投下の事前警告については、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説もあるが、確認されていない。

 この経過の中で、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた。

 ・人口100万を超す大都市であること。

 ・日本の古都であること。

 ・多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。

 ・小さな軍需工場が多数存在していること。

 ・原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。

 しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスティムソン陸軍長官の強い反対にあったことや、戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。
 1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。
 しかし京都への爆撃禁止命令は継続された。
 1945年6月16日から終戦まで、通常兵器による空爆第三期となり、中小都市への焼夷弾爆撃が行われた。
 1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がダグラス・マッカーサー陸軍大将、チェスター・ニミッツ海軍大将、ヘンリー・アーノルド陸軍大将宛に、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。
 同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた。

 新しい指令が統合参謀本部によって発せられない限り、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。 右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。

 1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった。
 1945年7月16日、トリニティ実験。日の出前の早朝5時30分(現地時間、グリニッジ時間:11:29:21 GMT)、アメリカ ニューメキシコ州 アラモゴードから約80Km離れた半砂漠地帯で、グローブス少将など軍関係者やオッペンハイマーを代表とする科学者たちが見守るなか、プルトニウムを使った原子爆弾の爆発実験が極秘裏に行われ、人類史上初めて成功した。
 1945年7月20日、パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された。
 1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスティムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スティムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した。

 1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。
 スティムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう。 (中略)
 満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことが窺える。
 トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「目標は、水兵などの軍事物を目標とし、決して女性や子供をターゲットにする事が無いようにと、スティムソンに言った。
 たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。
 その点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は、軍事物に限られる。」とある。

 1945年7月25日、マンハッタン計画の最高責任者グローヴスが作成した原爆投下指令書が発令される(しかし、それをトルーマンが承認した記録はない)。
 ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた。
 1945年8月2日、第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
 攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった。
 1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された(広島市への原子爆弾投下)。

 1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
 攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった。
 1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された(長崎市への原子爆弾投下)。
 小倉が視界不良であった理由には天候不良のほか、八幡大空襲で生じた煙によるなどの説がある。

 ▼模擬原子爆弾「パンプキン」の投下訓練

 1945年7月20日以降、第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774キログラム、爆薬重量2,858キログラム)の投下訓練を繰り返した。
 すなわち、原子爆弾の投下予行演習である。
 テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
 パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。

 ▼原子爆弾の輸送とインディアナポリス撃沈事件

 パンプキン爆弾による訓練に並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。
 損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。
 また、アメリカ陸軍航空隊(現・アメリカ空軍)のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。
 この原子爆弾の最終組立は、テニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
 このインディアナポリスは、帰路の1945年7月30日フィリピン海で、橋本以行海軍中佐が指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の魚雷によって撃沈されている(インディアナポリス撃沈事件)。
 この潜水艦は、当時、特攻兵器である人間魚雷回天を搭載しており、回天隊員から出撃要求が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労・低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。
 そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」と白墨(チョーク)で記された。
 インディアナポリス艦長チャールズ・バトラー・マクベイ3世大佐はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。
 第二次世界大戦後、米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスがテニアン島への往路に撃沈されていれば、1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。

 ▼日本の対応

 1945年当時、大本営と大日本帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン島方面のB-29部隊について、主に電波傍受によってその動向を24時間体制で監視していた。
 大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、進出してきたB-29の中の一機が飛行中に長文の電報をワシントンに向けて打電したこと(このようなことは通常発生しない)、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的にV400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり、第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、東京都杉並区にあった陸軍特殊情報部(現在、高井戸にある社会福祉法人浴風会本館内)では新部隊の進出を察知していた。
 その後1945年6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機または2、3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。
 しかし、これらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマンの演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった。
 だが、事態が判明した後の長崎原爆投下を阻止しようとしなかったのかについては不明で、付近に当時日本軍の最新鋭機の一つである紫電改を装備した第三四三海軍航空隊が待機していたのに関わらず、海軍が部隊に出撃命令を下さなかったのかについては帝国陸軍中央特種情報部の高官が情報を握りつぶし、情報が海軍へ伝えられなかったからだと当時の関係者はインタビュー[要文献特定詳細情報]で答えている。

 そもそも、日本軍は当時日本でも原子爆弾開発が行われていたにもかかわらず、同盟国のドイツやイタリアから亡命してきた科学者たちによるアメリカにおける原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては1945年「7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった。
 もちろん、これはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験直後の時点ではその内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。
 それを踏まえ、堀は「原爆という語は、その当時かけらほどもなかった」と語っている。
 また、特情部では、当時スウェーデンの日本大使館に勤務していた駐在武官を通じて経由して入手したアメリカ海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」(原子核)の文字列が現れたのが、広島と長崎に原子爆弾が投下された直後の8月11日のことであった。
 当初は、軍部(主に陸軍)は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島及び長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。
 11日から12日にかけて日本の新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。
 これによって、当時自国でも開発が進められていたもののその詳細は機密扱いであったこともあり、一般にはSF小説、科学雑誌などで「近未来の架空兵器」と紹介されていた原爆が発明され、日本が攻撃を受けたことを日本国民は初めて知ったのである。

 なお、この原爆報道によって、新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出し新潟市は無人都市になった。その情報は8月13日付の讀賣報知(現・読売新聞)に記載された。
 これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。
 原爆疎開が行われた都市は新潟市だけであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認することもあった。
 1945年8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。
 さらに8月15日正午、戦争の終結を日本国民に告げるために行われたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪もない者たちを殺傷し、悲惨な損害の程度は見当もつけられないまでに至った)而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ(それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。)」と詔があった(第二次世界大戦中、日本の軍部にも二つの原子爆弾開発計画が存在していた。陸軍の「ニ号研究」と海軍のF研究である)。
 正確な犠牲者数などは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) 占領下では言論統制され、サンフランシスコ講和条約発効で日本が主権を回復した1952年に初めて報道された。

 ◆新型爆弾への心得

 原子爆弾が広島・長崎に投下された後、日本の報道機関は号外を出し、原子爆弾への対策とその心得を国民へ伝達している。

 東京朝日新聞 昭和二十年八月十一日付特報(送り仮名等は実際に掲載されたものに則っている) 新型爆彈への心得 防空總本部發表 橫穴式防空壕が有效 初期防火・火傷に注意 國際法を無視した廣島の新型爆彈を、現地に出張、視察した陸海軍および防空總本部の專門家の調査に基いて新型爆彈に對する心得を防空總本部から十一日發表した、なほさきに二回にわたつて發表された注意は有效であるから今回の左記注意を追加すれば一層完璧である。

 一、落下傘やうのものが降下するから目撃したら確實に待避すること
 二、鐵筋コンクリート造りの建物は安全度が高いからこれを有效に利用すること しかし窓ガラスは破壞するからこれがための負傷を注意すること、壁、柱型、窓下、腰壁を待避所とすると有效である
 三、破壞された建物から火を發するから初期防火に注意すること
 四、傷害は爆風によるものと火傷であるがそのうちでも火傷が多いから火傷の手當を心得えておくこと、もつとも簡單な火傷の手當法は油類を塗るか鹽水で濕布をするがよい
 五、横穴式防空壕は堅固な待避壕と同樣に有效である
 六、白い衣類は火傷を防ぐために有效である(但し白い着衣は小型機の場合は目標となり易い、よく注意のこと)
 七、待避壕の入口は出來るだけふさぐのがよろしい 八、蛸壺式防空壕は板一枚でもしておくと有效である

 ▼第三の原子爆弾投下準備

 終戦直前、アメリカは出来る限りいくつかの原子爆弾の製造を順次進めており、長崎への原子爆弾投下後も、第三の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。
 8月15日に日本が降伏を表明するわずか数時間前(米国時間14日)、トルーマンは英国外交官を前に「第三の原爆投下を命令する以外に選択肢はない」と漏らしていたが、日本が降伏したことで第三の原子爆弾が日本に投下されることはなかった。
 仮に第三の原子爆弾の投下命令が下った際、その候補地は小倉市、京都市、新潟市など諸説あるが、1945年8月14日に愛知県で行われた7発のパンプキン爆弾の投下は、3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている。
 また、プルトニウムコアの輸送が遂行されて原爆を完成させた後、8月19日か20日に東京に投下する予定であったという情報もある。
 また広島市・長崎市に投下された新型爆弾が、新潟市にも落とされるとの畠田昌福新潟県知事の見解により、「罪の無い市民を皆殺しにしようとする敵の作戦に肩透かしをくらわせる」と述べた上で、新潟市の中心から5里(約20キロメートル)以上疎開することを求めた布告を8月11日に出したため、新潟市の中心部が終戦直後まで無人状態になった。
 なお、新潟への投下については出撃基地のテニアン島から遠い上、目標の都市規模が小さすぎること等から、8月6日、8月9日共に予備投下目標にすら選ばれなかったという。

   〔ウィキペディアより引用〕



in the name of ending the war Chord : 10 マンハッタン計画②

2023-08-23 21:00:00 | 日記

 マンハッタン計画②

 ▼トリニティ実験

 1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点にあるアラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において人類史上初の核実験「トリニティ」が実施された。爆発実験に使用された人類最初の原子爆弾はガジェットというコードネームをつけられ、爆縮レンズを用いたインプロージョン方式のテストを目的としたものだった。
 のちに長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」が同様の構造をしていたが、ファットマンのように空中からの投下ではなく、鉄製のタワーの上に備え付けられた状態で爆発させた。
 ファットマンおよび、広島に投下されたリトルボーイは、このガジェットと並行して製造された。

 トリニティ実験
(トリニティじっけん)
 (英語: Trinity, Trinity test)

