鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

夫は朝、出かけにいう。

2008-06-25 09:42:21 | 直言!
雨がふるから早く出かけて用事を済ませて早く帰ってくるようにという。
「そうやな」と言っていた。
韓国行きが迫ってきた。コツコツと貯めていたへそくりを引き出さないといけない。韓国行きのための諸経費である。
近年の行動はタクシーを乗り回している。韓国の地下鉄は便利だがあの奥深く入る階段が怖くてタクシーで動いている。
中には良心的な運転手もいるが中には同じところをぐるぐる回っている人もいる。それでも仕方かないと思っている。地下鉄に乗ればもっと安くて済むのにと韓国の知人にいわれるが韓国の地下鉄の駅は昔のことを思うとエスカレーターやエレベーターが設置している駅は多くなったもののまだまだである。
少しの旅費を引き出しにいかないといけない。
金曜日取材があるので金曜日の朝早くすまそうと考えたがまた出かけに電話が入ったりするとまた遅くなる。
これはあかん。今日行くことにした。

そして今回の訪韓で韓国の知人にお礼を言わないといけない。
奈良県で雑誌記者として走りまわっているときに楽しいはずの仕事が苦痛になってきた。「日本人のふりをして日本の記事をかきたくない」この葛藤で悩むこと1年だった。そして背中で誰かの声がする。
(今、韓国語を習っておかないと後々後悔することになるから)とささやいているような気がする。慶州市と奈良市との姉妹締結交流、慶州市の婦人たちは日本語を話せる人たちばかりで取材には苦労しなかった。しかしこの中でも「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」この葛藤に苦しんだ。
そうといって書くことからやめられなかった。好きな仕事だった。
高卒なのに雑誌記者に引き込んで下さった人に今とても感謝をしていた。それに第2の就職の保証もなかった。
しかしそれでも何かが違うということに気が突き出した。
中学か高校の時だったのだろうか。
父親は食卓の茶碗などを脇によせて「ハングル」を書いた。
「カ・ナ・ダ・ラ----と。母音と子音があってこれを組合せるとハングルになる」と言った。私は黙って父親が書いているハングルの手元を見ていたが私はまた父親に反発していた。
「そんな。日本に住んでいるのに日本語だけでいいんやか」と言うと父親は「本当にそう思うか」と念を押した。
私は「そう思う」といったら父親は「使わなくても覚えておいたほうがいい」と言って私の顔をじっと見ていた。妹はそのへん皆の顔色見るのが早かったので何も言わず黙っていた。
それからもよく父親は私のことを「できそこないの娘」と母親に愚痴を言っていた。今思うとこれも影響しているのかもしれない。

頭上で聞こえてくる「韓国語を習いなさい」の声に勇気を出して息子が大学に進学した4月に民団奈良県本部の韓国語教室のドアを叩いた。
そのとき応対されたのが韓国の知人である。
教育者という肩書きはやはり日本でも発揮された。その人の才能や持っているものを引っ張りだされた。
私は奈良県でそれなりの知名度のある雑誌記者になっていた。しかし反面日本婦人からの見えない反発があった。
慶州市の婦人たちと交流する彼女たちは慶州市の婦人から来るハングルの手紙を韓国語教室の先生に翻訳をしてもらいによく行っていた。
そこで私の話もでただろう。
そして韓国語教師は話の内容は一切いわなかったが訪ねてこられる数多い中で何人か名前を何かのひょうしにあげられることがあった。
そしてある日、ソンセンニム(先生)は言った。
「チョンさん。仕事をしていても韓国人差別があるでしょう」
ソンセンニムは赴任してまだ3・4ヶ月過ぎたばかりで日本語がまだまだ下手で話の内容も3ぶんの1ぐらいしか理解できなかった。それで話すのに時間がかかると考えて「ない」と答えていた。
しかし教師はなにもかも見抜いておられた。
「チョンさんは在日韓国人の新聞社の記者になって関西では有名な記者になってほしい」と言って私を日刊紙の在日韓国人の新聞社に紹介して入社させた。
なにかと陰日なたで私を助けて下さった。
この新聞社を5年で退職したが韓国に帰国されていてもまた自分を目立たないようにして私を現在の新聞社にいれるように根回しをして下さった。感謝の言葉は語り尽くせない。
在日韓国人の新聞記者になって何度も分家の長男と言う人は仕事の現場であっていた。名前を見ると一目瞭然で私の一族と分かった。民団大阪本部会館内に書かれている寄付金額者の名前を見てもすぐにわかったが名のることがなかった。ある日当時の団長が私に聞いてきた。
「名前は何と言うのか」「チョンヨンスンです」と言うと「違う日本の名前や」と言うので夫の日本名を言うと「違う。前の名前や」というので「ヒラカワです」と言ったら「そうか。わかった」と言って立去った。
それから数年の月日が流れただろうか。
老人ホームで分家の人とあった。このホームには多額な金額を寄附しておられるので何か行事があると参加しておられた。ホームの関係者には「ヒラカワ」の一族の本家の1番最初に生まれた長女ですと言ってあった。
なんとか私と分家の人と話す機会を持たそうとその場を作って下さったのに私は挨拶だけで済ませた。名刺を出さなかった。
初めて向こうから「こんにちは」と声をかけて下さったのに私は「こんにちは」と挨拶だけで済ませた。
名刺を出そうかと悩んだがまだ父親が生きていた。父親が生きている間は勝手なことはできないと考えて名刺を出さなかった。この人の父親が私の祖父の弟であることは最近私の弟から聞きそして叔父さんと祖父の墓参りで会って確認することになった。
老人ホームの出会いは確か3月か4月だった。そしてその後少しして亡くなられた。ホームの関係者は「余命幾ばくないことを知っていたからのことだった」と話されてその意味がやっとわかったものの遅かった。
取り返しのつかないことしたのかとしばらくは後悔していた。
そして父親の葬儀の香典を持って民団大阪本部に来られた子息にはもう口からすっと自分の身分を名乗っていた。
これも今考えると先人たちがさせているように思えてならない。
何かと近年、子息と出会う機会が多くなり私は知っている限り父親や叔母から聞いた話をすっと口からでて話している。これも何かあるのだろう。
不思議な合縁奇縁、先祖さんに感謝をしている。

