サイダーや泡のあはひに泡生まれ 柳生 正名
中日春秋 2019/8/15
https://www.chunichi.co.jp/…/column/syunju/CK20190815020001…
終戦直後、韓国・釜山からの引き揚げ船での出来事を作家の久世光彦(くぜてるひこ)さんが書いている。本当にあった話だという。食べ物をめぐって男たちがけんかを始めた。「争っている男たち自身、情けない、やりきれない思いだったが、それぞれ後へは引けなかった」
▼刃物まで持ち出し、いまにも血を見るというとき、おばあさんが唱歌の「朧(おぼろ)月夜」をつぶやくように歌いだしたそうだ。<菜の花畠(ばたけ)に入日薄れ>-。「周りの何人かがそれに合わせ、やがて歌声は船内の隅々にまで広がっていった。争っていた男たちが最初に泣きだした。みんな泣いていた」
▼終戦の日を迎えた。七十四年前の「朧月夜」の涙を想像し
てみる。複雑な涙だろう。戦争は終わったとはいえ、不安といらだちは消えぬ。日本はどうなっているのか。その望郷の歌がかつての平穏な日々と人間らしさを思い出させ、涙となったか。切ない歌声だっただろう
▼その場にいた人が当時二十歳として現在九十歳を超えている。戦争の過去は昭和、平成、そして令和へと遠くなる
▼そして戦争の痛みもまた遠くなる。それを忘れ、戦争をおそれず、物言いが勇ましくなっていく風潮を警戒する。もし戦争になれば…。せめてその想像力だけは手放してはならない
▼「二番が終わるとまた一番に戻り、朧月夜はエンドレスにつづいた」。船の中の歌声をもう一度想像してみる。
ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅦ「豚」1970を見る聴く(2) 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2019/8/16
「求人」1980を見る聴く、
これは農村の労働に対する、都心の労働、求人に応募した男が、オフィスに、受付の女、真正面からの顔、表情、何を見る、応募した男もまた、何を見る、何を見せる、女の上司、求人の男は、カフェにて、文書を書く、手書き、ビールのカップ、何をしたためる、応募の動機だろうか、そして、此処で、ユスターシュのくわえ煙草、女が、何やら、調べて、書類の纏める、求人の男に対する、合否の作成だろうか、此処でも、煙草はくわえられて、手は動かされる、タイプライター、労働なのだ、前作の農村の労働と、都心の労働、書類を書き、見詰め、語らい、これが労働、そして、一人の男の批評だろうか、評価だろうか、判定だろうか、貧しさ、豊かさ、私たちは、街中では、こんな労働を続けるのだ、
「ヒエロニムス・ボスの快楽の園」1979を見る聴く
さて、此処では、ボスの絵画について語られている、そして、聞き入る者たち、男、女、酒を飲みながら、ここでもまた煙草は吹かされているのだが、余り画面に映されない、なぜならば、手に持たれている、煙草が、なぜなら、語り続けるから、男は一瞬くわえても、直ぐに手に、語りが中心だから、その手は、下に、画面の外に、これは批評、幻想、ボスの絵は、あらゆる世界が描かれて、現実か、象徴か、伝説か、ドラマか、此処で語られる、言葉が、真実とは判らない、そもそもに於いて、絵画の真実とは、描かれたのは、労働、政治、生活、宗教、此処で捉えられている映像は、そんな、絵に対する批評、批評自体は労働か、芸術は、映画は、何を生産している、何も、でも、労働を問うことは出来る、農村の労働を、都心の労働を、そして、過去の芸術を、生活を、今の私たちを、問いかけの中から、相対化、変容、始まり、手の動かし、労働を変えていくのだ、愛を労働せざる時、労働を愛せよ、
このユスターシュの3作は偶然に、上映会場で並べられたのだろうが、作られた、時系列も、順番ですら無いのだが、観てしまうと云うことは、偶然であれ、取り敢えずは己の側に引き込んで、しまうこと、だから自由に楽しんで仕舞え、それもまた一つの権力ではあるのだが、くわえ煙草の反復から、世界を問い、この世界が私たちに問い掛けている、私たちの労働とは、私の労働とは、見るとは、聴くとは、映画に駆けつけるとは、こんな毎日の、わたしいう権力の解体作業、
ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅦ「豚」1970を見る聴く 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2019/8/15
モノクロの世界、農村の小屋、豚が捌かれる、白い美しい豚、男たちの食事に始まる、明け方の農村の小屋、男たちが豚を連れて、押さえ込んで、ナイフが首に、流れる血、瀕死の豚、叫び、蠢き、次第に弱って動かず、皮の毛を剃られ、解体されていく、耳が斬られ、首が切られ、干され、足が切られ、腹が引き裂かれて、贓物が流れ落ちる、多様な贓物、これもまた、伸ばされ、洗われ、後にソーセージ用に、贓物は切り刻まれて、内蔵の長い袋に流し込まれる、かくて、輪に連なったソーセージが、煮られ、干されて、肉は、綺麗に切られて運ばれて、老婆が、パンを抱えて小屋の中に、いつも、パン屋さんが運んでくるのだろう、少女を抱いた旦那さん、役人だろうか、地主だろうか、幼い少女の顔、男たちの手仕事、ユスターシュ映画では、いつも煙草が口にくわえられて、煙草を吹かしながら、手を動かす労働、切り刻み、見事に捌ききるのだ、こうして夕餉、酒、歌、憩い、夜の小屋、灯り、煙、語らいと歌と、部屋の中にはテレビも、だが、映されはしない、豊かさ、貧しさ、質素、畑仕事の老婆の姿、老人と老婆と男たちと旦那と少女、女たちは何処に、出稼ぎ、嫁には誰も来ないのだろうか、老夫婦と息子たちなのだろうか、映像の素晴らしさ、貧しさ、豊かさ、だが、何が貧しいのだろうか、何が豊かなのだろうか、労働、
ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅥ「少女デドゥナ」を観る聴く 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2019/8/14
山間の村の中、少女と父親、食事、少女は学校へ、そこに響き渡る音、上空を飛ぶヘリコプター、これは近代化、革命、彼方より現れるもの、時には神、山間の村に何が、舞い降りるヘリコプター、見詰める少女、一人学校に、廊下、教室、机の上に椅子が乗せられて、帰りには清掃のため片付けられているのだろうか、しかし、少女しか居ない、他の子供たちは、これから登校するのか、教師は、かくて、学校のシーンから家の中に、少女が学校から戻っての時間なのだろうか、一人の少年が、父親に連れられて、食事でもてなす、用意する甲斐甲斐しく働く少女、遠慮がちの少年、父親が、困り果てた少年を連れ来たった、翌日か、父が出掛けて、残された子供たち、少年は鍵を修理し、蓄音機まで直してしまう、賢いのだ、戻った父親の笑み、感心するのだ、馬で父は少年を後ろに乗せて連れて行く、別れ、少女と少年の別れ、僅かの間に、気心が知れて、恋すら芽生えたのではなかったか、少女は学校に、近所の一人暮らしのお祖母さん、語りかける少女、こんな日常の会話が唯一の慰めでは無いのだろうか、学校では、四重奏団の演奏、死と乙女、シューベルト、聞き入る子供たち、演奏が終わり、舞台に一人、舞台の上の少女は、何を思う、憧れ、夢、幻、革命、権力、抑圧、豊かさ、貧しさ、少年はお礼にか、少女のために、少年が捉えたか、鳥の入った大きな鳥かごを持って訪れる、屋敷を巡っても誰も居ない、少女は学校なのだ、玄関の扉の内に置いて帰る少年、少女、ヘリコプター、帰り道、去って行く、響きを上げて、だが、ならば、このヘリコプターの飛び立つときの時制は、始まりのヘリが舞い降りる日時と、終わりのヘリコプターが舞い飛ぶ時間、同じ日なのだろうか、ならば、少年との場と間は、一人少女の思い立った時空とも、過去が挿入された、未来が舞い降りた、そして、ヘリコプターは、彼等は何をもたらした、この山間の世界に、屋敷に戻ると、玄関に鳥かごが、少女もまた、この鳥かごの鳥かも知れないのだが、何処にも、いけないままに、そんな、少女の、佇む、奥を、馬だろうか、ゆっくり横移動、これが、答えか、あのヘリコプターののような、地響きをあげた、縦移動、近代化とは遠く離れて、地道に、ゆっくりと、ゆったりと、己の道を歩むのだ、何処までも、何時までも、馬に跨がった父と少年の疾走と共に、地に足をつけて、確かに、死と乙女という音楽はもたらしはした、だが、それでも、少女たちのゆっくりとした歩みはいかに、この覚悟こそが、この自覚こそが、革命なのだから、少女と少年の革命は、かくて、始まりだ、何度でも、