グー版・迷子の古事記

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秦氏⑥ナカツクニと中臣氏

2013年10月10日 | 古事記
秦氏の素性を今まで5回にわたって考察してきました。
その中で、秦氏と奴国(なのくに)との関係も明らかになってきたのではないかと思います。
そしてこの奴国(なのくに)とは中国の史書に出てくる中国での記述です

  《ナカツクニ》

奴国(なのくに)の日本名は何だったのでしょうか?
それも今までの5回で見えてきたようです。
奴国(なのくに)とは、中津国(ナカツクニ)となりそうです。
中国(ナカツクニ)、中洲(ナカツクニ)、中津洲(ナカツクニ)と記述したかもしれません。

これは、取り扱いが難しそうです
果たして、九州北部を本拠とする奴国・ナカツクニを、神話に出てくるナカツクニと一緒にしていいのだろうか?
神話に出てくるナカツクニは日本全土を指すと言ってもいい様な位置づけです。

私はこう考えます。
「古代、九州にナカツクニはあった。
ナカツクニを治めていた皇族の一部が、日向から大和へ移住しナカツクニの領土は広がった。」

大和へ移住した理由とは、大和が日本における宗教上の聖地だったからだと思います。
何故、大和が宗教上の聖地だったのか?
それはやはり、大和に伝説的な宗教家がいたからなのではないか?
それでは、大和の伝説的な宗教家とは?
特定できませんが、邪馬台国の卑弥呼は最有力人物だと思います。
ちなみに、邪馬台国の「邪馬台」は当時の中国の発音で「ヤマドゥ」のような発音だったと書いてある本を見た事があります。
何の本だったか、覚えてませんが…

世界中の宗教上の聖地は、その宗教の始祖と関係が深いです。
また古代においては、政治よりも宗教が優先されます。
そして人は、十字軍の様に聖地奪還のために武力行使したりします。
神武東征はもしかすると…
大和から出雲の勢力を排除するための「日本版十字軍」だったのかもしれません

神武東征がもし「日本版十字軍」だとすると、新たな展開が見えてきます。
神武東征が聖地奪還を目的とするならば、東征をする神武天皇の勢力は大和の宗教を信奉していた事となります。
それは取りも直さず、神武に大和の伝説的な宗教家の血が流れている事も意味しそうです。
古代社会では、宗教指導者が政治指導者となります。
政治指導者である神武天皇は、即ち宗教指導者である神武天皇です。
大和の宗教の宗教指導者となるには、やはり大和の伝説的な宗教家の血縁が必要だったと思われます。

私は、神武天皇を大和の伝説的な宗教家・卑弥呼の血縁だったと考えたいです

宗教上の聖地・大和を手にした皇族は、日本の王となり、国名はナカツクニから大和へ改変された。
そして、九州北部の奴国・ナカツクニは、大和の属国となった。
神武天皇の出身母体である奴国・ナカツクニは、大和の中でも特別な存在だった事は想像に難くありません。

奴国・ナカツクニが大和の属国だった事は、江戸時代に筑紫国那珂(なか)郡で偶然発掘された「漢委奴国王印」で明らかだと思います。
漢から奴国の王に送られた金印です。
漢の国の 倭(大和)の国の 奴国の国王と言う意味にとれます。

「倭の国は、大和ではない」と言う声がもしかするとあるかもしれませんが、
古代大和の宗教上の聖地が、ミワヤマ(美和山・三輪山)と言うところからも、倭の中心は大和と考えて問題ないと思います。
そして、ヤマト(大和)の名前の由来は…

(ヤマ)(ト)…山の戸。戸は「入り口」「境界」を表します。聖地・美和山の入り口にある集落を意味したと思います。

  《中臣氏》

中臣氏は大化の改新で、忽然と日本史に現れてきます。
秦氏⑤中臣鎌足で示したように、中臣氏は奴国と関係が深そうです。
と言うことは…
中臣氏はナカツクニと関係が深いという事です。

中臣鎌足の出身地は常陸国です。
そして、多氏との関連で中臣氏の祖とも考えられる神八井耳命は、常陸の仲(なか)の国造の祖でもあります。
常陸の仲の国(なかのくに)とは、即ち常陸の中にナカツクニがあった事を示しそうです。

中臣氏は九州北部を本拠とするナカツクニの臣下だったのでしょう。
或いはもしかすると、神武天皇の嫡子・神八井耳命の直系だったかもしれません。
そのため、朝鮮半島南端からナカツクニの勢力が排除されようとしていた大化の改新前に、大和の歴史に忽然と現れたのでしょう。
そこには、秦氏も関わっていたことと思います。

中央集権を進め、天皇に権力を集中しようとしだした頃から、中臣鎌足の子孫・藤原氏が外戚として政治に関わってくる事を考えると…
中臣氏が、神武天皇の嫡子・神八井耳命の直系かもしれないと言う事を視野に入れてもいいかもしれません。

ここまで考えてくると、中臣氏の「中」は「ナカツクニ」の「ナカ」だったであろう事は間違い無さそうです。
「中臣」という呼び名は大和朝廷での呼び名です。
「中臣」は「ナカツクニの臣下」或いは「ナカツクニ出身の臣下」と言う意味だと言えそうです