もし私がそのまま雑誌記者を続けていたらおそらく日本国籍に変えていただろう。夫の兄弟たちがそうしているように同じようにしていただろう。
それが韓国の知人の目は教育者の眼として私を育てようと思って下さった心が在日韓国人の新聞社で記者をするようにして下さった。
頭上でささいていた「韓国語を習いなさい」
あれはここまでたどり着くために先祖が私に託したものだったのか。
と、今はそんなふうにして考えている。
不思議としかいいようがない。
父親の代は従兄弟関係になるが父親は祖父の言う通りにして決して往来しなかった。しかし下の叔父は最初の韓国旅行行きは分家のおじいさんにそれなりの証明を出してもらって韓国行をしていた。それで生前、叔父の韓国行にぶつぶつと文句を言っていた意味がやっとわかった。
その叔父、韓国の山々に入って猟銃をしていたという。これでまた父親は「そんなアホなことするな」と怒っていたことも分かってきた。
精悍だった叔父も70歳を越えて何度も病で入院、死線をさまよったものの元気になった。そして今年の連休初め祖父の墓参りで偶然に一緒になった。また天理市に分家の墓があることを連れ合いの叔母がどこからか聞いてきて知っていた。叔父も最初の韓国行のきっかけを私に話した。私も今聞かなければと思って遠慮なく叔父に聞いた。厳しい叔父で叔父と親しく話すことがなかったのにこの日は叔父に何でも聞くことができた。
叔父もそう長くないかもしれない気持が聞くことに駆り立てられた。私の話にニコニコして聞いていたと自宅に戻ってから夫は言う。
「やっぱり鄭の家のことを考えているお前にうれしかったのか、叔父さんええ顔していたわ」という。
別に真剣に考えているわけではないが先人のしたことをまた私が受けついでいる。父親の姉は16歳で渡日、早くに結婚しているのに鄭の家のことばかり考えていたという。それはまた後日、叔母の娘が話したことから分かった。
叔母も日本に来て本家の長女ということで実家のことを考えていた。それをまた叔母が亡くなって3年近くになって魂になっても実家のことを心配しているのだろうか。私にそうさせているように思う。

あのまま雑誌記者をしていたら民族のことは不透明のままに帰化していただろう。実家の先祖も頭の中から消えていくことになっただろう。
それが在日韓国人の中で記者をするようになってめぐりめぐってここまでたどりついた。何かの縁があるのだろう。
やっとここまできたことのきっかけはやはり韓国の知人の采配があったからと思っている。めぐりめぐってようやく祖父の弟、分家の先祖までたどりついたことを話して感謝の言葉を述べなければならない。
韓国の知人も不思議な出会いだった。どこかで先祖は縁があったのだろうか。
ふとそう思う。人間の心では見えないものがこの宇宙でいっぱい動いているということをまた改めて知らされた。
分家と本家、これまで通り距離を置いた付き合いになっていくだろう。しかし従兄弟や自分の子どもたちには私が体験してきたことは語りついでいこうと思っている。分家は事業を起こして関西でもよく知られる財閥、本家の私の実家は普通の会社員の暮らしをしてきた。会社員の器がせえいっぱいの父親で叔父たちだった。会社員の暮らしを支えたのは連れ合いの叔母たちである。
私の母親はリヤカー1台から廃品回収業をして家計を支え子どもたちにも教育をつけてくれた。母親の商いを弟が引継いでトラックを何台も置いてするようになった。1世たちの苦労の上に今の生活基盤がある。だれもが体験している在日コリアンの渡日史である。

書いて記録に残しておいて私はまた従兄弟にたちに語りついでいこうと思っている。
さあ。外出の準備をしよう。

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