鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

11月3日(木)文化の日の祭日、曇っているようだ。

2011-11-03 10:16:01 | 直言!
しかし大人になるにつれて文化の日も希薄になってくる。
それに今時のご時世に「文化の日」という言葉も忘れそうである。
そんなことを考えていると夕べ見たテレビ番組の1つ「小林旭」が出演していた。徳光さんの司会である。
日活全盛期のスターだった。浅丘ルリ子とも名コンビだった。
双方、結婚したい意志があったのにルリ子の父親が反対したという。
「どこの馬の骨か分からない」といって------。テレビで発言していた。
やはりアキラは世間のいう在日コリアンをルーツにしているのだろうか。
本当のこと、私はわからない。
しかし小林旭の歌、1950年代から1960年代に流行った歌は心に入って染みてくる。「ギターを抱いた渡り鳥」「惜別の歌」「さすらい」そして「北帰行」、「北帰行」の歌が流れると涙が出そうになってくる。
―さらば祖国よ---。これは日本の祖国を思って歌っているだろうが在日コリアンの間ではこの歌は北朝鮮を帰る人が歌った歌と話している。
それで私の又従兄弟はこのレコードを何度も何度も聞いていたのだろうか。
又従兄弟の家に行くと時にはレコードがなっていた。
「北帰行」だった。
又従兄弟は民族学校に半年ほど通ったが退学した。たぶん思想教育にあわなかったのだろう。親戚に勧められて進学したものの会わなかったのだろう。
私と同じ年で私は木津高校に入学した、そして私は高校の時に思った。
同じ年だった又従兄弟、なぜ木津高校に進まないで大阪の民族学校に行ったのか。姉2人の1人の相手が北朝鮮の支持者でその活動をしていた(韓国籍に切り替えて今は日本国籍に切り替えているだろう)。そんな人の勧めもあったのだろうか。姉の子どもは現在、演歌歌手として活躍、テレビでよく拝見している。そっくりである。姉、私から見た又従姉妹、母親にそっくりの顔に、テレビで初めて見たとき、私は直感で私の又従姉妹の娘と分かった。
そして何年かして民団大阪の関係者からその事実を知った。
やはり私の直感は当たっていた。

民族学校を退学して東京に出て行った。
結婚して子どももできたが31歳の時、胃がんで亡くなった。
子どもたちも成長しているだろう。
又従兄弟は何を思って「北帰行」と歌のレコードを何度も聞いていたのだろうか。北朝鮮に帰国した友人を思って聞いていたのだろうか。
またしみじみと在りし日の又従兄弟を思い出していた。
今で言う「韓流」のイケメンの顔、ハンサムな顔に野球をしていたので隣町に住んでいたのに野球試合に来ていた木津中学校で熱い声援を送る女子学生フアンが大勢いた。木津の写真屋の飾棚に飾られたほどだった。
今、生きていれば気兼ねなく会って話ができただろう。
青春時代は恥ずかしくてなかなか話ができなかった。
社会人になってある結婚式で会ってよく話した。これが最後になった。
もっともっと話しておけばよかった。
こんなに早く逝ってしまうならもっともっと話しておけばよかった。
そして1970年代にヒットした小林旭の「北へ」の歌も心に染みる。
この歌も若い頃、私はカラオケでよく歌った。
歌った当時を思い出す。
一緒に行った人たちもこの世にいない人もいる。
私も67歳まで生きると様々な人生に触れて見てきた。
小林旭の歌に昔の歌はよかった。心に染みる歌がたくさんあったと在りし日を思い出していた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3時前になった。 | トップ | 11月4日(金)朝の6時1... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

直言!」カテゴリの最新記事