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明日香小山田古墳、調査で飛鳥時代最大級の古墳と判明!

2019年02月03日 | 奈良と、神社と、好きなものごと
明日香村にはまだまだ発掘調査が
続いている遺跡はあるもので
今回のニュースは小山田古墳です。

小山田古墳、東西辺が長さ80m超 飛鳥時代の最大方墳か

小山田古墳は、日本の古墳時代の終盤、
7世紀中頃に作られたと考えられています。
被葬者の候補は、蘇我蝦夷または舒明天皇
と、考えられています。

同時代の中で最大級とあれば
その時代の権力を掌握していた人物と考える
のだと思いますが…。

その時の最高権力者が誰だったのか?

実質的に力を持っていたのは蘇我氏で
当時の組織のトップになっていたのは舒明天皇
と言われています。
どちらかの古墳というのは、妥当かなぁと。

記事の中で、橿原考古学研究所の
岡林孝作調査部長は「古墳の規模が小さく
なっていく時代に、巨大な古墳が造られてた」
ということに、注目されているようです。

飛鳥時代に、時代の流れに逆行するような
巨大な古墳が造られた、ということ
なんかとても意味ありげで、そそります〜!


蘇我氏は倒された勢力ですから
勝ち残った側が残した正史の中では
権力をよこしまに掌握していたかのように
書かれていますが、そうではない可能性も
ありますよね。

乙巳(いっし)の変(大化改新の発端)自体、
儀式中に中大兄が丸腰の入鹿を惨殺し、
蘇我邸を急襲することで、権力を握りました。
日本書紀では、天皇をないがしろに専横して
いた家臣を討った、みたいになってますが
実質見れば、中大兄一派の方法は
暗殺のようなことですよね…。
そういう方法を取るのは、勢力的には
かなり劣勢だったからかなぁ、と思います。


被葬者候補の舒明天皇は
中大兄皇子、大海人皇子のパパさんです。
もう一人の被葬者候補の蘇我蝦夷は
入鹿が倒された乙巳(いっし)の変の時に
亡くなりました。

古墳というのは、生前から造られ
亡くなった時にそこに葬られるわけですが…

乙巳(いっし)の変以前
権勢を握っていたのが蘇我氏で
中大兄皇子の勢力が押されていたなら
蘇我一族を差し置いて、時代に逆行していた
巨大な古墳の造営ができただろうか?
と思います。

なので、素直に見れば
古墳を造営していたのは蘇我氏で
政変に敗れてしまったので
出来上がった、または造りかけの古墳を
使ったのは中大兄皇子側、
被葬者は舒明天皇、と考えられるかなぁと。
私見ですが(笑)

なんて、つらつら考えるの楽しい〜

でも、時代に逆行する、というのも
後から見れば、ということなので
逆行と見るのも、どうかなぁと。

と、いろいろ妄想は尽きないです(笑)


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