たえずハンカチで顔の汗を拭いている。
さて今日は大韓航空爆破事件の犯人とも言える北朝鮮の政治の犠牲者、金賢姫が日本に来ている。今朝の未明に韓国仁川国際航空を飛び立って今朝の明け方についた。ものものしい警護の中で鳩山前首相の別荘、軽井沢に向かった。
ここで拉致被害者の家族と会われる。
小泉。・安倍元首相の北朝鮮訪問で拉致被害者の真相が明るみになった。
2人の訪問は命がけだったが真相が明確になった。
私も父親から1970年半ばから北朝鮮の拉致、日本海を中心にして行われていたことを聞いていたがずっと父親に「嘘」と反発していたが後にサンケイ新聞が横田めぐみさんの拉致被害者が報道されて父親の言っていたことが本当だと分かった。
父親はこの情報を死ぬまで明かさないまま亡くなった。
何も私に詳細にけっして話さなかったが朝鮮総連の関係者の関与を含んでいた。
父親は本家の長男、祭祀があると兄弟たちが集った。
2家族が朝鮮総連の活動者に父親は何も言わず黙ったが活発に活動しているときは姉が家に来ると「何しに来た。帰ってくれ」と言っていた。
そして活発に活動している弟にも北朝鮮の現実を新聞で見た情報など教えて「いい加減にせい」とも言っていた。
そんなことで私たち子どもたちには民団にも総連にも関与してはならないと厳しい達しを出していた。
中立で生きた父親の心中はどんなものだったのか-----。
知識・教養のあった父親だったので民団の活動にもはがゆい思いをしていたが政治活動から引いた父親は胸中を明かさないまま生涯を終えた。
南北分断国家になって日本の在日コリアンも民団か総連と分かれたときに地元の在日コリアンに「私は今後、民族活動に関係しないで日本社会で生きていきます」と宣言して日本社会で生涯、生きた。
このとき帰化も考えただろうと私は思っている。
しかし祖父の怒りでできなかった。
その親子のすさまじい争そいを私は子供の頃7・8歳のころに見ている。
あの争そいが祖父に日本国籍に切り替えると言ったのだったかと思っている。
韓国慶尚南道晋陽郡智水面を故郷に持つ祖父と父、祖父の故郷の思いは凄かった。桜井市に住んでいたがいつも三輪山を見ながら言っていた。
「三輪山のてっぺんから私が手を叩くと300人近い村人が集った」と、地元では由緒のある自分の家を自慢していた。
日本植民地支配で土地を強奪されたこともずっと日本を恨んでいた。
父親は1997年の春に亡くなった。
拉致被害者の真相が明るみに出たのが2000年の秋、もし父親が生きていればどんな話を私にしてくれていたのだろうかと今となって思っている。
また金賢姫の来日にどんな話をしてくれたのだろうかと思ってしまう。
今は草葉の陰にいる。
一世が直感で感じたことは正解だった。
何が教えてのだろうか。父親も先人たちが守っていて父親の直感を養ったと思っている。
当時の日本の報道関係者、多くの一世の話に耳を傾けて欲しかったと今思う。
そう思うと今回も正確にありのまま屈折したものがない記事を報道してもらいたい。
客観的に見てきた在日韓国人は節に願っている。
今日の金賢姫来日のニユースを見ないで私は朝から病院に行った。
11時予約、9時半から外出の支度をすれば十分間に合うがもう暑い。暑い。早く外出の支度をして病院に向かった。病院に着くと10時15分、11時ギリギリの診察と思ったが10時45分の診察となった。
薬局にも寄らない。会計の計算だけなので11時過ぎに病院を出ることが出来た。歩いてバス乗り場に行こうと思ったらいつもの送迎車の運転手さんが送迎車のドアを開けてくれた。
それでバスに乗った。
降ろしてもらったところで市内循環バスに乗って近鉄奈良駅に出た。
11時35分、近鉄奈良駅にあるビルの中にあるレストランに行った。
日替わり定食が出汁巻きと焼き魚と魚のフライと味噌汁、これならいい。
時々得たいの知れない食材に少し閉口してこの頃、この店に行かなくなった。
店の人はしばらく行かないので少しお愛想が悪いが仕方がない。うどん屋さんに入るところを見られているのだろう、以前はご機嫌がよかったが----。
私は食べ物に神経質で分からない食材は絶対に食べられない。
先日、イトウヨーカドウの出店で買ったお好み焼きのチヂミ、うまく試食を進められて買ったが1枚、家で食べたが何か分からない食材に今日は捨ててしまうとも思っている。夫もこれは食べないらしいので-----。
もうこれから試食に惑わされて買ってはいけないと肝に銘じている。
昼食をして郵便局に行ってジャーナリスト・ネット関係を振り込んで行きつけの喫茶店に行ったのは12時過ぎ、ここで1時半まで新聞2紙を読んで後の30分は取材ノートをまた赤で空白にかき込んでいった。この取材メモは他の原稿を送稿してからの作業になるのでしばらくこの取材メモのパソコン入力ができない。忘れないためにまた取材メモをたどって書いておく。
私は現場で話しを聞いてメモをするのはものすごく早い。2・3日は忘れないが4・5日すると自分の書いた文字が悪筆でわからなくなるので長いことメモを保管するときには必ずする作業である。
2時過ぎに喫茶店を出てスーパーで食材を少し買ってバス乗り場に行くと中循環バスが入ってきた。走っていって飛び乗った。
自宅に帰ると3時、今日は膝に注射を打っているので風呂に入れない。
体を拭いて部屋着に変えた。
家事をしているともう時計は4時、パソコンの前に座ると4時過ぎている。
このブログを書いていると時計は5時半になろうとしている。
これから夕食の支度です。
