With the I Ching

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八卦と仏教の八正道は、たぶん同じもの。

2009-11-17 01:49:38 | 占い全般のコラム

易の解釈(とりあえず卦意は終わり、残すは爻意)を進めるにあたり、どうしても中・時・位や理・気について考えざるを得なくて、ここしばらく前進できない苦しみがありました。で、今日(あ、UPする時にはもう昨日か)、旧暦の9月30日になって、ようやく足がかりというか、考えがだいぶ整理できた感じを得たので、やっと筆(タイプ)を進められそうな気がしています。


それはそうと、この過程の中で一つ気づきがあったので、記録しておこうと思います。
タイトルにあるように、「八卦と八正道」についてです。正確に書けば、後天八卦の逆流と八正道は同じプロセスという内容。

後天八卦というのは、別名、文王八卦ともいわれるもので、以下の図のようになっています。

巽(風)

離(火)

坤(地)

震(雷)

兌(沢)

艮(山)

坎(水)

乾(天)

で、八正道とは何かと言うと、単純にいえば、仏教における中道に至るための方法論(実践手法)といったところです。
言い方は訳者によって様々ですが、一般に「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」と翻訳されているようです。

内容についてはWikipediaの「八正道」などを参照していただくとして、ここでは僕が気がついた対照性についてのみ記しておきます。

4.巽(風)
五.正命

9.離(火)
一.正見

2.坤(地)
七.正念

3.震(雷)
六.正精進

5.中
(中道)

7.兌(沢)
三.正語

8.艮(山)
二.正思惟

1.坎(水)
八.正定

6.乾(天)
四.正業


数字を順に追っていくと、後天八卦における九宮の飛泊の原理とは逆流していることが分かります。
この対応関係を確信させた記述が以下のサイトの1ページでした。

サルカールと仏教・・・その3、中道と八正道
(吉見道夫さんのサイトのトップページはこちら→「オルタナティブの探求」)

このサイトを見るまで、僕はサルカール(普通はP.R.サーカーと呼ばれているらしい)という人物を知りませんでした。
でも、書かれている内容を読む限りでは、サルカール(サーカー)という人は非常に卓越していると思います。
ただ、残念なことに既に他界されているとのこと。著作は沢山残されているようなので、ぜひ読んでみたいです。

とにかく、上記のページを読んで、後天八卦と八正道は、その視点は異なるけども同一のことを指していると気がつきました。
かつて八卦九宮とエニアグラム、あるいは聖なる予言などとの対応を見出した時と同様の感覚でした。直感というか直観というか。(※)
Wikipedia内の解説を読んでもピンとこないのですが、吉見さんのページを読むと確かに対応している印象を受けます。

後天八卦が世界の創造の流れ(カバラにいう「流出」の過程)を示しているのに対し、八正道は人間としての進化(深化)の流れを示している。とすれば、両者は形成プロセスとしての順逆(流れの方向性)は違えども、十二因縁(縁起)の法を双方向性で考えているのと同じ関係だと言えるのではないかと思います。または、マヤ暦でいうと「銀河の吸入」と「太陽の排出」の関係。

エントロピー(無秩序さ・乱雑さの度合い)が増大する流れ(一元 → 多様性)と、それが減少もしくは収束していく流れ(多様性 → 一元)。あるいは、意思したことがイメージを伴い、それが形成力をもって現実を作り出す流れと、深海に潜っていくような感じで、次第に精神の内奥に還っていくような流れ。なんにしても、これらは往来とか上り下りを表わしているように思えます。

八正道は、お釈迦様が説いた四聖諦(苦集滅道)の内の「道諦」の実践課程だそうです。でも、聞きなれない言葉で難しいことを考えるのは大変ですし、仏教徒でもない限り、実践に身をおくことは無理です。少なくとも僕はそうです。

ついでに言えば、僕は英語を学ぶと同時に、キリスト教を含む英語圏の文化や風習についても理解を広げようとしています。だからといって、その土地の宗教を信じたりするわけではないのですが、そうした信念の元に生きている人たちと交流するには、必然的に自分の認識の幅というか、許容性を広げておく必要があります。でなければ、つまらないことで対立してしまうことにもなりかねないからです。

話を戻すと、世界に点在するシステムに流れる共通項を抽出してみると、案外と同じようなことを言っていることに気がつきます。そして、人生がどのようなことから構成されているのかを例えば易の八卦を通じて考えたり、エニアグラムや数秘術、聖なる予言などの内容から考えたりすることはできます。

例えば四聖諦も易流に換言すれば、苦=坎、集=離、滅=坤、道=乾のようになるのではないかと思います(坎と離は反対か?)。こうなると、少なくとも僕にとっては、四聖諦として説かれるよりは身近なモノになります。もしかしたら少し軸(本質)はぶれるかもしれませんが。同様に他の人にとっても、自分の理解できる言葉に置き換える作業が必要ではないかという気がします。これは、各時代の人に分かる言葉で伝えることの大切さと言い換えてもいいです。


(※)易と世界各地の精神体系との相関性を知るに及んで

僕は、特定の宗教・信条・システム・世界観・教義といったものに肩入れするつもりはありません。それは易やここで取り上げている仏教に対しても同様です。それらは一つの見方であり実践体系というだけであって、それを絶対視することは他を少なからず排斥する意を伴い、批判合戦や悲劇の闘争の原因となるからです。易を研究してはいますが、易そのものに従属するのではなく、「易と共に」生きるといっているのは、そうした意味合いも含んでいるからです。

また、これらの内容は、それが広まってきた時代背景や地域性、文化や政治的事情などの限界性が絡んでいることが普通で、そこから様々な変遷過程を経ながら形を変えてきている、または変えている最中だとも言えると思います。

ただ、それらの体系には類似する内容、共通した理論などが存在することも確かであり、僕は、そうした時空を超えて普遍的に生きているシステムを探求しているわけです。加えて、できればそうした発見の元に、より実際的な、生活の土台から底上げできるような考え方を具現化していけたらいいなと思っているのです。

易も英語で言えば「変化の書」ですから、常に時代や土地柄、そしてそれを用いる人々の意識によって肉付けは変わります。道教的に解釈されたこともあれば、儒教的に解釈されたこともある。また、そうした哲学的な意義を外して、もっと身近なレベルに噛み砕いて解釈する人もいます。端的に言えば“方便”です。

でも、その骨格とか基礎は世界(宇宙・自然)の共通法則のはずなので、そこが明確に分かっていれば、それぞれで何を装飾しているのか、また不足しているところ(時代や環境における制限によって、分かっていてもできなかった・言えなかったこと等)が何かも自ずと見えてくるだろうと考えます。

そういうことが明らかになれば、無闇に他批判をすることはなくなり、相互理解を深めながら協力して進化(ケン・ウィルバー風にいうと意識の深化)を実現していけるのではないかと思います。

(走り書きだったので、あまりまとまってなくてすみません。)



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