 1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験である。


 アメリカ・ニューメキシコ州ソコロの南東48キロメートル (km)(北緯33.675度、西経106.475度)の地点で行なわれた爆縮型プルトニウム原子爆弾(原爆)の爆発実験で、同型の爆弾『ファットマン』が、後に日本の長崎県長崎市に投下された。
 この実験による核爆発は、約25キロトン (kt) のTNTの爆発と同規模のものであった。
 この核実験をもってしばしば核の時代の幕開けとされるほか、人工放射性物質の環境への拡散が開始された時として地質年代である人新世の始まりとされることもある。

 《実験までの経緯》

 核兵器の開発は、1930年代後半の政治潮流と科学の発展に端を発する。この時代にヨーロッパでファシスト政権が誕生したことと、原子の性質に関する新たな発見がなされたこととが一つの流れにまとまり、アメリカ合衆国とイギリスにおいて、原子核分裂反応をエネルギー源とする、強力な兵器を開発する計画が生まれた。
 この計画はマンハッタン計画と呼ばれ、最終的には1945年7月に、トリニティ実験場と呼ばれる場所で行なわれた、人類初の核実験と、その数週間後の広島・長崎への原子爆弾投下へとつながった。

 《原爆投下》

 米国政府のヘンリー・スティムソン陸軍長官の下に設けられた暫定委員会は6月1日、原爆投下が複合的効果をもたらすよう、標的に無警告で投下すべきであると決議した。
 7月16日のトリニティ実験から一ヶ月も経たないうちに、日本に原子爆弾が投下された。原子爆弾は、8月6日に日本の広島に投下され(リトルボーイ)、さらに8月9日に長崎に投下された(ファットマン)。

 ■日本への原子爆弾投下■

 日本への原子爆弾投下
(にほんへのげんしばくだんとうか)

 第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)の末期である1945年(昭和20年)8月に、連合国のアメリカ合衆国が枢軸国の日本に投下した2発の原子爆弾による空爆。
 1945年7月に最初の原子爆弾が完成した。
 これらの投下は人類史上初、なおかつ世界で唯一核兵器が実戦使用されたものである。日本国においては、1963年の東京地方裁判所の判決により、これらの原爆投下は「国際法違反であった」という司法的判断が確定した。

 広島市に投下されたリトルボーイ、長崎市に投下されたファットマンの2発、および投下されなかった3発目の原子爆弾を含めて総論的に述べる。

 《投下の理由》

 第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)における日本列島での上陸直接戦闘(ダウンフォール作戦、日本軍では「決号作戦」)を回避し、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするのが、アメリカ政府による公式な説明である。
  1932年から日米開戦時まで10年間駐日大使を務め、戦争末期には国務長官代理を務めたジョセフ・グルーは、「ハリー・S・トルーマン大統領が(グルーの勧告どおりに)、皇室維持条項を含む最後通告を1945年5月の段階で発していたなら、日本は6月か7月に降伏していたので原爆投下は必要なかった」と述べている。
 アメリカのABCテレビが1995年に放送した「ヒロシマ・なぜ原爆は投下されたのか(Hiroshima: Why the Bomb was Dropped)」という番組では「原爆投下か本土上陸作戦しか選択肢がなかったというのは歴史的事実ではない。
 他に皇室維持条項つきの降伏勧告(のちにこの条項が削除されてポツダム宣言となる)を出すなどの選択肢もあった。
 従って、原爆投下という選択はしっかりとした根拠に基づいて決断されたものとはいえない」という結論を示した。

 原爆を日本に使用する場合、大きく分けて以下の3つの選択肢があった。
 原爆を軍事目標(軍港や基地など)に落とし大量破壊する。

 1.原爆を無人島、あるいは日本本土以外の島に落として威力をデモンストレーションする。

 2.原爆を軍事目標(軍港や基地など)に落とし大量破壊する。

 3.原爆を人口が密集した大都市に投下して市民を無差別に大量殺戮する。

 また、原爆を使用するにしても、2つの方法があった。
 (A)事前警告してから使用する。
 (B)事前警告なしで使用する。
 1の使い方ならば、絶大な威力は持っているがただの爆弾ということになり、さらに2ならば大量破壊兵器、3ならば大量殺戮兵器になり、いずれも国際法に違反して、人道に反する大罪となる。
 しかし、3と(A)の組み合わせならば、警告がしっかりと受け止められて退避行動をとることができれば死傷者の数をかなり少なくできる可能性があり、大量殺戮兵器として使ったとは言えなくなるかもしれない。
 3と(B)の組み合わせならば、まちがいなく無差別大量殺戮であり、しかもその意図がより明確なので、それだけ罪が重くなると言える。
 この違いを、原爆を開発した科学者たちや、1945年5月31日に都市への無警告投下を決定した暫定委員会のメンバー、真珠湾攻撃の復讐を公言していたトルーマン大統領、彼とタッグを組んでいたジェームズ・F・バーンズ国務長官たちは非常によく理解していた。
 たとえば、海軍次官のラルフ・バードはあとになって、自分は事前警告なしでの使用には同意しないと文書で伝えた。
 フランクリン・ルーズベルト大統領は1944年9月22日の段階で、実際の原爆を日本に使用するのか、それとも、この国で実験して脅威として使用するのかという問題を取り上げていた。
 同年9月30日には、アメリカ科学研究開発局長官のヴァネヴァー・ブッシュとアメリカ国防研究委員会化学・爆発物部門の主任ジェイムス・コナントはヘンリー・スティムソン陸軍長官に「原爆は最初の使用は、敵国の領土か、さもなければわが国でするのがいい。
 そして、降伏しなければ、これが日本本土に使われることになると日本に警告するとよい」と勧めた。
 1945年5月、イギリスはアメリカに、日本に対して原爆使用前に警告を与えるべきであると文書で要望していた。

 レオ・シラードが、原爆と原子力利用について大統領に諮問する暫定委員会に大統領代理として加わっていたバーンズ(約1ヶ月後に国務長官となる)と、1945年5月28日に会見したときに得た「バーンズは戦後のロシアの振る舞いについて懸念していた。
 ロシア軍はルーマニアとハンガリーに入り込んでいて、これらの国々から撤退するよう説得するのは難しいと彼は思っていた。
 そして、アメリカの軍事力を印象づければ、そして原爆の威力を見せつければ、扱いやすくなると思っていた」という証言は、「アメリカはソ連のヨーロッパでの勢力拡大を抑止するために原爆を使った」という主張の根拠となっている。
 有馬哲夫によると、トルーマンとバーンズが無警告で都市への原爆投下を強行した理由は、人種的偏見と真珠湾攻撃に対する懲罰、原爆をもっとも国際社会(とりわけソ連)に衝撃を与える大量殺戮兵器として使用することで、戦後の世界政治を牛耳ろうという野心からであると主張する。
 戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害の人体実験を行うためであったという説、更にはアメリカ軍が主導で仕組んだ説があり、広島にはウラン型(リトルボーイ)、長崎へはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された。
 豊田利幸はウランの核爆発が実験で確認できなかったためと推測している。

 《背景と経緯》

 日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。
 そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。
 一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。
 具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。
 また、京都市や新潟市や小倉市(現・北九州市、長崎市に投下されたファットマンの当初目標地)などが候補地とされていた。

 ▼イギリスとアメリカと日本における政策上の背景と経緯

 1939年1月、イギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1939年1月号』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される。
 1939年8月2日、アメリカへの亡命物理学者のレオ・シラードらからの提案を受けたアルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領に宛てた手紙において、原子爆弾がドイツにより開発される可能性に言及し、核エネルギー開発の支援を進言。
 1939年9月1日、第二次世界大戦が始まる。 1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)がルーズベルト米大統領に届けられる。 1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置。 1940年4月10日、イギリスが、第一回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。

 1940年4月、理化学研究所の仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進言。
 1940年4月、安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。
 1940年6月、鈴木辰三郎は東京帝国大学(現・東京大学)の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出。
 1940年7月6日、すでに仁科芳雄等がイギリスの学術雑誌『ネイチャー』に投稿してあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される (n. 2n) 反応や、複数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が、掲載された。
 この実験では臨界量を超える天然ウラン(ウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に高速中性子を照射したわけだが、現在ではそのことによってプルトニウム239が生成されることや、核爆発を起こすことが知られている。
 1941年4月、日本陸軍が理研に原爆の開発を依頼。
 ニ号研究と名付けられた。
 1941年7月15日、イギリスのMAUD委員会は、ウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。

 1941年10月3日、MAUD委員会最終報告書が、公式にルーズベルト大統領に届けられる。
 1941年11月末、後に連合国軍最高司令官総司令部の主要メンバーとなるユダヤ人ベアテ・シロタ・ゴードンの母で、日本の貴族院議員のサロンを主催していたオーギュスティーヌが、夫レオ・シロタと共にハワイから再来日。
 1941年12月8日、日本がイギリス領マラヤでマレー作戦を、アメリカ準州のハワイで真珠湾攻撃を行ない、第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)が勃発。日本とアメリカは敵味方として第二次世界大戦に参戦することとなった。
 1942年9月26日、アメリカの軍需生産委員会(英語版)が、マンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づけた。
 1942年10月11日、アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。
 1944年7月9日、朝日新聞に、『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。
 そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい。」という記事が掲載された。
 ウラン原爆の起爆操作と全く同じであった。
 1945年7月26日、日本への最後通告としてポツダム宣言を発表した。

