chuo1976

心のたねを言の葉として

「猫の墓」 夏目漱石

2020-05-02 03:40:22 | 文学

「猫の墓」                                 夏目漱石

 

  早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気配がない。日が当ると縁側に寝ている。前足を揃えた上に、四角な顎を載せて、じっと庭の植込みを眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。小供がいくらその傍で騒いでも、知らぬ顔をしている。小供の方でも、初めから相手にしなくなった。この猫はとても遊び仲間にできないと云わんばかりに、旧友を他人扱いにしている。小供のみではない、下女はただ三度のめしを、台所の隅に置いてやるだけでそのほかには、ほとんど構うことはなかった。しかもそのめしはたいてい近所にいる大きな三毛猫が来て食ってしまった。猫は別に怒る様子もなかった。喧嘩をするところを見た試しもない。ただ、じっとして寝ていた。しかしその寝方にどことなく余裕がない。のんびり楽々と身を横に、日光に当たっているのと違って、動くべきせきがないために――これでは、まだ形容し足りない。ものうさの度をある所まで通り越して、動かなければ淋しいが、動くとなお淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。その眼つきは、いつでも庭の植込みを見ているが、彼はおそらく木の葉も、幹の形も意識していなかったのだろう。青味がかった黄色い瞳を、ぼんやり一つ所に落ちつけているのみである。彼が家の小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在をはっきりと認めていなかったらしい。
  それでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。するといつでも近所の三毛猫から追っかけられる。そうして、怖いものだから、縁側を飛び上がって、立て切ってある障子を突き破って、囲炉裏の傍まで逃げ込んで来る。家のものが、彼の存在に気がつくのはこの時だけである。彼もこの時に限って、自分が生きている事実を、満足に自覚するのだろう。
  これが度重なるにつれて、猫の長い尻尾の毛がだんだん抜けて来た。始めはところどころがぽくぽく穴のように落ち込んで見えたが、後には赤肌に脱け広がって、見るも気の毒なほどにだらりと垂れていた。彼は万事に疲れ果てた様子で、体をおし曲げて、しきりに痛い局部を舐め出した。
  おい猫がどうかしたようだなと云うと、そうですね、やっぱり年を取ったせいでしょうと、妻はとても冷淡である。自分もそのままにして放っておいた。すると、しばらくしてから、今度は三度のものを時々吐くようになった。咽喉の所に大きな波をうたして、くしゃみとも、しゃくりともつかない苦しそうな音をさせる。苦しそうだけれども、やむをえないから、気がつくと表へ追い出す。でなければ畳の上でも、布団の上でも容赦なく汚す。来客の用意にこしらえた座布団は、おおかた彼のために汚されてしまった。
 「どうもしようがないな。腹の調子が悪いんだろう、宝丹でも水に溶いて飲ませてやれ」
  妻は何とも云わなかった。二三日してから、宝丹を飲ませたかと聞いたら、飲ませても駄目です、口を開きませんという答をした後で、魚の骨を食べさせると吐くんですと説明するから、じゃ食わせんが好いじゃないかと、少しぶっきらぼうに云いながら書見をしていた。
  猫は吐気がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。この頃では、じっと身を竦めるようにして、自分の身を支える縁側だけがたよりであるという風に、いかにも切りつめたうずくまり方をする。眼つきも少し変って来た。始めは近いところに、遠くのものが映るごとく、ぼんやりとしていながらも、どこか落ちつきがあったが、それがしだいに怪しく動いて来た。けれども眼の色はだんだん沈んで行く。日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした。けれども放っておいた。妻も気にもかけなかったらしい。小供は無論猫のいる事さえ忘れている。
  ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾に腹這はらばいになっていたが、やがて、自分の捕った魚を取り上げられる時に出すような唸り声を挙げた。この時変だなと気がついたのは自分だけである。小供はよく寝ている。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛じられちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢の袖を縫い出した。猫は折々唸っていた。
  明くる日は囲炉裏の縁に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注ついだり、薬缶やかんを取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪を出しに行った時は、もう硬くなって、古い水瓶の上に倒れていた。
  妻はわざわざその死にざまを見に行った。それから今までの冷淡にひきかえて、急に騒ぎ出した。出入りの車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いてやって下さいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏にこの下に「稲妻起る宵あらん」としたためた。車夫はこのまま、埋めても好いんですかと聞いている。まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷ひやかした。
  小供も急に猫を可愛いがり出した。墓標の左右に硝子の罎を二つ活けて、萩の花をたくさん挿した。茶碗に水を汲んで、墓の前に置いた。花も水も毎日取り替えられた。三日目の夕方に四つになる女の子が――自分はこの時書斎の窓から見ていた。――たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて手に持った、おもちゃの杓子をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水のしたたりは、静かな夕暮の中に、幾度か愛子の小さい咽喉を潤した。
  猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥の上へ載せておくようである。

(『永日小品』 夏目漱石)

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