鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

さて出かける準備をしないといけない。

2008-04-25 12:12:29 | 直言!
連休はゆっくりしたいために明日から2・3日正念を入れて仕事の原稿を作らないといけない。28日は父親に法事である。いつも何かと重なってこの2年行かないで法事代だけを渡してきたが今回は仕事もないので行かないといけない。
寒い時の法事よりましだ。そして29日は休み前なので助かる。
朝、ブログを作って朝寝すると少し体がすっきりした。
なぜあんなに疲れていたのだろうか。
PTAのOB懇親会もそろそろおいとましようと思うが-----。
誘って下さる人の気持を大切にして参加している。
人間関係はいろいろある。
まさか私が奈良県の雑誌記者になるとは思っていた人は心少なからず思っていただろう。そしてすぐに辞めるとも思っていただろう。それが地方紙の方々や雑誌編集局の上司たちが私を育てようといろいろ細部に渡って教えてもらったことで長く続けることができた。それでも自分の出自に悩んで思い切って韓国語を習いに行った。
そこで出会った韓国政府派遣教師がまた私を在日韓国人の新聞社に入れた。
劣悪の環境と同僚との関係も耐え忍ばないとこの仕事は続けられないほど環境が悪かった。しかしここでも見もって私を育てようとする人が多くいてくれた。

PTAの役員時代からの知っている友人・知人たちからは辞めるとばかり思っていた雑誌記者をやっと退職したので中には「やっぱりやめたわ」と自分たちで噂をしあっていたが私は黙った。心のもやもやの意味が分かるまで黙った。
ただ韓国そして自分に目覚めたことと雑誌編集局の女子事務員のいじめは韓国語を習いだしてからもっと酷くなったことが耐えられなかったことも原因だった。私と他の人5人で作ったペングループの中の1人、嫉妬心がきつかった。
奈良県で有名になっていく私には心底、嫉妬心で燃えていた。
そしてあちらこちらに電話をかけまくった。
「あの人韓国人ですよ」
「それがどうした。何か問題があるのか」と言って上司たちが私を庇う。そしてまた嫉妬はまたまたエスカレートした。
ほのかに憧れていた人とのことを今度はありもしないスキャンダル風に書いてそれをコピーして周りに配った。しかし周りの人たちは私と相手の人に気づかって私には誰一人見せなかった。
こんな酷いことをした人がPTAのOBの懇親会の中にいる。
しかしこれとは別と考えて友人たちの誘いでずっと参加している。参加しても彼女とは挨拶を交わすだけで絶対に会話をしなかった。
1昨年、たまたまくじ引きでテーブルが向かい合わせになった。
黙っているが彼女は私に何かと話しかけるのでそれとなしに話していると昔の性格不美人とちっとも変っていなかった。
周りに私を卑下することを同調するような言葉にますますハラワタが煮えくり返っていたが我慢した。
そして彼女がトイレに行っている間も同調していた2人がまた同じように私のことを言葉で卑下した。彼女たちの国籍差別がありありと会話の隙間から見える。
我慢できなくなって私は「何でそんないわれかたせんとあかんの」と怒った。
彼女たちは私の怒った意味が分からなくてきょとんとしていたがトイレから戻ってきた彼女は思い当たるところがあるのか、それから私の機嫌を直そうと韓国の話しを持ち出したりしているが私は彼女の性格が昔とちっとも変っていないことに閉口してそれから心の扉を閉めた。
それで昨年はなんとか出席したが今年はやめようと思っていたが周りの誘いで参加した。そしたらまわりは随分気配りをして私に対する心配りをしてくれていた。またこれでまわりに迷惑をかけたことで心苦しかった。
それでもなんとか楽しく過ごした。料理は美味しかった。
彼女はまた私にいえないので身近の親しい人に言葉の意地悪をしていた。
彼女は強いので「そんないいかたせんといて」とさりげなく交わしていた。
私より一回りも年上なのに------。
彼女は私より年下なのになぜあんたが雑誌記者に入れてもらってなぜずっと記者を続けてきたことに疑問視をしてみているだろう。
私は自分の能力でなっていない。人との出会いでずっとしてきた。
これも先祖さんがそこに結びつけたものと私は強く感じている。私が本名をなのって在日コリアンの中で仕事しているのもすべて私の祖父母が見守っていてくれるからだと思っている。
本家の1番の子どもとして生まれたけれど女子だったが女子でもどこかでそれにつながる仕事をさせている。私はそう思っている。
出会いの中で私の人生は歩んできた。
もちろんPTAも出会いだった。苛め倒した彼女がペングループに呼んでもらったが彼女の性格の悪さはまわりが見えていた。それでも回りは大人で上手につきあっていた。
私はストレートでそのままありのままの性格です。若いときはこんなことが許せなかった。今は違う。様々なことを乗り越えてきたのでそこ、ここにあわせて人間関係を作っている。