 ▼ルーズベルトの決断

 1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発した。
 ユダヤ人迫害政策を取るナチス党率いるドイツから逃れてアメリカに亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アインシュタインとの相談によって、原子爆弾の可能性と政府の注意喚起をルーズベルト大統領へ進言する手紙を作成した。
 アインシュタインの署名を得たこの手紙は1939年10月11日に届けられた。
 その手紙には原子爆弾の原材料となるウラニウム(ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。
 ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカのコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえることをほのめかしている。
 ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった。

 2年後の1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・ロベルト・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とドイツのルドルフ・パイエルスがウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、これによってイギリスの原子爆弾開発を検討する委員会であるMAUD委員会が作られた。 
 そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。
 ウィンストン・チャーチル首相が北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。
 1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。
 1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス国立研究所が設置される。
 開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。
 20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。
 テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
 1944年9月18日、ルーズベルトとチャーチルは、ニューヨーク州ハイドパークで米英首脳会談を行った。
 内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、原爆が完成すれば日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。

 前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示した。
 混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。
 1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機および部隊総員1,767人)、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。
 1945年2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動し、日本本土への原爆投下に向けた準備を開始した。

 ▼原子爆弾投下阻止の試みと挫折

 デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。
 この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
 1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発し、ドイツによるヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。
 そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。
 原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
 1944年5月16日に、ボーアはチャーチルと会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルトとも会談したが同様に失敗した。
 逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定では、ボーアの活動監視と、当時英米との対立姿勢が目立ってきたソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。
 さらに、ルーズベルト死後の1945年4月25日に、ボーアは科学行政官のヴァネヴァー・ブッシュと会談し説得を試みたが、彼の声が時の政権へ届くことはなかった。

 また、1944年7月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。
 しかし、この提言が生かされることがなくなったのは、トルーマンが政権を引き継いでからのことである。
 当初、ルーズベルトは、原子爆弾を最初から日本に投下するつもりはなく、1944年5月に日本への無条件降伏の要求を取り下げ、アメリカ国務省極東局長を対日強硬策を布いたスタンリー・クール・ホーンベックから、駐日大使を歴任したジョセフ・グルーに交代するなど、日本への和平工作を行っていた。
 これらのアメリカ側の動きを日本側は、アメリカ軍の損耗を最小限にするため行っているという認識であったが、ルーズベルトは、中国で国共内戦が勃発することを恐れており、その予防に兵力を振り向けたい思いで、動いていたのであった。

 ▼トルーマン政権と軍の攻防、和平工作の破綻

 1945年4月12日にルーズベルトが急死したことによって、急遽、副大統領だったハリー・S・トルーマンが第33代大統領に昇進した。
 ナチス・ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている。
 バーンズはマンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、日本に対する原爆攻撃を支持しており、天皇の護持が容れられれば、日本には終戦交渉の余地があるとする、戦後日本を有望な投資先と考える国務次官グルー、陸軍長官スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタルら三人委員会とは正反対の路線であった。
 「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を、我々アメリカが所有していることを事前警告すべきである。
 それでも降伏しなければ原爆を投下すると日本政府に伝えるべきだ」と主張し無警告の原爆投下に反対を訴えた陸軍次官のジョン・J・マクロイに対して、バーンズは「それはアメリカの弱さを示すものだ、原爆投下前に天皇制を保証し降伏を呼びかけるのは反対だ」と述べる。

 1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出した。
 その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、暫定委員会の決定が覆ることはなかった。
 また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。
 1945年7月1日、チャーチル英首相がアメリカによる日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、後に英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。
 打診は、アメリカが核兵器開発に成功してもイギリスが同意しなければ使用できないなどと定めた1943年8月の「ケベック協定」に基づく。
 なお、原爆投下前にチャーチルは首相を退任している。
 さらに1945年7月12日、シカゴ大学冶金研究所で原爆の対日使用に関するアンケートがあった。
 それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。
 7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書を提出したが、原爆投下前にトルーマンに届けられることはなかった。
 マンハッタン計画の指揮官であるグローヴス陸軍少将が請願書を手元に置き、大統領に届かないように妨害したためであった。
 軍人では、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを、1945年7月20日にトルーマンに進言しており、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的で、ロタ島への爆撃を示唆している。

 また連邦政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することに反対する者もいた。
 7月24日のポツダム会談でチャーチルは、1944年9月にトルーマンの前任のルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。
 また、大統領だったトルーマン自身も、自身の日記に「原爆の投下場所は、軍事基地を目標にする事。
 決して一般市民をターゲットにする事がないようにとスティムソンに言った。」と記述していたため、非戦闘員である民間人を殺戮する原爆投下には反対していたことが明らかになっている。

 しかしマンハッタン計画の責任者だったグローヴスは、原爆による最大の破壊効果を得たいが為に「広島は軍事都市である」との偽装した報告書を提出した挙げ句、勝手に原爆投下指令書を作成した(当然ながら大統領だったトルーマンがそれを許可した証拠はない)

 そして、ワシントンで原爆投下の一報を聞いたグローブスは、原爆開発をした科学者たちに対し「君たちを誇りに思う。」とねぎらったという。

   〔ウィキペディアより引用〕

 

■雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー①

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 平和って何?①

 差し当たり“経済平和研究所”を綴らせて貰います。

 経済平和研究所(IEP)は、
 Integrated ResearchLtdの創設者であるテクノロジー起業家のスティーブ・キレリアが、オーストラリアのシドニーに本社を置き、米国のニューヨーク、メキシコのメキシコシティ、オランダのハーグ、ベルギーのブリュッセルに支部を持つグローバルシンクタンクである。
 IEPは、平和を定義するための概念フレームワークを開発し、測定の指標を提供し、平和、ビジネス、繁栄の関係を明らかにし、平和を推進する文化的、経済的、政治的要因の理解を促進しようと努めている。
 IEPは、アスペン研究所、平和と安全のためのエコノミスト、国連グローバル・コンパクト、戦略国際問題研究所、クランフィールド大学と協力して活動している。
 また、経済協力開発機構、連邦事務局、 UNDP 、国連平和構築支援局とも協力している。
 スローガンの一つは「データと事実に基づく研究は、より平和な未来を創造するための第一歩であると私は信じている」である。

(経済平和研究所ロゴ)

 ペンシルベニア大学によって作成されたグローバルシンクタンクインデックスは、経済平和研究所を注目すべきシンクタンク、500万ドル未満の予算を持つトップ15のシンクタンクの1つ、および主要な機関としてリストした。

 2013年、スティーブキレリアによるIEPの設立は、マイヤーファミリーカンパニー、マイヤー財団、シドニーマイヤー基金、プロボノオーストラリア、スウィンバーン大学、フィランソロピーオーストラリアなどの連合によって、オーストラリアの歴史の中で最も影響力のある50の慈善寄付の1つとして認められた。
 2022年9月の「異文化間平和対話測定」が国連から出版され、経済平和研究所が単なる一非営利団体ではなく、国連と同レベルの世界で最も公に信頼される組織であることが示された。

 ▼「世界平和度指数」

「世界平和度指数(Global Peace Index)」とは、世界各国の平和度合いを数値化し、ランキング形式でまとめたもの。
 オーストラリアに本部をおく国際的なシンクタンク、経済平和研究所(IEP)が毎年発表を行っている。

 対象となるのは、世界人口の99.7%を占める世界163の国と地域だ。
 それぞれについて、以下の3つのカテゴリにわたる全23の項目について評価している。

 ・社会の安全・治安

 ・現在進行中の国内外の紛争

 ・軍事化

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 【2023年度】
 世界平和度指数ランキング

 1位 アイスランド 1.124

 2位 デンマーク 1.310  

 3位 アイルランド 1.312

 4位 ニュージーランド 1.313

 5位 オーストリア 1.316

 6位 シンガポール 1.332

 7位 ポルトガル 1.333

 8位 スロベニア 1.334

 9位 日本 1.336

 10位 スイス 1.339

  ⇅ ⇅ ⇅ (中略)

 153位 ウクライナ 2.971

 154位 スーダン 3.007

 155位 中央アフリカ 3.021

 156位 ソマリア 3.125

 157位 イラク 3.157

 158位 コンゴ(旧ザイール) 3.166

 159位 南スーダン 3.184

 160位 ロシア 3.275

 161位 シリア 3.356

 162位 イエメン 3.394

 163位 アフガニスタン 3.554 

 スコアは低いほど、平和度が高いことを示している。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ◆世界の平和度指数は悪化してるという...。

 2023年の世界平和度指数ランキングを振り返ると、前年に比べて平和度指数がよくなった国は84か国。
 悪くなった国は79か国だった。
 各国の平均スコアは0.42%上昇し、それだけ世界の平和度が悪化していることを表している。

 《平和》

 平和(英: peace)は、戦争や暴力で社会が乱れていない状態のこと。

 ▼概説

 戦争は人類と同じくらい古いように見えるが、平和は現代の発明である。

 国際関係において「平和」は戦争が発生していない状態を意味し、元来、戦争は宣戦布告に始まり平和(講和)条約をもって終了し、これにより平和が到来するとされてきた。
 国際連合憲章の下では、一般に、自衛権や安全保障理事会の決定に基づくもの以外の武力行使は禁止されており、伝統的な意味での戦争は認められなくなっている(戦争の違法化)。
 しかし、武力紛争は現実には発生しており、特に第二次世界大戦後の武力衝突では宣戦布告もなく休戦協定も頻繁に破られるなど旧来の戦争の定義をあてはめることが困難になり戦争と平和の時期的な区別も曖昧になっているという指摘がある。
 また、従来、国際平和秩序はあくまでも国家間での平和の維持を共通目標とするものにとどまり、各国の国内の人民の安全まで保障しようとするものではなかったため、各国の国内での人道的危機が国際社会から見放されてきたのではないかという問題も指摘されており、人間の安全保障と平和の両立が課題となっている。

