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心のたねを言の葉として

「戦後新左翼と新自由主義」             関川宗英

2020-11-13 06:28:37 | 新自由主義

「戦後新左翼と新自由主義」             関川宗英

 

 

『丸山真男と戦後民主主義』(清水泰久 2019年 北海道大学出版会)から、戦後新左翼の崩壊と新自由主義への流れを、メモとしてまとめておく。

 

 

 1969年1月、東大安田講堂にこもった学生たちは、機動隊と対峙。その激突は二日間続き、テレビで放映された。

「安田講堂にこもった学生たちがひとりひとり捕らわれていく。放水にずぶぬれになり、ヘルメットのかげの幼いそのほおに血をしたたらせながら、何が彼らをそうさせるのか」と歌人の近藤芳美は書いている。(朝日歌壇690202)

 鶴見俊輔ら61人の学者は、東大共闘会議を支持する声明を発表。
「加藤代行を筆頭とする東大執行部の諸氏、これに追従する多数の教官諸氏。政府権力の暴力の下に身をゆだねようとする貴方方には、学問・研究の自由を説く資格はおろか、一人の教師としての基本的良心をも認めることはできない」と教育者の良心を質している。


 しかし、そんな鶴見俊輔らに対し、学生の暴力が許せない丸山真男は、
「日に日に激化する内ゲバ問題になっていたにもかかわらず、論壇知識人も「新左翼」知識人も、一言半句内ゲバ問題を批判しないで、安田城の「英雄的」闘争を讃美していた」と東大闘争の20年後に書いている。

 

 安田講堂事件の前段、1968年12月、東大共闘会議の学生たちは、法学部研究室におしかけ、丸山真男ら教授たちを引きずり出し、研究室を封鎖した。その時、丸山真男は学生たちに向かってこう言ったという。
「諸君のやろうとしていることは、ファシストも軍国主義者もやらなかったことだ。諸君を憎しみはしないが、軽蔑する」。


 学園紛争のさなか、吉本隆明は、丸山真男のような「大学教授」を「社会的に偉いものだという無意識の思い上がりがある」と批判していたが、機動隊導入となった安田講堂事件の前日、中央大学の自主講座で次のように語っている。
「どたん場において、最もラジカルな部分を警察機動隊に売っておいて、学園紛争を収拾しようとする技術的な態度をとったことで、思想原理、つまり市民主義原理が完全に放棄された」
「戦後民主主義は、現在の学園紛争の中で、思想的に完全に終わったといっていいのではないか」。


 安田講堂事件の後、「戦後民主主義」を告発する声が相次いだ。
「東大事件は、戦後民主主義に止めをさすものだったと人はいう。私もそう考える。「平和」と「民主主義」のタテマエのもと。「職場の平和」「マイホームの平和」を保守し、「出世の民主主義」「話し合いの民主主義」を進めてきた結果が、学生を機動隊にリンチさせる組合、「東大の自由」を守るために国家権力に頼るリベラルな教授たちを生んだのだ。…熱弁をふるった教授たち。この人たちが、ひとたび自分たちが抗議の対象となり、自分たちの政権(椅子)が危なくなるや、たちまちにして暴力による圧殺をはかった」(高畠通敏 「東大事件と声なき声」)。

 

 

 

 60年安保闘争、国会前では連日デモが繰り広げられた。
 学生や一般市民も連日国会周辺に集まり、デモを行った。
 国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。
 ヘルメットも角材もない、非武装の平和的なデモだったという。
 権力側は、右翼団体ややくざも動員して、暴力的にデモを弾圧する。
 そのさなか、樺美智子が機動隊との衝突で死んでしまう。
 当時の共産党は、国会突入をはかった樺美智子ら全学連をトロツキストと非難した。

 


 70年安保に向けて学園紛争が盛り上がるなか、反日共系の学生たちは暴力を容認するようになっていく。
「今こそ情況を剔抉する暴力の思想性を深く把握するべきである。「理性の府」を真に暴くのは暴力以外にない。またそれを倒すことも暴力のみがなし得る。そして我々の暴力を支えるのは、人間の抑圧、疎外に対する怒りなのだ」(東大全学助手共闘会議 「封鎖闘争宣言」)


 安田講堂事件は、70年安保の敗北であり、戦後新左翼の崩壊を象徴するものだ。

 その後、新左翼は内ゲバをさらに激しく繰り返すようになる。
 犯罪白書によれば内ゲバ事件(1968年~2000年)は件数2020件、死者97名、負傷者5429名となっている。

 1972年 浅間山荘事件。

 1974年 連続企業爆破事件。

 1977年 ダッカハイジャック事件。

 過激な事件は続くが、新左翼は壊滅していく。

 


 

 たとえ暴力を使ってでも、「人間の抑圧と疎外」からの解放をなしとげようとした学生たち。

 機動隊を大学に入れて、暴力学生を排除し、大学の自治を守ろうとした教授たち。

 民主主義を語れなくなった知識人たち。

 

 


 「高度経済成長による日本社会の変化と、民主主義が名ばかりの建前になった議会政治の妙な安定」と、あとがきに清水泰久は書いている。

 

 1969年、安田講堂事件。

 1973年、アジェンデ政権の崩壊。

 チリのピノチェト軍事政権は、新自由主義的な政策を取り入れ、経済の復興を図ったという。

 その後、サッチャー、レーガン、中曽根康弘など、世界中で新自由主義勢力は台頭した。

 今もその力を伸ばし続けている。

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