古宇利島へ行ったのはエモンズに潜れる話が降って湧いてきたからなんだけど。
友達ママ宅を保育園にしてもらって、咲希はご機嫌で待っててくれたので心置きなく潜れたものの。
水深40mもある深場はブランクダイバーの私は行くべきではなかったのです。。。
耳抜けないわ、窒素酔いでグラグラ、視界はちょー狭いわ、浮上中にリバースブロックキマってすごい頭痛。。。
こわ~(*_*)
途中から旦那に寄生虫のようにへばりついて、グダグダのダイビングになって終わり~
以前潜ったエモンズとえらい違い。
沈船なんかあったかね(泣)
こんなハードな慣らしダイビングあっかーん!
おかげで、エモンズもう潜りたくないかもよ~(-_-)
あーあーあー怖かった。
そんな寄生虫な私がぶら下がる中、旦那は今回の彼のミッション撮影に勤しんでたけど。
まぁ、ろくに撮れなかったらしい(笑)
そらそーだー!
けど、やっぱりスゴイ迫力。
エモンズ!
今度は一人で潜ってけろ~
咲希より4日遅くに産まれたお友達宅を訪問してビーチで砂遊び。
同月齢のこの2人の絡みはいつ見ても面白く微笑ましい(^^)
島の裏にあるこの天然ビーチ。
この日はド干潮だったけど、人口的な要素が全くなくて、やっぱり好き。
もう少し水温が上がったら子供は水遊び大人もスノーケルでも楽しめるし、またこの夏いこー!
実は、島へは深場の沈船ポイントのエモンズに潜りに行ったんだけど。。。
妊娠してから二年弱潜ってないブランクダイバーにはちと色々大変でして(*_*)
また、それは後日。。。
もうしばらくは飛行機に乗りたくないし、金欠だしー(笑)
一日目は保育園の保護者会親睦会兼遠足でゆる~く遊んできました。
輪投げしたり、パン食い競争したり、保育士さんが考えてくれた色んな遊びが面白かった~
沖縄ならでわな感じで楽しかったす(^.^)
共に過ごす時間が短くなって悲しい私(T . T)
けど、小さい咲希が気持ちの折り合いをつけながら日々保育園での時間を楽しんでくれるようになっきていて。
私が弱音を吐いてる場合じゃない!
と励まされるという。
オカンしっかりせーよ。。。
保育園の行き帰り、朝の家での時間、帰ってきてから就寝するまでは、出来るだけ咲希が楽しめるように過ごしたいから。
お天気が許せば送りは朝日を浴びながら公園に寄り道したり散歩しながら通園。帰りも何か楽しい事をみつけながら~
歩くことが楽しいようで、今は広場で放牧が定番になりそうだけど、どうやら、そろそろ本人は走れる気がするらしいです(笑)
ここんとこずーっと天気も悪くて肌寒い沖縄。
土曜日は久しぶりの夏日で快晴!
この週は屋内活動ばっかりだった、この人を連れて近場のビーチで砂遊び~
太陽と海風浴びながらビーチでまったり、気持ちがいいっす。
なんなら水にも入りたいから波打ち際までガンガン行くんだけど。。。
まだ水温低いから、引き戻すと怒るという(汗)
今年もいっぱい海にいこー!