 ▼思想

 戦争や暴力によって紛争を解決せず、暴力的手段を用いずに平和を達成しようとする思想のことを平和主義と呼ぶ。
 またこうした平和主義に基づき、世界各地で活発な平和運動が行われてきた。

 戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場。
 人権の経済的部分である経済的自由・国際化・世界経済などと併せて、平和主義は資本主義とも関連している。
 『世界大百科事典』では、現代世界における支配的な平和の一つは「パックス・エコノミカ」(経済による平和)だとされている。
 第二次世界大戦後に平和主義を提唱している憲法は日本国憲法、フランス共和国憲法、イタリア共和国憲法などがあり、これらに伴い平和的生存権も注目されるようになった(日本やフランスなど西側諸国の憲法は、資本主義憲法(市民憲法)に分類されている)。
 それらの事を平和主義
     (英 : Pacifism)という。

 平和主義(Pacifism)とは、戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場。
 人権の経済的部分である経済的自由権・国際化・世界経済などと併せて、平和主義は資本主義とも関連している。
 『世界大百科事典』では、現代世界における支配的な平和の一つは「パックス・エコノミカ」(経済による平和)だとされている。
 第二次世界大戦後に平和主義を提唱している憲法は日本国憲法、フランス共和国憲法、イタリア共和国憲法などがあり、これらに伴い平和的生存権も注目されるようになった(日本やフランスなど西側諸国の憲法は、資本主義憲法(市民憲法)に分類されている)。

 《概説》

 平和主義は人間の共同体について幅広い関心を持っており、特に規範的な立場から戦争の廃止や暴力の抑制を主張することに特徴付けられる。
 平和主義者は一般に非暴力を肯定し、殺生を行わず、敵に対しても愛情を持ち、平和を構築していくために努力することをめざす。
 平和主義者は良心的兵役拒否に見られるように、しばしば戦闘に参加することを拒否し、同時に間接的に軍事行動に寄与するような労務を拒否する。

 《類型》

 ▼絶対的平和主義

 絶対的平和主義者
 (英: absolute pacifist)

 一般的に、人命は貴重なので、自己防衛においてさえも、人間は決して殺されるべきではなく戦争は決して引き起こすべきではないことを信奉するような者として、BBCによって描かれる。暴力は、傷ついたり殺されたりしているある人を助ける手段としてありえないから、その信念は矛盾なく耐えるには難しいものとして描かれる。
 このような平和主義者が、暴力は非暴力よりもさらに望ましくない結果に導くことを論理的に主張することができることも、さらに主張される。

 ▼相対的平和主義

 正戦論を活用して、相対的平和主義(英: conditional pacifism)は、絶対的平和主義の立場から離れた立場の幅を提示する。
 防衛をすることをしてもよいが防衛主義 (英語: Defensivism )の不履行を支持することではないしまた干渉主義 (英語版)(英: interventionism)ではなおさらない、ひとつの相対的平和主義は通例の平和主義である。

 《歴史》

 平和主義の歴史的な展開を調べる上では、前近代の平和主義、近代の平和主義、そして現代の平和主義と便宜的に区分することができる。

 ▼前近代の平和主義

 素朴な平和主義の考え方は古より西欧だけでなく世界各地の文化として認められる。古代中国においては思想家墨子における非攻の考え方、墨守から非戦が挙げられる。
 日本でも最初の成文基本法である十七条憲法の中で「一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たっと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。」と記述されている。

 ▼近代の平和主義

 宗教戦争や近代戦争を歴史的な背景としながらヨーロッパを中心に戦争を抜本的に廃止するための試みが重要な政治的課題として検討されるようになる。

 18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントはこれらの議論に哲学的な基礎付けを行い、古典的な平和主義の思想を確立した。カントの『永遠平和のために』の中でいくつかの提案を行っているが、その中でも共和制に基づいた政治体制の確立、そして共和制に基づいた国家の連合と国際法の秩序が必須の条件であると論じている。自由で平等な市民により民主的に統治された国家は戦争を忌避し、また共和制に基づいた国家連合もまた同様に戦争を回避しようとするとカントは考えていた。 第一次世界大戦の直前、ノーマン・エンジェルなどの多くの論客が、経済的相互依存と交通・通信技術の進展によって大国間戦争は経済的に非効率なものとなり、したがって大国間戦争は過去のものとなった、と主張した[15]。しかし、ナショナリズムの高揚と帝国主義政策をバックとした第一次世界大戦が勃発すると平和主義者はより具体的な計画を必要とするようになった。 「ヒーロー#反資本主義との関連」も参照 近代では商人(ブルジョア)は平和に、英雄(ヒーロー)は戦いに結び付けられて対立的に表現されてきた[16]。マックス・ヴェーバー、ゲオルク・ジンメル、ヴェルナー・ゾンバルトなどの社会学者らは、戦争を精神的・宗教的に高く評価し、民営的・民主的なブルジョア社会(市民社会・資本主義社会)を非難した[16]。例えばゾンバルトは、ブルジョア社会は国家の「破滅への道」であり、戦争は古き「英雄精神」を開花させ国家を救う、と述べた[17]。

 ドイツ・オーストリア・ハンガリーなどでは、戦争を理由に知識人が自由主義を捨て、左翼・右翼の原理主義に走るようになり、政治的二極化が起きた[18]。このような人々は、資本主義(近代世界システム)を「改革」しようとはせず「超克」しようとした、とされている[18]。 『十四か条の平和原則』(1918年)を発表したアメリカ合衆国の大統領ウッドロウ・ウィルソンによって主導された国際連盟の発足は、カント的な平和主義の構想を具体化したものであった。この取組みは第二次世界大戦によって一時的に失敗するが、戦後に改めて創設された国際連合は普遍的な国際機構として世界の平和を維持する役割が期待された。

 ▼現代の平和主義

 戦後に発生した核保有国であるアメリカ合衆国とソビエトの冷戦は従来の平和主義が目指していた平和の実現にとって修正を必要とするものであった。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは『変革する世界のための新しい希望』の中で核時代において平和を実現するためには世界国家を創設する以外に方法がないことを主張している。またフランスの哲学者レイモン・アロンは核兵器によって戦争が勃発する蓋然性は低下したものの、平和を実現する可能性はなくなったと考えていた。しかし、一方で異なる見解が政治学者ジョン・ルイス・ギャディスによって示されている。彼は二つの超大国による対立は国際関係の安定化をもたらし、局地的な紛争があったものの全体的には長い平和が実現されたと認識していた。だが、冷戦が終結すると新しい平和の問題が浮上し、テロリズム、貧困、内戦という戦争に至らないまでも人道の危機に陥っているために平和な状態とは言えない中間的な状態が頻発するようになる。平和学の提唱者であるヨハン・ガルトゥングは行為主体が特定できないような間接的、潜在的な暴力を構造的暴力として概念化し、これを取り除いた状態を改めて平和の目標と定め直している。また冷戦の終結は国際連合の平和維持活動にも発展の可能性を与え、事務総長ブトロス・ブトロス=ガーリは『平和への課題』の中で平和執行という新しい活動を国連の平和活動として位置づけた。

 関連項目 ー 世界人権宣言 ー

 世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights、
 (略称:UDHR)

 1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択された、すべての人民とすべての国が達成すべき基本的人権についての宣言である(国際連合総会決議217(III))。
 正式名称は、人権に関する世界宣言。

 世界人権宣言は、この宣言の後に国際連合で結ばれた人権規約の基礎となっており、世界の人権に関する規律の中でもっとも基本的な意義を有する。
 これを記念して、1950年の第5回総会において、毎年12月10日を「世界人権の日」とすることが決議された。
 日本は、この日に先立つ1週間を人権週間としている。

 《歴史》

 国際連合経済社会理事会の機能委員会として1946年に国際連合人権委員会が設置されると、同委員会は国際人権章典と呼ばれる単一規範の作成を目指し起草委員会を設置したが、権利の範囲や拘束力の有無を巡って意見が対立し作成のめどが立たなかったため、いったん基礎となる宣言を採択し、その後それを補強する複数の条約及び実施措置を採択することとなった。
 起草委員会は、オーストラリア、ベルギー、白ロシア、チリ、中華民国、エジプト、フランス、インド、イラン、レバノン、パナマ、フィリピン、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、ウルグアイ、およびユーゴスラビアからの代表によって構成されており、広範囲に国際社会を代表できるよう設計されていた。
 委員会の著名なメンバーは、委員長であるアメリカのエレノア・ルーズベルトをはじめ、ルネ・カサン(フランス)、ジョン・ピーターズ・ハンフリー(カナダ)、張彭春(中華民国)、チャールズ・マリク(レバノン)、ハンサ・ジブラージ・メフタ(インド)などだった。
 ハンフリーは、委員会のたたき台になった最初の草案を提供した。

 こうして世界人権宣言が起草され、1948年12月10日に賛成48票、反対0、棄権8(ソビエト連邦、ウクライナ、ベラルーシ、ユーゴスラビア、ポーランド、南アフリカ連邦、チェコスロバキア、サウジアラビア)で採択された[6][7]。また、イエメンとホンジュラスの代表は欠席した[8]。南アフリカが棄権したのは、彼らが維持しようとしていたアパルトヘイトのシステムが世界人権宣言の内容に明確に違反していたためだった[6]。サウジアラビアの棄権は、世界人権宣言のうちの2つの項目、すなわち16条の結婚の権利、および18条の宗教変更の自由に同意できなかったためだった[6]。また、この宣言はファシズムやナチズムに対する批判を十分に行っていないとの理由でソ連をはじめとする6共産国が棄権に回った[9]。エレノア・ルーズベルトは、ソ連圏の棄権の理由として13条の移動の自由の保障を挙げた[10]。

