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コロナウィルス感染拡大で、天平の疫病禍が思い浮かびました ①

2020年04月01日 | 日々のこと
新型ウィルスが日本に入ってきた時、以前読んだ続日本紀に記載の、奈良時代の聖武天皇の御代に、藤原四兄弟も巻き込まれて亡くなった疫病禍を思い出しました。

なんとなく経過が重なるものがあるような?という記憶。

お店も休みで時間があるので、久しぶりに続日本紀を開いてみたら…つい読み込んでしまい、くるみ達のお散歩時間を大幅に過ぎてしまいました。ごめん、ごめん。

疫病の記事があるのは、天平年間なので、2巻です。

続日本紀は、緑の表紙の岩波書店、新日本古典文学体系に含まれています。
古事記や日本書紀は同じ岩波の赤い表紙の古典文学体系に入ってます。

中身はこんな感じ。


右側が原文、左側が書き下し文。
内容をざっと把握するのは、原文の方が早いのですが、注がついてるのは書き下し文の方なんです。注は大変ありがたいです。自分で調べるの大変なので。
でも、ここにどうして注が付いてないのよ〜、という言葉や文も多々あり、
他の人は注がなくてもわかるんかい?!と思ったり(笑)

そんなことより、思い出したのは、
天平2年から9年にかけての記事です。
大まかに記載を述べると以下の通り。

天平2年(730)
春から夏にかけて、近畿地方では作物に影響が出るほどの干魃に見舞われる。
そして、落雷が頻発。建物や山林、人や動物の死亡を伴う被害が出ました。

それは社会にインパクトのある災害のようでした。
この異常気象や災害の前年に、長屋王の変があったことも影響してるかもしれませんが…社会不安を煽るようなデマが流れたり、多くの人々に罪過や幸不幸を説き宗教的な扇動をする者が出たり、反社会的な多数の集会が開かれたり、法に反して兵馬を使った狩猟をする者達や、盗賊、海賊が横行したり…社会情勢も治安も不安定になりました。

そのため、翌年の天平3年に、それらを武力を持って制圧する目的で特別警戒に当たる警備部署が設置され、人員が配置されました。

天平4年、また春から夏にかけて干魃がありました。
川の水が干上がり、作物が殆ど取れないとの報告があり、それで雨乞いの祈祷をしたら8月に雨が降りました。
祈祷の験か?と思われただろうと思いますが…それが今度は大雨大風となってしまい、家々や寺院が壊れるほどの被害が出で、秋も作物の実りを得られませんでした。

天平4年、5年も続けて干魃です。

数年続いて春から夏にかけて小雨、水不足で作物が取れなかったので、近畿四国から他諸国にかけて飢饉となりました。

これだけでも、国家的な危機だったと思いますが、さらに追い討ちのようなことが起こります。

大地震です。

水不足と猛暑と不作が続いた翌年の天平6年に、大地震が起こりました。

建物の下敷きになって圧死する者多数。
山崩れ、川が土砂で塞がり、地割れは至る所に発生したという規模の大地震だ、と書かれています。

想像するに、阪神淡路の震災レベルの地震だったのではないかと思います。
…というより、この地域には、天平のあと何回かこのレベルの大地震があり、その周期の延長に阪神淡路の震災があったのだろう思います。

天平の時代の為政者だった聖武天皇は、こんな災いが起こったのは自分のまつりごとに至らぬことがあるため、このような災いが起きたと、天を畏れる詔を出しています。

聖武天皇のこういう思考は、災異思想、天神感応思想の影響によるものですが…
現代の為政者さん達も、少しは天を畏れる心があってもいいのでは?と思います。

まぁ、それはともかく。
干魃、食糧不足、大地震とあって、さらなる追い討ち…天平7年、とうとう感染症発生です。
疫瘡とあり、天然痘のことらしいです。

以前も読んでいて、なんてことだ、がんばれ日本!がんばれ奈良朝と思いましたが、今回読み直しても、過酷だ、と思います。

現在、日本だけの災害なら、海外からの援助が期待できますが、奈良時代にはそんなことは期待できません。
自力でなんとかするしかない。

自力でなんとかしないといけない、ということは、現在の事態と同じですね。

当時の被害とそれによる人々の困窮困惑、閉鎖感は現在の状況の比ではないと思いますが、でも、学生時代に読んだ時より今回の方がより身近に感じました。

天平7年の疫病は、太宰府管内から始まり、8月の報告では人々がことごとく臥す、と表現されるほどの被害でした。
ことごとく臥す、とはどれだけの感染者があったことか、と思います。

九州を中心に感染が始まり、9月には畿内に感染拡大し、高位の皇族、一品新田部親王が亡くなり、新田部親王の葬儀に舎人親王が派遣されたのですが、11月にはその舎人親王が亡くなります。

舎人親王さんは、新田部親王さんのお見舞&葬儀に行ったことで、伝染したのでは?と推測します。

天平7年は夏から冬まで疫病と不作の災禍に見舞われ、若者も多く亡くなったと記載されています。

ただ、天平8年には干魃や疫病の記載がないので、一旦は、この疫病は収束したようなのですが…。


続く…。


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