2紙、読み終わってうとうとした。
起きると3時40分、まだ眠たい。4時に起きてパソコンの受信の処理と昨日取材した現場の資料の検索をインタネットでしていると5時前になった。
あわてて取材者に質問事項を明記してメールで問い合わせを送信した。
夕食の支度をしなければならない。
今日は野菜中心のおかずにしないといけない。
夫が焼き鳥など肉類を食べ過ぎている。
私は卵焼があればいいが野菜も食べないといけない。
今日は鯖の塩焼きをしょう。
野菜のスープか味噌汁を作ろう。
茄子の炊いた物も食べたい。
オクラと長い芋の和え物もしょう。
今日はゆっくりと午後から新聞を読むことができたが家にいても仕事のことは頭が離れない。取材交渉の電話を入れて金曜日に決まった。
この日、夕方からネツトの会合があるが体調管理のために欠席することにした。
それでなくても日曜日の取材は中止にした。
若いときだったら何が何でもと自分も現場に足が向いたが近年は無理をしないことにしているので中止した。
しかし電車の中の化粧はとまらない。
ある人が今朝は電車の中で3人見てきたという。ほんまに日本の国の公衆道徳が乱れている。
「電車の中で化粧しても誰にも迷惑をかけていない」という。
見たくない人が大方なのである。
その人たちに見たくない迷惑公害だということを知ってもらいたい。
化粧という見出しなみは電車の中でいつからするようになったのだろう。
「今朝3人も見た」とある人が言う。
「そのうちに電車の中で服も着替えるようになる。裸になる人もでてくるのでは。電車の中は楽屋裏と思っている」と言う。
この言葉を聞いてバジャマで電車に乗ってきて服を着替えたりするのではと思った。
時にはトイレで着替えている人もいるのでそんなこともあるかもしれない。
政治の乱れは一般庶民にも影響しているのか。生活習慣ができていない若い女性たちそして若い男性の飲食も。いや近年、中高年にも見られる。
ここで話はまったく違う話に変わるが昨日の電車の中で涙が出そうになった。
南海線の堺東駅から5時過ぎの電車に乗って天下茶屋で降りた。
地下鉄堺筋線に乗った。天下茶屋が始発である。
電車に乗るともう既に乗って座っていた人がいた。
向かい側の席の奥に在日コリアン風の1世のハルモニに思える人が座っていた。
隣には娘さんか嫁さんかわからない。そしてその隣は友人のようだった。
ハルモニの顔は何かしらものすごく悲しそうな顔をしていた。
それでも私は3つ駅の日本橋で降りて近鉄線に乗り換えないといけないので駅名を気にして見ていた。
ハルモニの隣の女性がジャンパーをたたんでリュックに入れてハルモニにリュックを渡して自分で持たせた。
ハルモニはリュックを前に抱えると顔を歪めて泣き出していたが一生懸命に涙をこらえていた。そして私は分かった。ハルモニの顔が悲しそうで顔の皺が悲しそうな表情で寄っていた。
その顔を見るだけでハルモニの苦労は見えて涙が出そうになった。
娘さんなのか嫁さんなのか友人ととしきりに話しておられたがハルモニはずっとリュックを抱えたまま前に向いて少し下向きに顔をしながら黙っていた。
小奇麗ににしておられたがハルモニの顔から決して幸せな人生でなかったのではと思った。泣き顔の皺に私の胸が押しつぶされそうになるぐらい悲しくなった。母親の顔と重なってくる。
私は家にいたころは長女だったのでそれなりに苦労したが結婚すると自分の家庭が第一だった。それでも母親が若いときは私はよく実家に帰って私は食事を作ったので母親から食材をよく貰って帰った。
専業主婦から仕事をするようになって実家に帰る回数が少なくなっていった。
長女はちっともいうこと聞かないもので次女は母親のいうことをよく聞いたので次女とは仲のいい親子だった。
次女が亡くなってからは心のはりをなくしているのに私は母親に親孝行はしなかった。自分の仕事で忙しくしていたのでそれを口実にしていた。
妹が亡くなった後の母親はあんなふうに泣き顔になっていたのだろうか。
ふと母親の顔と重なった。
ハルモニはもう80歳はとうに越えているように見えた。
しかし顔の皺が泣き顔になっているので日本で生きた渡日史はけっしてしあわせでなかっただろうと見えて胸が締め付けられるほど悲しくて涙がこぼれそうになった。電車は二つ目の駅、恵比寿町をでると思わず席を立った。ドアのガラスに映る私の顔も悲しい顔の皺がよっていた。
1世の背中を見てきた2世は1世のハルモニの渡日史は見てとれる。
2世はまだまだ1世の生きた証を伝えていかなければならないと思った。
泣き顔になっていたハルモニたちが苦労して苦労して日本で生活基盤を作ってくれたことは決して忘れてはならないと昨日の電車の中で見たハルモニにそう思った。ハルモニこれからは好きなことをして暮らしてもらいたいと心で念じていたが電車の中で見たハルモニは周りに気を使いながら生きた人生が風情に出ていた。1世の渡日史そのものだった。