 以下の国々は、この案に賛成票を投じた。

 ・アフガニスタン ・アルゼンチン

 ・オーストラリア ・ベルギー

 ・ボリビア ・ブラジル ・ビルマ

 ・カナダ ・チリ ・中華民国

 ・コロンビア ・コスタリカ

 ・キューバ ・デンマーク

 ・ドミニカ共和国 ・エクアドル

 ・エジプト ・エルサルバドル

 ・エチオピア ・フランス ・ギリシア

 ・グアテマラ ・ハイチ

 ・アイスランド ・インド ・イラン

 ・イラク ・レバノン ・リベリア

 ・ルクセンブルク ・メキシコ

 ・オランダ ・ニュージーランド

 ・ニカラグア ・ノルウェー

 ・パキスタン ・パナマ ・パラグアイ 

 ・ペルー ・フィリピン ・シャム

 ・スウェーデン ・シリア ・トルコ

 ・イギリス ・アメリカ ・ウルグアイ

 ・ベネズエラ

 カナダのジョン・ピーターズ・ハンフリーが果たした中心的な役割にもかかわらず、カナダ政府は、最初の宣言の草案に棄権したものの、総会での最終案には賛成票を投じた。

   〔ウィキペディアより引用〕



雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー②

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 平和って何?②

 国際人権法

 国際人権法
 (英語: international human rights law)
 (フランス語: Droit international des droits de l'Homme)

 国際法の中の人権に関する分野。
 この法によって、いかなる国でも保護されるべき人権の種類・内容および、国際機関による人権保障実施が定められている。
 国際人権法に含まれているのは、国際人権章典(世界人権宣言・国際人権規約)と、人権条約(主に子どもの権利条約・女性差別撤廃条約・人種差別撤廃条約・拷問等禁止条約)と、それらを実施するための制度である。

 《概要》

 国際法によって個人の人権を保障する、国際法の一分野をいい、第二次世界大戦後に急速に発展してきた分野である。
 第二次世界大戦前は、人権は国内問題として、国内問題不干渉義務(国際連盟規約15条8項)の下、各国の専属的事項とされていた。
 しかし、第二次世界大戦の反省から、国際連合憲章において人権保護が規定され、戦後急速に国際平面における人権保護が発展しだした。
 その端緒は、1948年の国連総会において採択された世界人権宣言である。
 諸国の憲法で同宣言が言及されていることを根拠に、今日ではこれが慣習国際法の一部となっているとする見解もある。
 諸国の国内裁判所の判決では、日本においては1989年5月2日最高裁判決をはじめ同宣言の法的拘束力が否認されている。
 1980年6月30日米控訴裁第二巡回区判決(「フィラルティーガ事件」)では、世界人権宣言その他国際合意を基に証拠づけられ定義されている拷問から逃れる権利が慣習国際法になっていると判示された。(630 F.2d 876, 882.(2d Cir.1980)

 国際人権法は、二つに分類することができる。
 普遍的保障と地域的保障である。

 関連項目
      ー 鳩とオリーブの枝 ー

 ▼平和の象徴

 様々な文化や文脈の中で、様々な形の平和の象徴、
 平和のシンボル。
(英語: peace symbols)が用いられてきた。

 鳩とオリーブの枝は初期のキリスト教徒が象徴的に使用していたが、第二次世界大戦後にパブロ・ピカソが制作したリトグラフ『鳩』によって、世俗的な平和の象徴として広まった。

 国際的に「ピース・シンボル」や「ピース・サイン」として知られるピースマークは、1958年にイギリスの反核運動「核軍縮キャンペーン」(CND)で使用された、核による消滅の脅威を表すシンボルが起源となっている。
 1960年代のアメリカの反戦運動で広く採用され、一般的に世界平和を表すものとして再解釈された。
 しかし、1980年代になっても、原子力発電に反対する活動家の間では、本来の反核の意味で使われていた。
 ピースサイン(Vサイン)や平和の旗は、国際的な平和の象徴となった。

 オリーブや鳩は、平和の象徴とも言われ、その意味合いは世界共通。
 世界の平和を守る、国際連合の標章にもオリーブの枝が描かれています

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 オリーブと鳩は、聖書の一説である「ノアの箱舟」の話に登場します。

 《物語の要約》

 ノアは、アダムとイブの世代から数えて10代目の人間でした。
 人々はすでに堕落した生活を送っていたので、神は怒り、大洪水を起こして地上から人間をなくしてしまおうと考えます。
 そして神を敬うノアだけに、箱舟をつくって家族と地上のすべての生き物を1つがいずつ乗せるよう指示します。
 そのある日、ノアが大洪水から家族を守るため、方舟(はこぶね)を建設します。
 そして、神の言っていたとおり大雨が降り、やがてそれは大洪水へと発展していき、それによって人間のみならず、あらゆる生命がこの世から姿を消していきました。
 ノアはその方舟に、ノアの妻と3人の息子、それぞれの妻に加え、地球上にいた全ての動物を乗せて海に出て、皆と一緒に大洪水が収まるのを待ちました。
 地上の様子を調べるため、ノアはカラスと鳩を飛ばして、地上から水が引いた安全な場所があるかを確認させに行かせます。
 カラスは残念ながら帰ってきませんでしたが、なんと鳩はすぐ戻ってきたのです。
 鳩が飛び立ってすぐに舟に戻ってきたことから、ノアはまだ地上に安全な場所がないと判断します。
 その7日後に鳩を再び放つと、今度は鳩がオリーブの葉を口に咥えて戻ってきました。
 ノアは大洪水が終わったと判断します。
 それからさらに7日後に鳩を飛ばすと、鳩は戻ってきませんでした。
 ノアは地上が復活したことを知ります。
 つまり、世界に”平和”が訪れたのです。

 というお話。

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 ▼オリーブの枝

 ◆古典古代

 西洋文明において、平和の象徴としてオリーブの枝が使われるようになったのは、少なくとも紀元前5世紀のギリシャまで遡る。古代ギリシャでは、オリーブの枝は豊かさを表し、悪霊を追い払うと信じられており、ギリシャ神話の平和の女神エイレーネーの持ち物の1つであった。 
 ローマ帝国の硬貨にも、オリーブの枝を持った女神パークス(ギリシャ神話のエイレーネーに相当)が描かれている。
 古代ローマの詩人ウェルギリウス(紀元前70年 - 紀元前19年)は、「ふくよかなオリーブ」を女神パークスと結びつけ、『アエネーイス』の中でオリーブの枝を平和の象徴として用いている。

 ローマ人にとって、戦争と平和には密接な関係があり、戦争の神マールスは、マールス・パシファー(平和をもたらすマールス)という別の側面があり、後のローマ帝国のコインにはオリーブの枝を持ったマールスが描かれている。
 アッピアノスは、ヌマンティア戦争におけるローマの将軍スキピオ・アエミリアヌスの敵やカルタゴのハスドルバル・ボエタルクが、平和の象徴としてオリーブの枝を使用したことを記述している。

 ◆その後の表現

 17世紀の詩人たちは、オリーブの枝を平和と結びつけていた。
 1644年のチャールズ1世の金貨には、剣とオリーブの枝を持った君主が描かれている。
 18世紀を通じて、イギリスの硬貨には、槍とオリーブの枝を持ったブリタニアが描かれていた。
 グリニッジの旧王立海軍大学には、ジェームズ・ソーンヒルによる寓意的な絵画『暴政に勝利する平和と自由』(Peace and Liberty Triumphing Over Tyranny)が所蔵されている。
 ウィリアム3世とメアリー2世(イングランドを共同統治し、権利の章典を制定した)が天上に鎮座し、鳩と子羊を連れた平和が、ウィリアムにオリーブの枝を渡し、ウィリアムは絶対王政が支配するヨーロッパに自由の帽子を渡す。
 ウィリアムの下には、敗れたフランス王ルイ14世が描かれている。
 1775年1月、『ロンドン・マガジン』の表紙には、天から降りてきた平和の女神が、アメリカとブリタニアにオリーブの枝を授けるという版画が掲載された。
 同年7月、アメリカの大陸会議はイギリスとの本格的な戦争を回避するために、「オリーブの枝請願」を採択した。
 アメリカ合衆国の国章に描かれているオリーブの枝は平和を意味している。
 国章の原案をデザインした大陸会議書記のチャールズ・トムソンは、「オリーブの枝と矢は、議会に独占的に与えられている平和と戦争の権限を示している」と説明した。

 ◆現代の用法

 18世紀のイギリスやアメリカでは、鳩が持つオリーブの枝が平和のシンボルとして使われていた。
 1771年のノースカロライナ州の2ポンド紙幣には、「平和の回復」を意味する標語とともに鳩とオリーブが描かれている。
 1778年のジョージア州の40ポンド紙幣には、鳩とオリーブ、そして短剣を持つ手が描かれており、「戦争と平和、そのどちらにも備える」という意味の標語が付けられていた。
 オリーブの枝は、18世紀の他の版画にも平和のシンボルとして登場している。
 1775年1月の『ロンドン・マガジン』の表紙には、「平和の女神がアメリカとブリタニアにオリーブの枝を持って行く」という内容の彫刻が掲載されていた。
 1775年7月、アメリカの大陸会議がイギリスとの本格的な戦争を回避するために採択した請願書は、「オリーブの枝請願」と呼ばれた。

