日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

言明について

2013年09月01日 | 日記

言明について


A.初めに

 

1.古い話ですが、2011年6月26日に、カントについて書きました。同じ問題

を、今日も取り上げます。

 

2.この時(2011年6月26日)、『実践理性批判』を取り上げ、「ヒュームの批

判」と「カントの弁明」と書きました。

 

3.史実は、カントの『純粋理性批判』の初版出版が1781年です。『実践理性批

判』の出版は1788年です。ヒュームに関しては、『人間本性論 第1巻―知性につ

いて』の出版が1739年です。そして、彼の生存年は、1711年から1776年で

す。つまり、ヒュームはカントの『純粋理性批判』の出版を見ていません。

 

4.しかし、ヒュームとカントの生存年は、前者が1711年~1776年であり、後

者が1724年~1804年です。誕生は十年余の差しかありません。カントは、17

55年には形而上学について書き、1763年には神の存在証明について書きました

(出典:ウィキペディア)。ヒュームの提起は、カントに衝撃を与えました。そのた

め、カントは『純粋理性批判』を書きました。このことが人間の文明史において大きな

意味を持ちます。

 

5.換言すれば、18世紀のヒュームとカントが取り組んだ課題は、現代においても有

意味であり、繰り返し問い掛けられなければならない問題であると、本ブログは考えて

います。この意味で、このブログが、「ヒュームの批判」と「カントの弁明」と書いた

ことは、文明史における人間の課題として、ヒュームとカントの考えたものを扱おうと

する態度を示します。ヒュームに対して示したカントの誠実さとともに、このことを申

し添えさせて頂きたいと思います。

  

B.ヒュームの批判とカントの弁明の再掲

 

ヒューム: 或るものAと他の或るものBの結合は、知覚、論理的正しさ、経験によっ

て与えられる。この認識プロセスを経ないAとBの結合が、例えばAはBであるという

言明において、原因或いは主語Aと、言明の内容或いは述語Bを、媒介するものがない

にもかかわらず、A・Bの必然的結合や、Aのア・プリオリ(先験的)な認識が語られ

るとき、このAの概念そのものは、偽りであり、ごまかしであり、錯覚である。

 

カント:  純粋意志(自由な意志)を具えているような存在者の概念といえば、それ

はノウーメノン(悟性的存在者)的原因の概念にほかならない。そのうえ(この)原因

の概念は、その起源にかんがみて、一切の感性的条件にかかわりがない。しかし(ま

た)このような適用は、常に感性的でしかあり得ないような直観によっては裏付けされ

得ないから、ノウーメノン的原因は、たとえ理性の理論的使用に関しては可能な、また

考えられ得る概念であるにせよ、空虚(無内容)な概念にすぎない。(しかし、)私

は、或る理性的存在者が純粋意志をもつ限り、それ以上のこと―換言すれば、この存在

者がどのようなものであるかを、そのうえ理論的に知ることを要求しているのではな

い。私としては、この概念によってかかる存在者をただこのようなものとして表示し、

従ってまた、原因性の概念を、自由の概念に(そしてまた自由の概念から切り離され得

ないところのもの、すなわち原因性の規定根拠としての道徳的法則に)結びつけるだけ

で十分なのである。そしてそのような結合をあえてする権能は、確かに私に与えられて

いるのである。

  

1.カントはここで、自分がそして人間が道徳的である根拠に、神の存在をあげていま

す。ここに難問が生じます。即ち、神を根拠にした人間の言明は、無証明に成立するか

という問題です。イエス然り、マホメット然り。誤解の無いように申し上げておきます

が、ここで言っているのは奇跡のことではありません。

 

2.イエスはこの神を根拠に数々の言明を行われました。この神の古い祖形は、シュメ

ールのエンリルにあります。これについては本ブログの2011年7月31日の記事、

「モーセの十戒」を参照してください。

 

3.関連して、マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』に目を通しました。当時は気

にも留めませんでしたが、彼の記述は偏見に満ち満ちています。自戒を込めて、資料と

しては薦(すす)められるものではないことを。書き留めておきます。

 

