chuo1976

心のたねを言の葉として

レプラの告知   加賀田一

2021-12-23 04:42:59 | 文学

レプラの告知   加賀田一

「いつの日にか帰らん」P64~P66抜粋


 私が異常に気付いたのは目の上に出た赤い斑紋と、左の足の三センチくらいの赤い斑紋でした。日赤病院に行くと、「午後に特別診察するから待ってくれ」と言われました。その午後、たくさんの医師が私を取り囲み、幹部を筆や針で触って私の反応を見ました。それが診察方法でした。ハンセン病の一つの特徴は神経の麻痺です。私は筆にも針にも刺激を感じませんでした。

 五、六人の医師に囲まれたなかで、「あなたはレプラです。分かりますか、この言葉?」と言われました。私は「レプラ」が「癩病」であることをなぜか知っていましたから、ガツンと木刀のようなもので殴られたような気がして頭の中が真っ白になりました。

 その後、覚えているのは交差点に停まっている電車にぶつかって、車掌に怒鳴られたことだけです。十九歳の私がまず思ったのは、レプラに罹ったら家族、親族に迷惑をかけることになるということでした。

 私は大阪に来てから、四天王寺の参道でハンセン病の人たちの姿を見ていました。保健衛生行政のいう「浮浪癩」がそこにはいっぱいいて、生きるために物乞いをしていました。「これはひどい人たちがおるな」と衝撃を受けました。見た目の印象というのは大きいものです。当時は不治の病でしたから、徐々に顔が変形し、悪臭が出て手指も欠落します。その上、義足でした。そしてそれらの症状が直接の死因になることはありません。

 それが立場が逆になったわけです。若いときにそういう人を見たときの感情、気持ちというのは覚えているので、差別の感情が分からないことはなかったわけです。

 私がその病気だと宣告されたのですから身体全部をこの世から消してしまいたいという不思議な感覚でした

 その午後をどこでどうしていたのかよく覚えていませんが、夜、港でしゃがんでいるところを、見回っていた警官が声をかけ交番へ連れて行ってくれました。自殺する気だったのかもしれませんが、とにかく命は助かった。もう夜中でしたから、タクシーで帰り、あくる日になって薬をもらわなかったことを思い出しました。

 レプラでも薬がないことはないと思い直し、もう一度日赤病院に行きました。受付けの人がすぐに「あっ、裏へ回ってください」と言って私を連れ出しました。連れて行かれながら「病院の裏は汚いところだなあ」と思った記憶がなぜか鮮明に残っています。

 そこで「あんたはここでは診療できません。岡山県の長島に専門の国立病院があるので、そこへ行ってください」と言われました。「療養所」ではなく、はっきり「病院」と言いました。私は「島」という言い方から「これは島流しかな」とも思いましたが、どっちにしろ一度行ってみて、それから身の振り方を考えようと決めました。そしてその前に一度、母にだけは言わなければならないと思い、鳥取に寄ったのです。

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