 1776年7月4日、アメリカ合衆国の国章の作成を許可する決議がなされた。
 国章には、右脚の爪でオリーブの枝を掴んでいる鷲が描かれている。
 オリーブの枝は、伝統的に平和の象徴として認識されている。
 オリーブの枝は、1780年3月に議会で任命された第2委員会によって追加された。
 オリーブの枝には13個の実と13枚の葉が描かれており、これは13植民地を表している。
 その後、束ねられた13本の矢が加えられた。
 オリーブの枝と矢の束が対になっているのは、「議会に独占的に与えられている平和と戦争の権限」を示すためである。
 キプロスの国旗と国章には、平和の象徴として、また古代ギリシャの伝統を反映して、オリーブの枝が使われている。オリーブの枝のデザインは、世界中の多くの 国旗や国章、警察の徽章などで平和の象徴として使用されている。
 国際連合の旗には、世界地図を囲むようにオリーブの枝が描かれている。
 オリーブの枝は、アラブの民間伝承においても平和の象徴とされている。
 1974年、パレスチナの指導者ヤーセル・アラファートは、国連総会にオリーブの枝を持参し、「今日、私はオリーブの枝と自由戦士の銃を持ってやってきた。オリーブの枝を私の手から落としてはならない」と言った。

 ▼平和の象徴としての鳩

 ◆キリスト教

 平和の象徴としての鳩の使用は、初期のキリスト教に由来している。
 初期のキリスト教徒は、鳩を伴うイエスの洗礼を、しばしば墓に描いていた。

 新約聖書では、鳩を、イエスの洗礼の際に降りてきた聖霊になぞらえている(マタイ3:16)。
 紀元1世紀末頃に書かれたペトロの手紙一では、水による救いをもたらした大洪水は、洗礼を予見したものであると述べている(3:20-21)。

 テルトゥリアヌス(160年頃 - 220年頃)は、ヘブライ語聖書に登場するノアの鳩を、「方舟から送り出されてオリーブの枝を持って戻ってきたとき、神の怒りが和らいだことを世界に告げた」とし、「天から送り出された神の平和をもたらす」洗礼における聖霊と比較した。

 当初、鳩は主観的な個人の平和の体験、つまり魂の平安を表しており、最古のキリスト教美術では洗礼の表現に添えられていた。
 2世紀末(例えばテルトゥリアヌスの著書)には、鳩は社会的・政治的な平和、すなわち「諸国民への平和」も表しており、3世紀以降は、ノアと方舟、ダニエルとライオン、炉の中の三人の若者、スザンナと長老たちなど、対立を描いた作品にも登場するようになった。

 鳩は、ローマのカタコンベにあるキリスト教の碑文にも登場し、時には、in pace(ラテン語で「平和のうちに」の意)という言葉を伴っている。
 例えば、カリクストゥスのカタコンベでは、鳩と枝が次のラテン語の碑文の横に描かれている。
 "NICELLA VIRCO DEI OVE VI XIT ANNOS P M XXXV DE POSITA XV KAL MAIAS BENE MERENTI IN PACE"(神の処女であるニセラは、35年ほど生きた。
 彼女は5月のカレンデスの15日前(4月17日)に(ここに)置かれた。
 安らかに眠るべき者のために)[21]。別の例では、浅いレリーフに、ギリシャ語で"ΕΙΡΗΝΗ"(エイレーネー、平和)と記された人物のもとへ、枝を持った鳩が飛んでいる。
 このシンボルは、チュニジアのスース(古代カルタゴ)にある紀元1世紀末のキリスト教のカタコンベからも発見されている。
 キリスト教において、象徴としてのオリーブの枝は常に鳩が持っているが、これはギリシャ語の用法とヘブライ語聖書のノアの方舟の物語に由来している。
 ノアの方舟の物語は、摘み取ったばかりのオリーブの葉(ヘブライ語: עלה זית alay zayit)を鳩が持ってくるところで終わっている(創世記 8:11)。
 これは、大洪水の後の生命の証であり、神がノアとその家族、動物たちを陸地に連れてきたことを示している。
 ラビ派の文献では、オリーブの葉を「イスラエルの地の若芽」と解釈したり、鳩が人間のための甘い食べ物ではなく、神のための苦い食べ物を好むと解釈したりしていた。
 ユダヤの思想においては、鳩もオリーブの枝も平和を表すものではなかったが、キリスト教でその意味を獲得した。

 313年の教会の和平(英語版)によってローマがキリスト教徒への迫害をやめる以前は、ノアは通常、祈りの姿勢で描かれていた。
 グレイドン・スナイダーによれば、「ノアの物語は、ローマの迫害という脅威的な環境に耐えうる器として、初期キリスト教共同体に敬虔さと平和を表現する機会を与えた」という。
 また、ルートヴィヒ・ブッデやピエール・プリジェントは、鳩はノアの平和ではなく聖霊の降臨を意味するとしている。
 教会の和平以降、キリスト教美術においてノアが登場することは少なくなった。
 4世紀に出版されたノアの物語のラテン語訳で、ヒエロニムスは、創世記8章11節の「オリーブの葉」(ヘブライ語でalé zayit)を「オリーブの枝」(ラテン語でramum olivae)と表現した。
 これは、洗礼によってもたらされる平和と、大洪水の終焉によってもたらされる平和がキリスト教的に等価であることを反映していると考えられる。
 5世紀には、オリーブの枝を咥えた鳩がキリスト教における平和の象徴として定着しており、アウグスティヌスは著書『キリスト教の教え』(De doctrina Christiana) の中で、「永遠の平和は、鳩が方舟に戻るときに持ってきたオリーブの枝 (olleae ramusculo) によって示される」と書いている。
 ホルカム聖書などの中世の装飾写本では、鳩が枝を持ってノアのもとに戻ってくる様子が描かれている。
 14世紀のウィクリフの聖書(英語版)では、創世記8:11で"a braunche of olyue tre with greene leeuys"(緑の葉をつけたオリーブの木の枝)と表現している。

 ◆世俗的表現

 15世紀

 ニッコロ・マキャヴェッリを主事とする「自由と平和の十人委員会」として知られるフィレンツェの委員会Dieci di Baliaの印章には、Pax et Defencio Libertatis(平和と自由の擁護)という標語とともに、オリーブの枝を咥えた鳩が使われていた。

 18世紀

 18世紀のアメリカでは、ノースカロライナ州の2ポンド紙幣(1771年)に鳩とオリーブが描かれており、「平和の回復」という州のモットーを表していた。1778年のジョージア州の40ドル紙幣には鳩とオリーブ、短剣を持つ手が描かれており、「戦争か平和か、両方に備える」という意味のモットーが書かれていた。

 19世紀

 1816年にクエーカー教徒の主導で結成された「恒久的かつ普遍的な平和の促進のための協会」(通称「ロンドン平和協会」)は、鳩とオリーブの枝をシンボルにしていた。

 20世紀

 パブロ・ピカソが制作したリトグラフ『鳩』は、伝統的で写実的な鳩の絵で、オリーブの枝は描かれていないが、1949年4月にパリで開催された世界平和評議会のエンブレムに選ばれた。
 この鳩は、平和運動と共産党の理想を象徴するものとなり、当時の共産党のデモでも使用された。
 1950年にシェフィールドで開催された世界平和評議会で、ピカソは父親から鳩の絵を教わったと語り、「私は、死よりも生を、戦争よりも平和を支持する」と締めくくった。
 1952年にベルリンで開催された世界平和評議会では、舞台上のバナーにピカソの『鳩』が描かれた。
 鳩のシンボルは、戦後の平和運動で多用された。反共主義者は、平和の鳩を独自に解釈していた。
 フランスのPaix et Libertéというグループは、平和の鳩がソ連の戦車へと変化する様子を描いたポスターを配布した。

   〔ウィキペディアより引用〕



雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー③

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 平和って何?③

 ▼ピースマーク

 今日知られているピースマーク(ピースシンボル)は、1958年にジェラルド・ホルトムによって、イギリスの平和運動の最前線にいたグループである核軍縮キャンペーン(CND)のロゴとしてデザインされ、アメリカなどでの反戦運動やカウンターカルチャーの活動家により採用された。
 このシンボルは、手旗信号の"N"と"D"を重ね合わせたもので、「核軍縮」(Nuclear Disarmament)を意味すると同時に、ゴヤの1814年の作品『マドリード、1808年5月3日』(別名『プリンシペ・ピオの丘での虐殺』)において銃殺隊に対峙する反乱者を表しているとされている。


 このマークは、Unicodeのその他の記号ブロックにU+262E ☮ peace symbolとして収録されている。
 平和運動や反戦運動のシンボルとしても世界中で使われているマークである。
 円の中に鳥の足跡を逆さまにしたような形をしている。
 国際的には「ピースシンボル」や「ピースサイン」として知られる。

 1958年にイギリスの反核運動「核軍縮キャンペーン」(CND)で使用された、核による消滅の脅威を表すシンボルが起源となっている。
 1960年代のアメリカの反戦運動で広く採用され、一般的に世界平和を表すものとして再解釈された。
 しかし、1980年代になっても、原子力発電に反対する活動家の間では、本来の反核の意味で使われていた。

 《歴史》

 ▼起源

 このマークは、芸術家・デザイナーのジェラルド・ホルトム(1914年-1985年)がデザインしたものである。
 ホルトムは、1958年2月21日に直接行動委員会(DAC)に対してこのマークを提出し、同年4月4日に行われるロンドンのトラファルガー広場からバークシャー州オルダーマストンの核兵器研究機関までのデモ行進のシンボルとして即採用された。
 ホルトムのデザインは、エリック・オースティン(1922〜1999)がセラミック製のラペルバッジに採用した。
 オリジナルのデザインは、イギリス・ブラッドフォードの平和博物館にある。
 このマークは、手旗信号の"N"と"D"を重ね合わせたもので、「核軍縮」(Nuclear Disarmament)を意味する。
 これは、1958年4月5日付の『マンチェスター・ガーディアン』紙に掲載されている。
 このほか、ホルトムは、ゴヤの1814年の作品『マドリード、1808年5月3日』(別名『プリンシペ・ピオの丘での虐殺』)を参照していると語っている。

