グー版・迷子の古事記

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秦氏④乙巳の変

2013年10月08日 | 古事記
日本史に詳しくない私は、
善・蘇我 vs 悪・中大兄皇子
と安易に推量し、秦氏(はたし)で乙巳の変のシナリオを考えていました

そして、桓武天皇が「臣が天皇になっているので正しくない」と言って日本書紀の皇統の系譜・三十一巻を焼かせた事を、秦氏と関係の深い聖徳太子とその子・山背大兄王に関連付けようとしていました。

しかしその時矛盾に気付きました。
天智系の桓武天皇が遷都した平安京は、秦氏の拠点の山城の地。
また天智天皇(中大兄皇子)が遷都したのも秦氏勢力圏の大津の地であり、
中大兄皇子が実際の権力を握っていた斉明天皇の晩年に、百済救援のために遷都した筑紫の朝倉の橘の広庭宮は、秦氏の勢力圏である元は奴国(なのくに)の中にある筑紫の地なのです。

そうか…天智系と秦氏は繋がっていたのだ
もう一度人間関係から洗いなおしてみる必要がありそうです。

  《乙巳の変の登場人物》

中大兄皇子(天智天皇)…後に秦氏の勢力圏・大津に都を移す。
 ∟母・皇極天皇(斉明天皇)…天智天皇、天武天皇の母。
  ∟母・吉備姫王…吉備の地は東漢氏と関係が深い。

中臣鎌足…百済の皇子と噂され、出自が怪しい。

蘇我入鹿…山背大兄王を倒す。東漢氏の拠点・飛鳥の甘樫丘に邸宅を築く。

蘇我蝦夷…蘇我入鹿の父。蘇我入鹿が暗殺された後、東漢氏が邸宅を守る。

山背大兄王…聖徳太子の子。山背の名からも秦氏の拠点である山城の地で育ったと考えられる。蘇我入鹿に倒される。

秦河勝…秦氏。聖徳太子に可愛がられる。常世の神を退治する。

秦氏…秦の始皇帝を祖とする氏族。朝鮮南部から日本に渡ってきており、秦氏は中国系かもしれないが、氏族を構成する人々のほとんどは朝鮮系と考えられる。

東漢氏(やまとのあやし)…飛鳥を拠点とする氏族。蘇我蝦夷邸宅を守るも、中大兄皇子の使いに説得され立ち去る。後漢の霊帝を祖とする中国系

東漢氏の拠点・飛鳥に宮を移した推古天皇の時代から遣隋使が始まっています。
隋の技術と文化を導入するにあたり、東漢氏は力をつけて来たと考えられます。
蘇我氏は、東漢氏の力を取り込んでいたと考えられそうです。

中大兄皇子の母・皇極天皇の宮殿は飛鳥にあり、またその母・吉備姫王が東漢氏と関係の深い吉備の出身です。

中大兄皇子は、母・皇極天皇の後ろ盾である蘇我氏と東漢氏を敵に回した事から考えると、乙巳の変の前までは皇位継承権がなかったのかもしれません。
その為、秦氏の力を借りたと考えられます。

このように考えてくると、権力抗争の構図が見えてきそうです。

皇極天皇・蘇我氏・東漢氏 vs 中大兄・鎌足・秦氏 

そうか蘇我氏と秦氏は繋がっていなかったのだ

  《常世の神》

①聖徳太子死去  622年2月

②蘇我入鹿により上宮王家滅亡  643年11月

③常世の神  644年7月
常世の神とは、橘の木や山椒に生じる長さ四寸親指くらいの色は緑に黒い斑点がある虫で、形は全くに似る。(アゲハの幼虫と考えられています)

秦河勝はこの常世の神を殺してしまいます。

富士川のあたりで、大生部多は、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、虫祭りをすることを勧めた。巫女たちも神のおつげだといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といった。このために信仰は広まり、都でも田舎でも常世の虫をとって安置し、財宝を差し出したが、何の利益もなく、損失が多かった。民衆が騙されるのをにくみ秦河勝は大生部多を捕え打ち懲らしめた。
太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
「秦河勝は、神の中の神と言われている 常世の神を、打ち懲らしめたことだ。」
(ウィキペディア)

④秦河勝は都を避け、大避神社へ避難する。  644年9月12日(大避神社社伝)
土地の者は潤い大避神社が建立される。

⑤乙巳の変  645年6月


常世の神の記事が出た当時、まだ蘇我氏は権力を握っていました。
と言うことは…
常世の神を成敗する事を命令したのは、蘇我氏と考えられます。

秦河勝が常世の神を成敗したことになってますが、常世の神は秦氏の神様と考えられるのです。
常世の神は、秦氏の祖神でありスクナヒコナだと私は思っています。

秦河勝は、この常世の神の記事のすぐ後に播磨の大避神社へ避難します。
秦河勝を祖とする世阿弥は「風姿花伝」の中でこの時の事を語っています。

「難波の浦から、うつほ船に乗って、風に任せて西へ向かったのだった。すると、播磨国坂越(さこし)の浦についた。浜辺の人達が船を引き上げてみると、乗っていた人は人間ではなかった。人々に憑依し、祟り、奇端をなした。」

秦河勝が播磨についた時には、祟る鬼になっていたと書いてあるのです。
644年7月の常世の神の出来事が、原因になっている事は想像に難くありません。

常世の神が秦氏の祖神とするならば、秦氏が自ら誅することはありえません。
また常世の神の化身とされる常世の虫は、とも考える事が出来そうです。
殖産を生業とする秦氏にとって、は大事な富を産む虫です。

現在、歴史が見直され、蘇我氏は律令制度を推進しようとしていたのではないか、と考えられています。

律令制度は、万民とその土地を一度天皇の下に集め、その後に再分配するという制度です。
蘇我氏は、秦氏の財産である、養蚕していた土地を奪った、或いは奪おうとしていたのではないでしょうか。

播磨の地で秦河勝は鬼となります。
そして、蘇我入鹿は韓人(朝鮮系)に殺されます。

古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」と言った。
(日本書紀)

これで次はスクナヒコナの話が出来るかな