少し気持ちが落ち着いたので、迷ったけど書き留めておくことにします。
4月29日(金)20:30頃、家族や孫に看取られて父が他界しました。
享年71歳。
父はとても温和で優しく、一風変わっていて、多くの人には知的な人と言われ、多趣味で心配性の人。
大阪市の公務員として勤め上げ、私を含む兄と妹の子供3人を育て上げてくれました。
基本、」放任主義な人だったとは思うけど、趣味や学業全てにおいて子供たちの希望することに一切反対や口出しすることなく、どんなに心配でもいつも見守り必要なサポートだけをしてくれた父。
今さらながら本当に立派な父親だったと思う。
遊び心がいっぱいの父とは幼少時代から大人になるまで楽しい思い出がたーくさんあって。
子供時代の私はちょーお父さん子で、父が帰宅する時間が待ち遠しくて、夕方になると玄関で帰りを待っていたほど。帰ってくるなり父に飛びついてしばらくベタベタして遊ぶという毎日。食事も父の膝の上で食べて、お風呂も一緒に入って同じ布団で寝るという、どんなけ好きやねん!?ってぐらい好きだったんだなー
小学生の頃の父は社交ダンスにはまっていて(Shall we dance か!)、講師助士にまで成り上がって(笑)私にまでダンスを仕込んでいた。子供だったので、変なダンスの付き合いをさせられながらも、面白おかしく踊る父がまた愉快で楽しかったのを思い出す。
かと思うと大阪市のアマチュア囲碁大会なんかで優勝してきてトロフィー持って帰ってきたり(笑)
休みの日には、海、川、池に魚釣りに行って、飽きたら一緒に泳いでみたり。どんなけ汚くてもおかまいなしに水に入る。
冬は雪山の登山、頂上でお湯を沸かしてカップヌードルを喰らうのがサイコーで。
遊びならなんでも来いの人で、スケートやスキーにもよく連れて行ってもらったし、他にも沢山・・・
どこにいっても子供と同じ目線で、というか、子供並みに結構無茶な遊び方をする父がとにかく面白くて大好きだった。
思春期に少しだけ父親が煙たく感じた時期もあったけど、大学頃からは、やっぱり父と過ごす時間が楽しかった。
父の職場でアルバイトまでさせてもらって、なんなら一緒に通勤までしたり。あの時のオトンは私からみてもうれっそーだったし(笑)
25歳で実家を離れて上京するまで、父とは色んな意味で濃い父娘関係を築けたと思う。
だからなのか、私は父親との関係に後悔する事がない。あの時もっとこうしていれば良かったとか、悔いることが不思議とない。
父が他界した今でもそんな風に思えるのもお父さんのお陰。
現役中は大病も患わずずっと元気な父だったけど、6年前のゴールデンウィークの頃、私が旦那との結婚を決め、東京から沖縄へ移住をするタイミングで父が倒れた。
直腸癌の末期と診断され、その時すでに余命6ヶ月の宣告を受けたにもかかわらず、奇跡的に一度完全治癒。
そんな時期を喜んだのも束の間、1年と少しで肺への転移が見つかり、そこからは3度におよぶ肺の手術に耐え、幾度となく肺炎を患い、何度も生死の境に立った父。
けど、父の生命力は医者もビックリするほど強くて(笑)
闘病期間中も体が動く限りは悪天候でも登山に出かけていた。
ずっと希望を持って生きたいという強い信念と根性(?)で過ごしてきた父。
そんな父も去年の10月に癌が脊椎転移し、下半身麻痺になり寝たきりに・・・
それでも父は弱音を吐くことはなかった。これまで、何度も危機的状況を乗り越えてきた闘病生活だったからこそ、下半身が麻痺していても希望を持ち続け、また、自分の足で歩いて登山をしたいと言いつづけていた。
下半身麻痺から入院となり6ヶ月、最後は緩和病棟へ移ることに。
その後、病状が落ち着いたこともあり2月には一度自宅に戻り在宅医療を試みたもののたった10日間の帰宅で再入院となり、そこから病状が悪化した。
最後の日は母、兄家族、妹に見守られた父。
私は沖縄から電話で声をかけた。出る言葉はありがとうしかない。
父は最後の辛い時でも痛み止めを投入することを拒否した。癌の末期は痛みがキツイ。けど、痛み止め(モルヒネ)を入れるということは意識が朦朧として眠る時間が長くなる。そして、最後は眠ったまま逝くことになる。
父は最後の最後まで辛くても意識を持っていたかったんだと思う。自分の引き際は自分で決める。父らしい選択だと思う。
最後まで家族の声を聞いて会話にならなくても皆の声に反応していた父。
とても、とても強い人。
私は父の最後を看取れなかった。
けど、咲希が産まれたこともあり、育休期間でもあったので、この1年間は6回大阪へ帰省することが出来た。
咲希のお陰で、この1年は何度も父に会うことができ、共に時間を過ごすことができた。
父は咲希の誕生日の1週間後に他界している。
最後の力を振り絞って書いてくれた咲希への誕生日メッセージを残して
-- 咲希、お誕生日おめでとう。自慢の孫です。皆さんから褒めてもらっています。皆さんに祝福を返し、すばらしい人生を皆さんからもらってください --
咲希はじぃちゃんとの想い出は覚えてないけど、産まれてから1歳になるまでの1年間で何度もじぃちゃんに出会い、触れ合うことが出来た。その写真と1歳の誕生日メッセージが咲希とじぃちゃんとの想い出。
まだ毎日、毎日、想う、お父さんのこと。
夜はたまに泣ける。
けど、たまにおかしな事思い出してわらえたりもするけど(笑)
お父さん、沢山、沢山、ありがとう。
これは、姪が魚釣りが大好きだったお爺ちゃんに書いてくれた絵です。
家族みんなで魚釣り♪