起きた奇跡は陳腐なわけじゃない。それ以前に奇跡じゃないんです。
さて、今日は学校でシスアドのお勉強…
のつもりだったんですが、午前中は頑張ったものの午後はダメダメ。
まあ理由は2つあって、1個は気力が起きなかったこと、
そしてもう1個は、同期の人らと話してたら3時間以上すぎてたからですが(死)。
ただ、教育に関する意識とか、それ以外のことでもかなり
有益に(といってもネタもはさみつつですが)話せて久々に
心地いい時間でしたね。
ここ最近、なかなか思いっきり人と話す時間はとらなかったもので。
やはり、人は恋するため以前に話するために生まれてきたんだなあと。
で、その中でひとつ話題に乗ったこと。
世の中には絶対的な正義、あるいは絶対的な悪があると信じて
やまない人が多すぎるというお話。
ほぼ全ての事柄に関して、世の中の事象、行為、行動などに関して
絶対的にどの視点から見ても絶対的に正しい、あるいは間違っている
ということはないんですよ。
例えば「人を殺す」という概念に関しても、一般的な民主的で
法規の整った社会ではまず禁じられたもの、悪いことですが、
戦争状態の軍事国家においてはそれは最も賞すべきことに変わります。
では戦争が悪か、と問われればそれは人道的な視点に立てば
明らかに悪ですが、国家の意思の如何によってはそれが
正義になるし、命を捨ててでも守らなければならないものになります。
他国への侵略行動を見ても、侵略される側から見れば、
自己の土地、尊厳、権利を強奪されるわけですから当然悪、
しかし侵略する側から見れば、侵略する相手に問題がある場合もあるし、
そうでなくても経済上の利益が上げられる、土地が拡張できるという
資本主義の正義の元に行動しているわけです。
最近の事象で言えば、プロ野球のスト問題にしても、
選手側の言い分は、一般的な主張として見れば道理以外の何者でもないです。
しかし、今ある形を出来るだけ崩さず、という保守姿勢を持つ球団側にとって
選手側の姿勢というのは、利益を阻害するものであり、
球団という一種の企業に楯突いた悪となるわけです。
以上のように、全ての人、企業、国家などのそれぞれには立場があり、
彼らにとってのその立場が、他者にとっての悪となるとしても、
その彼らの尊厳、利益、権利などを守るためには正義と銘打って
主張していかねばならないことはあるわけですよ。
それをどう裁くかは、一般民衆による場合もあるし、裁判による場合もあるし、
お互い争い合って従わせる場合もあれば、お互いで折衝しあって和解することもある。
その時々のケースバイケースで解決法は違うし、解決しないかもしれない。
つまりあくまで正義・悪というのはある一視点から見た結論であり、
それが別の視点から見た場合はその判断も変わることは大いにあるわけです。
…ということがわかってない人がとにかく世の中には多いなとw。
あくまで自己の主張それが全てであると思い、他人の意見に耳を貸さないと。
話を聞いた上でそれでも意見を曲げられない場合もままありますが、
聞く耳も持たず自己の主張それしか発想がなく、そこに議論の余地すら挟まない、
そういう人が多すぎるんじゃないかと。
人は最終的にはその場面場面で様々な判断を下す必要はあります。
そのときに、上記のように他者にとっての不利益になることなどは、
まあかなりの場合ありえるでしょう。
その場面で、そういう考えを持っていられるかどうか、
ここにある意味で真の人の痛みがわかる人なのかなと思いますね。
なんか最後は陳腐なまとめ方で失敗したなと思いつつw。
常に自分としては、そういう多数の視点を持った上での選択を
出来ること、そういふひとにわたしはなりたいw。