4.ウェーバーは、「この神が、イスラエルに受容された時には、すでにイスラエル以

外でも崇拝されていた。この神を組織的に崇拝したのは、南方でイスラエルと境を接し

ているベドゥイン諸部族やオアシスの諸部族であった」(『古代ユダヤ教 Ⅰ』、みすず

書房 S37 P196)、と書きます。しかし、聖書をよく読めばそうではないことが分か

ります。アブラハムの父、テラがウルを旅立った時、一族には既に神があり、その神

が、モーセの時ヤㇵウェとして顕われられたと言うのが、歴史の正しい文脈です。

 

5.今日のテーマは「言明」についてです。しかし、今日の主題は、神を根拠とした言

明は無証明に成立するかという問い掛けではありません。本題は人の行う言明です。し

かし、その前に、神を根拠とした言明について、少し触れて置きたいと思います。この

言明の許容の分岐点は、それが衆生(しゅうじょう)を救済するものであるか、衆生を

滅そうとするものであるかにあるように思います。

 

6.世に邪宗と云うものは存在します。オーム真理教は、「ポア」という言葉をもっ

て、自宗(自分たち)以外の人間は殺されることがその人間の魂の救済であり、殺す者

は救済者であるという、正邪の逆転した錯誤の世界観を持ち、それを実行しました。

 

7.日蓮の教義の末流を汲む組織であることを主張する宗教法人は、「仏敵(仏法の

敵、仏教の敵)」という言葉をもって、自派の利益を害する人物の社会からの封殺をは

かろうとすることを、その組織の特徴的な性向として持ちます。また日蓮の「折伏(し

ゃくぶく)」の教義は、その教義が先鋭化すると、自派の教団と自己が唯一無二の存在

であり、他者を認めず、他者は「折伏」の対象であるという、きわめて自己本位、且

つ、全体主義の狂信へと人を導く可能性を内在させています。そして、その狂信の行き

着くところは、他者の尊厳と自由主義社会の軽視であり、社会の多様性は失われて行き

す。自由主義者は、日常生活における彼らの合法を装った行動を告発し、人々と社会

を、彼ら(敵を求め、それによって自己維持する集団)から、護(まも)らなければな

ません。その方法として、宗教と政治の分離の観点から、宗教法人の政治活動の禁止

を法として明文化してもよいと思います。その時期が来ているのだとも思います。この

法的措置によっても、個人の宗教活動の自由、政治活動の自由、信教の自由、良心の自

由は、決して、侵害されるものではありません。むしろ、宗教各教団は、政界進出と圧

力団体としての自派の性格を作ることによって自派が得ている利益の道から自分たちを

絶つことができ、宗教本来の心の領域に戻ることができます。そうして宗教は宗教本来

の道に戻り、永田寿康氏の悲劇が起こることもなくなるでしょう。

 

8.神や宗教を根拠にした言明は、上記二例をもってしても、無証明に成立しないこと

を、私達は知ります。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の野心(やしん)は、私達が排除

しなければならない宗教的言明の一つです。そして、こういう野望(やぼう)は、歴史

の中で形を変えて登場してくるということを知らなければなりません。

 

C.現代の言明

 

1.現代の言明は数(かず)限りがありません。紛争のあるところ必ず双方の言い分

(言明)があります。

 

2.現代の世界は、人間達の日々の営為の歴史的蓄積の上に成立しています。

 

3.これ(上記2)は、ヴィトゲンシュタインの言明、「一、世界は、論理的空間にお

ける事実の総和である 世界は成立していることがらの全体である」( 『論理哲学論

考』 法政大学出版局1968 )を、私の言葉に置き換えたものです。

 

3.言明の真贋と取捨の判定は、その言明が行おうとする行動が、人々に、自由と民主

主義を保障し、生きる気概と希望を与えるものであるかどうかにあります。そのように

して、歴史は重ねられ、前へと進みます。

 

4.自由と民主主義はセットでひとつの価値判断となります。民主主義だけでしたら、

中華人民共和国や北朝鮮に限らず、どんな独裁国家も、民主国家だと言います。

 

  

       大空を行く

 

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