私は能力がまだまだだと思っている。ただ親がしつけてくれたのが私の財産、国籍を隠さないで普通に暮らしている。
人を褒めても苛めたりすることは親がさせなかった。
私はこれまで仕事の中で理不尽なことにぶつかると正面から意見をして喧嘩もしてきたが人を陥れたりしたことはない。
ペングループの中では嫌と言うほどいじめられた。当時、それはいじめとは気がつかなった。どんどんアイデアを出して行動する私に彼女は「性格が悪い」と言って苛めたおした。在日韓国人の新聞記者になってそれは性格の問題でなく民族性だと気がついた。気がつくとそれを言葉に出すと差別事象になるので遠まわしに言った差別用語で胸が苦しくなるほど切なかった。
彼女も韓国政府派遣教師に私の悪口を言ったのだろう。
韓国政府派遣教師は敏感に反応してこのまま奈良で仕事は続けられないだろうと判断された。「鄭さんは在日韓国人の新聞社で記者なったほうがいい。そのかわりに関西では在日韓国人の中で1番になるんだ」と言って在日韓国人の新聞社に私を入れた。これも出会いだった。韓国語は習いたくて習いにいったのではない。
「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」
1年間悩んでその答えを見つけたくて韓国語から正面に向き合うことになった。
これも祖父母が背中から押してくれたように思えてならない。
親の背中を見て育った私は親が正直に生きたように私も正直にこの仕事に取り組んできた。お金に関わることは働いた報酬はもらっても父親がいつも言っていた「意味のないお金はとるな。いっときはいい目をするがそのお金で身を滅ぼす」と私に常々言い聞かせた。それは守ってきた。
まして営業は苦手そして私を大事に育ててくれた雑誌編集局の編集局長、亡くなって2年の月日が過ぎた。
彼はいつも言っていた。
「いい記者になるには営業はしてはいけい」と言って記事だけに徹底させてくれた編集局長の言葉もずっと大事にしてきた。
私は何の能力もなかったが多くの人に助けられて仕事を続けてこられた。
このことがまた彼女の心をいろんなふうに思わせるのか。
彼女は水と油の関係である。坊主憎けりゃ袈裟も憎い。ということなのだろう。
だから長い間、会費は払って年賀原稿と冊子の投稿はしているがその集いの会合にはまだまだ足が向かない。
PTAのOB懇親会は当時の会長さんに随分お世話になった。わけ隔てなく誰とも接してこられた人柄である。この人の人柄に魅力を感じて皆参加している。
そう思っている。だから友人から誘われるとやはり私も参加している。
人間暮らしているといろんなことがあるが私のこれまでの人生の中でもっとも屈辱を味わった1人の中に彼女がいることはとても残念である。

派遣教師が言った関西で1番にはなれなかったが、なんとか後継者にあるていど任せられるとこまで若い人の育成に努力していることには褒めてもらいたい。
そしてそれこそ多くの出会いの中でネット仲間と出会って在日コリアンのこと書くコーナーでなんとか在日コリアンと日本の架け橋の役になっていると思っている。多くの出会いに心から感謝をしている。

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