 ホルトムはゴヤの『マドリード、1808年5月3日』を参考にしたと言っているが、この絵に描かれた農民は、腕を下にではなく上に伸ばしている。
 ホルトムの代弁者だったケン・コルスバンによると、ホルトムは平和の象徴を絶望の象徴として描いたことを後悔するようになり、平和は祝福すべきものだと感じて、このマークを反転させたいと考えたという。
 エリック・オースティンは、「『絶望のジェスチャー』のモチーフが、長い間『人間の死』を連想させ、円が『生まれてこない子供』を連想させることを発見した」と言う。
 このマークはDACを支援した核軍縮キャンペーン(CND)がロゴとして使用し、CNDが配布したこのマークのバッジを身につけることは、イギリスの核軍縮を求めるキャンペーンへの支持の証となった。
 CNDの初期の歴史についての説明では、このイメージを「(オルダーマストンの)行進、そして後にはキャンペーン全体を結びつける視覚的な接着剤...おそらく世俗的な目的のためにデザインされた、最も強力で記憶に残り、適応性のあるイメージ」と表現している。
 なお、平和を象徴するハトの足跡のデザインとされることがあるが、これは事実ではない。

 ▼国際的な受容

 このマークは、著作権や商標などの制限を受けていないため、CNDを超えて広がり、より広範な軍縮運動や反戦運動にも採用された。
 1958年、平和活動家のアルバート・ビグロー(英語版)がピースマークの旗をつけた小舟を核実験の近くまで航行させたことで、このマークはアメリカで広く知られるようになった。
 1960年から1964年にかけて、アメリカ各地の大学のキャンパスで何千個ものピースマークのバッジが頒布された。
 1968年までに、このマークは一般的な平和の象徴として採用されており、特にヒッピー運動やベトナム戦争への反戦運動と関連していた。
 1970年、2つのアメリカの民間企業が、ピースマークを商標として登録しようとした。
 特許庁長官のウィリアム・E・スカイラー・ジュニアは、このマークは「特許庁による登録の対象となる商標として適切に機能しない」と述べて申請を却下した。
 1973年、南アフリカ政府はアパルトヘイトに反対する人々がこのマークを使用することを禁止しようとした。

 ▼虹色の旗(平和の旗)

 国際的に、虹色に「平和」を意味する単語を書いた旗は平和の旗とみなされている。
 この旗は、イタリアの平和主義者で社会哲学者のアルド・カピチニが1961年にペルージャからアッシジへの平和行進を行った際に初めて使用された。
 イギリスの平和行進で使われていた平和旗からヒントを得たもので、ペルージャの女性たちに急遽、色のついた細長い布を縫い合わせてもらった。
 この行進は、1961年以降何度も行われ、最近では2010年に行われた。
 オリジナルの旗は、カピチニの協力者であるLanfranco Mencaroniがトーディ近郊のCollevalenzaで保管している。
 この旗は虹色の7本のストライプで、中央に"Peace"の文字が入っているのが一般的である。


 この旗のデザインについては、次のように説明されている。

 大洪水の記述において、神は二度と大洪水を起こさないことを約束し、その契約の証として、空に虹をかけた。
 虹は、地と空、ひいては全ての人間の間の平和の象徴となった。

 旗の色は通常、上から紫、藍、青、緑、黄、橙、赤となっているが、青の下に紫のストライプが入っているもの、上に白のストライプが入っているものもある。
 カピチニが製作した最初の平和の旗では、赤、橙、白、緑、紫、藍、ラベンダーとなっている。

 ▼歴史

 イタリア

 ◆冷戦期

 最初の平和の旗は、1961年9月24日の第1回「ペルージャ-アッシジ平和行進」(it:Marcia per la Pace Perugia-Assisi) に現れた。
 この行動は、哲学者で非暴力主義の平和運動家であったアルド・カピチニらが呼びかけたものだった。
 イギリスの核軍縮キャンペーン(CND) は1958年から、オルダーマストンの原子兵器研究所(AWRE) での実験に反対する「ロンドン-オルダーマストン平和行進」を始めていた。
 カピチニは、その行進に登場したCND の旗に触発され、ペルージャの友人と共にさまざまな色の帯を縫い合わせた旗を作り、1961年のイタリアでの行動に持参したのだった。
 現在この旗は、アルド・カピチニの友人で彼と行動をともにした Lanfranco Mencaroni によって、ペルージャ県トーディのコレヴァレンツァに保存されている。

 ◆イラク戦争開始前後

 2002年9月、Emergency、Libera、Rete di Lilliput、Tavola della Pace の4団体が呼びかけて、イタリア政府のイラク戦争参戦を阻止するために「イタリアは戦争に参加するな」 (Fuori l'Italia dalla guerra) キャンペーンを開始した (数百団体が賛同)。
 このキャンペーンの一環として、「全てのバルコニーに平和を! - 街を平和で染めよう」 (Pace da tutti i balconi! - Dipingiamo di PACE le città) キャンペーンを行い、生活協同組合や労働団体の支援も得て、平和の旗を全国の都市で配布した。

 たくさんの家でバルコニーや窓に平和の旗が掲げられた。平和の旗による反戦の意思表示は広範なひろがりを見せ、ホテル、教会、市庁舎などの公共施設でも掲げられるようになった。
 2003年3月末までにイタリア全土で250万枚以上が配布されたとされる。
 2002年11月フィレンツェでの世界社会フォーラムや、2003年2月のローマ (参加者300万人) 、2003年3月のミラノ (同70万人) をはじめ、イタリア各地の反戦デモンストレーションで、平和の旗が用いられた。

 ◆ヨーロッパ

 スイスのイタリア語圏では早くから普及していたが、2003年2月、軍隊なきスイスのためのグループ (GSoA/GSsA/GSsE) が組織的にスイスへの輸入と頒布をはじめ、ドイツ語圏やフランス語圏でも広まった (同年4月末までに60,000枚以上を扱った)。
 また、ドイツやオーストリアでも他のグループが活動し、ドイツ国内では少なくとも50,000枚が頒布された。
 このころから、ドイツ語、ヘブライ語、アラビア語の平和の旗も制作されはじめる。
 なお、特にヨーロッパでは、過去のユダヤ人迫害への反省と現在のパレスチナ問題との両方への問題意識から、ヘブライ語とアラビア語の旗はしばしば並列した形で用いられる(例)。

 ◆日本

 「すべてのバルコニーに平和を!」キャンペーン以降、現地を旅行した個人が持ち帰ったり、現地の知人から譲り受けたりすることで、日本でも認知されるようになった。
 イタリアに本拠を置くベネトンが、このころ世界各地の拠点に平和の旗を配布したため、ベネトン・ジャパン社でも店内ディスプレイに使用する支店があった。
 個人輸入でイタリアや隣国スイスからまとまった数を入手して配布する者や、自作する者も現れた。
 2004年1月に有志によるぴーすばたプロジェクト(2004年夏にぴーすぐっづプロジェクトに発展)が活動を始め、日本での工業的な量産と頒布を行った。
 2004年3月までに日本全国の少なくとも37都道府県67市町村と一部海外に400枚を超える平和の旗を頒布した。
 後身の「ぴーすぐっづプロジェクト」が2006年9月に「冬眠」を宣言して活動を停止するまで、「PEACE」の旗約1600枚、「سلام」の旗約300枚などを有償頒布した。
 生活協同組合コープかごしまは、「PEACE」の文字をあしらった「平和の虹の旗」を製造し、2004年3月から組合員に供給した。
 ほかにも、多くの団体や個人が平和の旗や、それに意匠を借りたステッカー、シール、バッジ、絵はがき、画像データなどを制作している。
 現在、平和の旗は、必ずしも組織に属さず特定の思想的背景にも依らない市民が、個人として平和への意思を表示し、行動を起こす際のシンボルとして、日本ではある程度定着している。

 ▼Vサイン(ピースサイン)

 Vサイン
(英語: V sign、victory hand)

 人差し指と中指を、指先を離すようにして伸ばし、他の指は折ったままにする手のジェスチャー。
 文化的文脈やその形をとる手の提示の仕方などによって、様々な意味をもっている。
 特に、第二次世界大戦中の連合軍側の陣営においては、「勝利 (victory)」を意味する「V」の字を象った仕草として広く用いられた。
 イギリスや、それと文化的なつながりの深い地域の人々の間では、手のひらを自分の方に向ける形でこのサインを示し、相手への敵対、挑発のジェスチャーとする。
 また、多くの人々は、単に数字の「2」を意味してこのサインを用いる。
 1960年代以降、Vサインはカウンターカルチャー運動の中に広まり、通常は手のひらを相手側に向ける形で、ピースサインとしても用いられるようになった。

 《使い方》

 Vサインの意味合いは、ある程度までは、手がどのような位置で提示されるがによって異なってくる。

 ・手のひらがサインをする者自身に向いている場合、すなわち、手の甲が相手に向けられる場合は、次のいずれかを意味する。
 侮蔑として。
 この使い方は、おおむねオーストラリア、アイルランド、ニュージーランド、南アフリカ共和国、イギリスなどに限定されている。
 アメリカ手話における、数字の「2」。