起きると3時40分、まだ眠たい。4時に起きてパソコンの受信の処理と昨日取材した現場の資料の検索をインタネットでしていると5時前になった。
あわてて取材者に質問事項を明記してメールで問い合わせを送信した。
夕食の支度をしなければならない。
今日は野菜中心のおかずにしないといけない。
夫が焼き鳥など肉類を食べ過ぎている。
私は卵焼があればいいが野菜も食べないといけない。
今日は鯖の塩焼きをしょう。
野菜のスープか味噌汁を作ろう。
茄子の炊いた物も食べたい。
オクラと長い芋の和え物もしょう。
今日はゆっくりと午後から新聞を読むことができたが家にいても仕事のことは頭が離れない。取材交渉の電話を入れて金曜日に決まった。
この日、夕方からネツトの会合があるが体調管理のために欠席することにした。
それでなくても日曜日の取材は中止にした。
若いときだったら何が何でもと自分も現場に足が向いたが近年は無理をしないことにしているので中止した。
しかし電車の中の化粧はとまらない。
ある人が今朝は電車の中で3人見てきたという。ほんまに日本の国の公衆道徳が乱れている。
「電車の中で化粧しても誰にも迷惑をかけていない」という。
見たくない人が大方なのである。
その人たちに見たくない迷惑公害だということを知ってもらいたい。
化粧という見出しなみは電車の中でいつからするようになったのだろう。
「今朝3人も見た」とある人が言う。
「そのうちに電車の中で服も着替えるようになる。裸になる人もでてくるのでは。電車の中は楽屋裏と思っている」と言う。
この言葉を聞いてバジャマで電車に乗ってきて服を着替えたりするのではと思った。
時にはトイレで着替えている人もいるのでそんなこともあるかもしれない。
政治の乱れは一般庶民にも影響しているのか。生活習慣ができていない若い女性たちそして若い男性の飲食も。いや近年、中高年にも見られる。
ここで話はまったく違う話に変わるが昨日の電車の中で涙が出そうになった。
南海線の堺東駅から5時過ぎの電車に乗って天下茶屋で降りた。
地下鉄堺筋線に乗った。天下茶屋が始発である。
電車に乗るともう既に乗って座っていた人がいた。
向かい側の席の奥に在日コリアン風の1世のハルモニに思える人が座っていた。
隣には娘さんか嫁さんかわからない。そしてその隣は友人のようだった。
ハルモニの顔は何かしらものすごく悲しそうな顔をしていた。
それでも私は3つ駅の日本橋で降りて近鉄線に乗り換えないといけないので駅名を気にして見ていた。
ハルモニの隣の女性がジャンパーをたたんでリュックに入れてハルモニにリュックを渡して自分で持たせた。
ハルモニはリュックを前に抱えると顔を歪めて泣き出していたが一生懸命に涙をこらえていた。そして私は分かった。ハルモニの顔が悲しそうで顔の皺が悲しそうな表情で寄っていた。
その顔を見るだけでハルモニの苦労は見えて涙が出そうになった。
娘さんなのか嫁さんなのか友人ととしきりに話しておられたがハルモニはずっとリュックを抱えたまま前に向いて少し下向きに顔をしながら黙っていた。
小奇麗ににしておられたがハルモニの顔から決して幸せな人生でなかったのではと思った。泣き顔の皺に私の胸が押しつぶされそうになるぐらい悲しくなった。母親の顔と重なってくる。
私は家にいたころは長女だったのでそれなりに苦労したが結婚すると自分の家庭が第一だった。それでも母親が若いときは私はよく実家に帰って私は食事を作ったので母親から食材をよく貰って帰った。
専業主婦から仕事をするようになって実家に帰る回数が少なくなっていった。
長女はちっともいうこと聞かないもので次女は母親のいうことをよく聞いたので次女とは仲のいい親子だった。
次女が亡くなってからは心のはりをなくしているのに私は母親に親孝行はしなかった。自分の仕事で忙しくしていたのでそれを口実にしていた。
妹が亡くなった後の母親はあんなふうに泣き顔になっていたのだろうか。
ふと母親の顔と重なった。
ハルモニはもう80歳はとうに越えているように見えた。
しかし顔の皺が泣き顔になっているので日本で生きた渡日史はけっしてしあわせでなかっただろうと見えて胸が締め付けられるほど悲しくて涙がこぼれそうになった。電車は二つ目の駅、恵比寿町をでると思わず席を立った。ドアのガラスに映る私の顔も悲しい顔の皺がよっていた。
1世の背中を見てきた2世は1世のハルモニの渡日史は見てとれる。
2世はまだまだ1世の生きた証を伝えていかなければならないと思った。
泣き顔になっていたハルモニたちが苦労して苦労して日本で生活基盤を作ってくれたことは決して忘れてはならないと昨日の電車の中で見たハルモニにそう思った。ハルモニこれからは好きなことをして暮らしてもらいたいと心で念じていたが電車の中で見たハルモニは周りに気を使いながら生きた人生が風情に出ていた。1世の渡日史そのものだった。
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