さて今日は大韓航空爆破事件の犯人とも言える北朝鮮の政治の犠牲者、金賢姫が日本に来ている。今朝の未明に韓国仁川国際航空を飛び立って今朝の明け方についた。ものものしい警護の中で鳩山前首相の別荘、軽井沢に向かった。
ここで拉致被害者の家族と会われる。
小泉。・安倍元首相の北朝鮮訪問で拉致被害者の真相が明るみになった。
2人の訪問は命がけだったが真相が明確になった。
私も父親から1970年半ばから北朝鮮の拉致、日本海を中心にして行われていたことを聞いていたがずっと父親に「嘘」と反発していたが後にサンケイ新聞が横田めぐみさんの拉致被害者が報道されて父親の言っていたことが本当だと分かった。
父親はこの情報を死ぬまで明かさないまま亡くなった。
何も私に詳細にけっして話さなかったが朝鮮総連の関係者の関与を含んでいた。
父親は本家の長男、祭祀があると兄弟たちが集った。
2家族が朝鮮総連の活動者に父親は何も言わず黙ったが活発に活動しているときは姉が家に来ると「何しに来た。帰ってくれ」と言っていた。
そして活発に活動している弟にも北朝鮮の現実を新聞で見た情報など教えて「いい加減にせい」とも言っていた。
そんなことで私たち子どもたちには民団にも総連にも関与してはならないと厳しい達しを出していた。
中立で生きた父親の心中はどんなものだったのか-----。
知識・教養のあった父親だったので民団の活動にもはがゆい思いをしていたが政治活動から引いた父親は胸中を明かさないまま生涯を終えた。
南北分断国家になって日本の在日コリアンも民団か総連と分かれたときに地元の在日コリアンに「私は今後、民族活動に関係しないで日本社会で生きていきます」と宣言して日本社会で生涯、生きた。
このとき帰化も考えただろうと私は思っている。
しかし祖父の怒りでできなかった。
その親子のすさまじい争そいを私は子供の頃7・8歳のころに見ている。
あの争そいが祖父に日本国籍に切り替えると言ったのだったかと思っている。
韓国慶尚南道晋陽郡智水面を故郷に持つ祖父と父、祖父の故郷の思いは凄かった。桜井市に住んでいたがいつも三輪山を見ながら言っていた。
「三輪山のてっぺんから私が手を叩くと300人近い村人が集った」と、地元では由緒のある自分の家を自慢していた。
日本植民地支配で土地を強奪されたこともずっと日本を恨んでいた。
父親は1997年の春に亡くなった。
拉致被害者の真相が明るみに出たのが2000年の秋、もし父親が生きていればどんな話を私にしてくれていたのだろうかと今となって思っている。
また金賢姫の来日にどんな話をしてくれたのだろうかと思ってしまう。
今は草葉の陰にいる。
一世が直感で感じたことは正解だった。
何が教えてのだろうか。父親も先人たちが守っていて父親の直感を養ったと思っている。
当時の日本の報道関係者、多くの一世の話に耳を傾けて欲しかったと今思う。
そう思うと今回も正確にありのまま屈折したものがない記事を報道してもらいたい。
客観的に見てきた在日韓国人は節に願っている。
今日の金賢姫来日のニユースを見ないで私は朝から病院に行った。
11時予約、9時半から外出の支度をすれば十分間に合うがもう暑い。暑い。早く外出の支度をして病院に向かった。病院に着くと10時15分、11時ギリギリの診察と思ったが10時45分の診察となった。
薬局にも寄らない。会計の計算だけなので11時過ぎに病院を出ることが出来た。歩いてバス乗り場に行こうと思ったらいつもの送迎車の運転手さんが送迎車のドアを開けてくれた。
それでバスに乗った。
降ろしてもらったところで市内循環バスに乗って近鉄奈良駅に出た。
11時35分、近鉄奈良駅にあるビルの中にあるレストランに行った。
日替わり定食が出汁巻きと焼き魚と魚のフライと味噌汁、これならいい。
時々得たいの知れない食材に少し閉口してこの頃、この店に行かなくなった。
店の人はしばらく行かないので少しお愛想が悪いが仕方がない。うどん屋さんに入るところを見られているのだろう、以前はご機嫌がよかったが----。
私は食べ物に神経質で分からない食材は絶対に食べられない。
先日、イトウヨーカドウの出店で買ったお好み焼きのチヂミ、うまく試食を進められて買ったが1枚、家で食べたが何か分からない食材に今日は捨ててしまうとも思っている。夫もこれは食べないらしいので-----。
もうこれから試食に惑わされて買ってはいけないと肝に銘じている。
昼食をして郵便局に行ってジャーナリスト・ネット関係を振り込んで行きつけの喫茶店に行ったのは12時過ぎ、ここで1時半まで新聞2紙を読んで後の30分は取材ノートをまた赤で空白にかき込んでいった。この取材メモは他の原稿を送稿してからの作業になるのでしばらくこの取材メモのパソコン入力ができない。忘れないためにまた取材メモをたどって書いておく。
私は現場で話しを聞いてメモをするのはものすごく早い。2・3日は忘れないが4・5日すると自分の書いた文字が悪筆でわからなくなるので長いことメモを保管するときには必ずする作業である。
2時過ぎに喫茶店を出てスーパーで食材を少し買ってバス乗り場に行くと中循環バスが入ってきた。走っていって飛び乗った。
自宅に帰ると3時、今日は膝に注射を打っているので風呂に入れない。
体を拭いて部屋着に変えた。
家事をしているともう時計は4時、パソコンの前に座ると4時過ぎている。
このブログを書いていると時計は5時半になろうとしている。
これから夕食の支度です。
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