人に依存する代表的なものは「共依存(きょういぞん)」と呼ばれるものです。そのまんま「共に依存しあう関係」の意味ですが、学術用語ではないようです。たとえばアルコール依存の夫と妻の関係において、夫から妻への「暴力で発散する」などといった依存の形はわかりやすいですが、一方妻のほうも夫に頼られることでそれを支えている(依存する)面もある、という考え方から始まりました。ドメスティック・バイオレンスでもこの相互依存がよく言われています。
摂食障害では「母と娘の共依存」が問題になることが多いです。実は私としてはこの表現に違和感があります。子どもが母に依存するのは、以前に「赤ちゃんの依存はママのおっぱいから」と書いたように、あたりまえのことだからです。赤ちゃんにとって生きる糧であるおっぱいが「ある時、ない時」で天国と地獄、あるいは晴れの日と大嵐の日(!)、ほどの違いがあることは、多くの研究者が指摘しています。(そういえば551の肉まんはおっぱいに似てますね?)その持ち主である母は、その後も衣食住の面倒を見てくれるのが一般的ですし、こどもが(ここでは特に母だけを問題にします)お母さんに依存するのは当然のことです。いずれ反抗期などの丁々発止を経て互いにある意味のサヨナラを言い、こどもは自立していくのが普通ですが・・・。<o:p></o:p>
すると問題なのは母が娘に依存する状態、ということになります。両者の間にはもちろん母性愛や親子愛などもあるのですが、もう少し本音に近いところには支配欲、所有欲、などといった自己愛はどうでしょうか? 押し付けていませんか?
写真:沖縄那覇空港。ランやポインセチアのツリーが華やか。2007/12/13
斉藤和義は(また~、出た!)「無意識と意識の間(はざま)」で「♪ぼくをこどもにかえして~よ♪」と唄いますが、母のほうは「いいよいいよ、いつまでもこどもでいてね~~」という気持ちが確かにあるのです。「母親じゃないよ、恋人に言ってるんだ」と斉藤さんは怒るでしょうが・・。<o:p></o:p>
そもそも絶対的な立場や力が優位な母は、「お勉強や習い事をしっかりするのは、あなたのためだよ」「あなたが希望するから塾やピアノに行かせているんだから、がんばってね」というせりふを抵抗なく言い、子どもは暗黙のうちに「期待に応えてくれる良い子のあなたが好きだよ」というメッセージを受け取ります。条件付きの愛のやりとりでは、「あるがままの自分でいいんだ」と思えず自尊感情も育ちにくいでしょう。そして期待に応えられなくなった時、ストレスが限度以上になったとき、やっかいな症状はたいてい弱いほうに出てくることになります。<o:p></o:p>
摂食障害者が母との関係性において「食べ物にこだわる」ことは、母の愛がおっぱい=ミルクに象徴されることから見ると自然な流れとも思えます。食べることを拒否することは、ある意味母の愛を受け入れられない状態とも感じます。本音とたてまえがずれているメッセージを受け取る側は、混乱して身動きできない状態になるでしょう。<o:p></o:p>
このような二律背反的(相互に矛盾し対立する)メッセージを幼少時から繰り返しうけている状態では、受け手は統合失調症になる危険性が高い、としてこれを「ダブル・バインド(二重拘束)」と名づけたのはG.ベイトソンです。「二重拘束から逃れるためには、メッセージの捏造を図るか(つまり違うものに変える、妄想する)、そのまま受け入れるか(違う人格が必要となる)、引きこもる(どう考え、どう行動すれば良いかがわからなくなる。そのために引きこもっている人もいるでしょう)という方法しかない」と言っています。これは母と娘、親と子に限ったことではありません。<o:p></o:p>
なにやら怖い話になってしまいました。古来子どもが独立するために、さまざまな通過儀礼が用意されていました。それほどもともと難しいことなのでしょう。だけど現代にあってはこどもの独立・自立、母子分離が本当に難しい環境となっています。特に母はそれを意識することが必要だと、自戒を込めて思うのです。<o:p></o:p>
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