 手の甲がサインをする者自身に向いている場合、すなわち、手のひらが相手に向けられる場合は、次のいずれかを意味する。
 数字の「2」。
 非言語コミュニケーションにおける量の表現として。
 特に戦時下や、何らかの競争における「勝利 (victory)」。
 これは、1941年1月にベルギーの政治家ヴィクトル・ド・ラブレー(フランス語版)が、ベルギー人たちに統一のシンボルとしてこのサインを用いるよう呼びかけたことが、普及の最初の契機となった。
 当初はもっぱらベルギー人たちの間で用いられていたが、程なくして他の連合軍側の兵士たちもこれを真似るようになった。
 時には、両手にこのサインを作り、それを高々と挙げることもあり、アメリカ合衆国大統領であったドワイト・D・アイゼンハワーや、それを真似たリチャード・ニクソンが、この仕草をしばしばしてみせた。
 「平和 (peace)」ないし「友人/味方 (friend)」。世界各地における平和運動やカウンターカルチャー運動のグループなどが用いている。
 1960年代にアメリカ合衆国における平和運動から広まったもの。

 二指の敬礼 - ポーランドでは、一定の条件の下で、右手の人差し指と中指を揃えて伸ばす敬礼をする。
 また、ボーイスカウトの幼年組織であるカブスカウトでは、右手の人差し指と中指の先を広げて伸ばす敬礼をする。
 アメリカ手話における、文字の「V」。

 ・動きを交えて用いる場合、次のいずれかを意味する可能性がある。
 エアクオート – 両手を使い指を曲げ、手のひらを相手側に向ける。
 この手の形は、様々な手話において多様な意味をもっており、アメリカ手話などでは手のひらを下に向けて「look (見る/凝視する)」、上に向けて「see (見える/了解する)」といった意味になる。
 人差し指と中指が、手話話者自身の目を指した後で誰かを指差す場合は、「私はあなたを見ている/注視している (I am watching you.)」という意味になる。
 序数の「2番目」を意味するアメリカ手話は、手のひらを前に出してVサインを作ってから手をひねって返す。

 ▼侮蔑の表現として

 このジェスチャーを、手のひらを自分の側に向けて侮蔑の表現として行なうことは、しばしば(中指だけを立てて手の甲を見せる)ファックサインに相当するものと見なされる。
 この手の形は英語では、
 "two-fingered salute"
 (二指の敬礼)、
 "The Longbowman Salute"
 (長弓の敬礼)、
 "the two"、"The Rods"
 (竿)、"The Agincourt Salute"
 (アジャンクールの敬礼)
 などと称され、さらに、スコットランド西部では
 "The Tongs"(トング)、
 オーストラリアでは
  "the forks"(フォークス)
 などとも呼ばれ、手首や肘からVサインを突き上げる形で示されるのが一般的である。
 手のひらを自分の側に向けるVサインは、イングランドでは久しく侮蔑のジェスチャーであり、やがてイギリスの他の地域にも普及したが、このような意味でのVサインの使用は、おおむねイギリス、アイルランド、ニュージーランド、オーストラリアの範囲に限られている。

 このようなVサインは、特に権力に対する挑発 (defiance) や、
 軽蔑 (contempt)、嘲笑 (derision) を表現する。
 このジェスチャーはアメリカ合衆国では用いられず、オーストラリアやニュージーランドでも既に古風な表現と見なされるようになっており、代わりにファックサインが用いられることが多い。
 侮蔑の表現としての、手のひらを自分の側に向けるVサインの例として、1990年11月1日付のイギリスのタブロイド紙『ザ・サン』は、一面に国旗ユニオンフラッグの袖口から突き上げられたVサインの図を掲げ、その横に「お前のケツにぶち込め、ドロール (Up Yours, Delors)」と見出しを打った。
 『ザ・サン』は、ヨーロッパ中央政府の構想を提唱していた当時の欧州共同体 (EC) 欧州委員会委員長ジャック・ドロールに対して二本指を掲げるよう、読者に呼びかけたのである。この記事はレイシズム(人種主義)だとして批判を集めたが、当時の新聞評議会(英語版)は、『ザ・サン』紙の編集長が、英国の利益のためには卑語を乱用することも正当であると表明したのを受け、苦情を採り上げなかった。

 イギリスでは一時期、「ハーヴェイ(・スミス)(a Harvey (Smith))」という呼称が、こうした侮蔑の表現としてのVサインを意味して用いられたが、これはフランスでは「カンブロンヌの言葉 (Le mot de Cambronne)」、カナダでは「トルドー敬礼 (Trudeau salute)」が、一本指を立てる同様の仕草を意味したことがあったのと同様の現象であった。この呼称は、障害飛越競技の選手であったハーヴェイ・スミス(英語版)が、1971年にヒクステッド全英飛越コース(英語版)において開催されたイギリス飛越競技ダービー (the British Show Jumping Derby) で優勝した際、テレビに映る形でVサインを行なったとして失格とされた(2日後に失格は取り消され、スミスの優勝が再確認された)ことが由来となっている。
 ハーヴェイ・スミスは、同様に公の注目を集めることになった他の人々と同じように、勝利のサイン (a Victory sign) をしたのだと主張した。
 また、時には外国から訪れた人々が「二指の敬礼 (two-fingered salute)」を、それが地元民にとっては不愉快なものであることを知らずにしてしまうこともあり、例えばアメリカ合衆国大統領だったジョージ・H・W・ブッシュは、1992年にオーストラリアを訪問した際、キャンベラで、アメリカ合衆国の農業助成金に対して抗議行動を行なっていた農民たちのグループに「ピースサイン」を出そうとして、結果的に侮蔑のVサインを出してしまった。

 スティーブ・マックイーンは、1971年のモータースポーツ映画『栄光のル・マン』の終幕の場面で、手の甲を外側に向けたイギリス式のVサインを見せている。
 このジェスチャーは、写真家ナイジェル・スノードン (Nigel Snowdon) によるスチル写真に残されており、マックイーンにとっても、この映画にとっても象徴的なイメージとなった。
 『バフィー 〜恋する十字架〜』第4シーズンの「静けさ (Hush)」のエピソード(通算第66話)においては、ジェームズ・マースターズが演じるスパイクが、このジェスチャーをやっている。
 この場面は第5シーズンのオープニングクレジットにも使われている。
 この部分を検閲除去して放送したのは、この番組を夕方の早い時間に放送していたBBC Twoだけであった。

 ◆起源についての俗説

 2007年に出版されたグラフィックノベル『Crécy』で、イングランド人の作家ウォーレン・エリス(英語版)は、「長弓の敬礼」が1346年のクレシーの戦いの際に、退却するフランス人騎士たちに対してイングランド軍の弓兵たちによって行なわれたという想像を盛り込んでいる。
 この物語の中では、イングランド軍の中でも身分の低い長弓兵たちが、1066年のノルマン征服以来イングランド人たちを臣従させてきた、上流階級のフランス人たちに対する怒りと挑発の象徴としてこのサインを用いたとされている。
 しかし、この作品はあくまでもフィクションである。
 広く繰り返し語られている伝説によれば、2本指の敬礼ないしVサインは、百年戦争中の1415年に起きたアジンコートの戦いにおいて、イングランドとウェールズの長弓兵たちが行なったジェスチャーに由来するものとされている。
 この説によると、フランス軍は、イングランドやウェールズの長弓兵たちを捕らえると、弓を引くために必要とされる指を切り落とす習慣があったとされ、このジェスチャーは、弓兵たちがまだ指があるぞと敵に誇示し、あるいは、駄洒落も込めて「pluck yew」(「イチイ(弓の材料)を引く」:yew を同音の you に置き換えると「お前からかっぱらってやる」の意)と挑発するものであったという。弓兵の話の起源は分かっていないが、「pluck yew」の駄洒落の方は1996年に書かれたある電子メールから広まったものと考えられている。

 この弓兵を起源とする説は、信頼できるものではなく、フランス軍なり、他のいずれかのヨーロッパ大陸の勢力の軍勢が、捕虜とした弓兵の指を切り落としたという証拠は何も存在しておらず、当時の一般的な習慣として、生かして捕らえれば大金の身代金が得られた貴族たちとは異なり、戦場で捕らえられた身分の低い敵兵(弓兵であれ、歩兵や、ほとんど武装していない砲兵であれ)は、捕虜としても身代金を得られる価値もなく、即決処刑(英語版)されるのが普通であった。
 伝えられる話の内容にもかかわらず、イングランドにおける侮辱としてのVサインの使用について、曖昧でない証拠といえる最古のものは、ロザラムのパークゲイト鉄工所 (Parkgate ironworks) の前で、撮影されるのは嫌だという意思表示でこのジェスチャーを行なった労働者の姿が映像に残された、1901年までしか遡れない。
 1950年代に子どもたちへの聞き取り調査を行ったピーター・オーピーは、著書『The Lore and Language of Schoolchildren』の中で、子どもたちの遊び場における侮辱のジェスチャーとしては、より古くからあった手を開いて親指を自分の鼻につける仕草 (cock-a-snook) が廃れ、Vサインに置き換わったのだ、と述べている。

 1975年から1977年にかけて、デズモンド・モリスら人類学者たちのグループが、ヨーロッパにおける様々なジェスチャーの歴史と普及の広がりを研究し、乱暴な含意をもつVサインが、基本的にはイギリス諸島の外では知られていないことを明らかにした。
 1979年に出版された『Gestures: Their Origins and Distribution』(日本語版: 多田道太郎・奥野卓司 訳 (『ジェスチュア―しぐさの西洋文化』)において、モリスはこのサインの起源として様々な可能性を議論したが、確定的な結論に至ることはできなかった。

   〔ウィキペディアより引用〕