阪神淡路大震災から今日で18年。
震災を知らない人が40%とニュースで言ってた。
そうか、18年経つのか。
半数近くはその震災を知らなくなったのか。
ではここたろの体験をちょびっと書いてみよう。
あの地震当日、大阪の西淀川区におりました。
知り合いの家に泊まっていました。
本当は地震の前日に帰るはずでしたが、もう1泊して帰ろうという事に。
その帰る日の早朝、地震が発生しました。
あまりの揺れに速攻で目が覚めた。部屋全体がグルグル回ってる。
激震の為、怖くて揺れが収まるまで布団の中でひたすら耐えてた。
当時、二階部屋に居ました。一階が車庫の為、床が抜け、下に落ちるのではないかと怖かった。
起きて歩ける様な状態ではなかった。その場から一歩も動けないのです。
揺れが収まり、とりあえず建物は無事だし、生きているので「すごい揺れだったね」とか話していたら
救急車や消防車の音が耳に入ってきた。
いつまで経ってもやまないサイレン。どんどん増えていくサイレンの音。
なんかおかしい。
そう思ってTVを付けてみた。(その地域は停電していなかった)
画面に映った情景を見て「やばい」と思った。
齢十九歳のここたろ。何をしたらいいのか分からない。
取り合えず、家に電話しよう。あと、食べ物の買出しに行こう。
当時、携帯電話は持っていなかった。公衆電話は長蛇の列。
安否を伝えたいので大人しく並ぶ。
交通ルートは麻痺しているので復旧次第帰ると母親に伝える。
食料を買いに近くのスーパーに行くも、棚の商品はカラ。。。。。
どうやって過ごしたのか記憶が曖昧。
今思うと救援物資とか無かったな。知らなかったダケかな?
地震の翌日、風邪を引いたので数日間おかゆで凌いだような気がする。(電気、水道は使えたけどガスはダメ)
電車が一部復旧したので梅田から京都まで出て、そこから実家の鳥取へ帰った。
本当は高速バスを利用していたのですが、復旧の目処は未定でした。
その数年後にも同じ様な震度の地震に合う。
鳥取西部地震。
この時は、ヤバイ!家が壊れたら下敷きになって死ぬ!と思い玄関から逃げようとしたけど
あまりの揺れでその場に立ってるのが精一杯でした。(正確にはカベにしがみ付いていたの)
幸い、家は無事だったので助かりました。
無事だったのでいつか、忘れてしまう出来事かも知れない。
でも犠牲になった人の事を思うと、忘れちゃいけない、と思った。